Welcome
古本屋日誌
2021-11-18 17:53:00
京都は80年代初頭から根っからの観光都市となった。
寺社仏閣や石庭だけを目当てに全国から客がやってくる。
また京大も同志社も立命も名物となって観光バスがやってくるし、時計台にはその客を当て込んだちゃんとしたレストランができたしいろんなグッズを売る店舗もある。
大学にやってくるたくさんの客を見て、これは金儲けになると早稲田大学の吉村先生などのエジプト研究者とコラボして「京都ビール」と称する地ビールを4種類も開発して高級スーパーなどに卸す一方学内のレストランでも出している。
また正門横には朝から酒も飲める時計台よりは安い食堂も開設されている。
熊野寮にも修学旅行の高校生やフーテンやバックパッカーの連中をはじめ「学会で京都に来たけど宴会で酒を飲みすぎてよくわからなくなったから泊めてくれ」などという正体不明の連中がやってきていた。
iPhoneから送信
2021-11-17 14:11:00
文藝春秋から樋田毅の「彼は早稲田で死んだ」が出た。
1972年に学内で起こった川口大三郎殺人事件の顛末を当事者が書いたものだ。
川口は中核派のシンパだとされて当時早稲田大学を支配していた革マル派に殺された。
著者は早稲田の2回生だったんだが、憤激して学園の暴力支配を許さない❗️とばかりに新しい自治会を作ろうと奮闘する。
しかしその過程で学内で革マル派に襲われ両足や腕を鉄パイプで滅多撃ちにされて重傷を負うことになる。それでもしばらくは自治会運動を続けた。
著者は暴力に対抗するためとしてこちらも武装して対抗していたのでは意味がないし支持も得られないと考えてあくまでも非暴力を貫き通したのだから大したものだ。
このおよそ半世紀も前の事件に関して、革マル派の幹部であった大岩さんに著者は粘り強くアプローチして対談にこぎつける。その模様も逐一記してあってなかなか興味深い。
その中には「やられたらやり返す」の精神が溢れている箇所がある。
1972年のある日著者は学内でビラまきをしていたら革マル派の大岩さんがやってきて
「おい樋田❗️お前は暴力支配とかビラに書いてるがその本当の意味を教えてやろう❗️」と大声で恫喝されながら自論の講釈をたらられることがあった。
樋田はこのことを半世紀後も決して忘れておらず恐怖に慄いていたのだがその日のことを当事者の大岩に覚えているか聞いてみたら
「いや、覚えてないです」
というわけだ。
そして著者は自身が革マル派に重傷を負わされた話や、川口大三郎を殺したとして逮捕された革マル派のメンバーが進んで罪を認めて謝罪したこと、事件後早稲田のノンポリ学生が暴力追放に立ち上がったことなどをたたみかけるように大岩に話していく。
当初は「われわれからみたら暴力追放と言って学内に集まっている学生が一般学生なのか、セクトの反対派の連中なのかわからない。」とか「やはり暴力に反対している連中は対抗するセクトのやつらだとしか思えなかったわけです」と言っていた。
しかし樋田の剣幕に押されてか最終的には
「本当に申し訳なかった。すみません」とあやまることになる。
iPhoneから送信
2021-11-16 16:04:00
京都は根っからの観光都市だ。
寺社仏閣巡りや石庭を訪ねてこころゆくまで旅行を楽しんでいる。
ただ井上章一の書いている通り1980年くらいまではお寺巡りごときではみんな満足しなかった。
木屋町通りには風俗店が櫛比して、夕方からはひつこい呼び込みがあったし、五条楽園は遊郭だ。料理は昔も今も大したことはなく、美味しくない上に観光地料金で高い。
われわれも1983年の五山送り火の際、びっくりするような出来事があった。
川端丸太町の鴨川の河川敷で、左大文字の送り火を見ようとすずなりだ。
ここから熊野寮はごく近くて4階の屋上からはきれいに送り火が見れることを知っているので
その辺にいた二人組に
「あんなあ、この近所の4階建ての熊野寮ゆうのがあるんやけど、そっからやったらもっときれいに見えるよってあんたらも見にけーへん❓」といつものように誘ってみると
「いくいく行く❗️❗️」とてくてく歩いて4階まで登って美しい送り火を見た。
「これから飲みに行かへん❓」
「嵐山でね、精霊流しがあってね、嵯峨野で一泊して明日は瀬戸内さんのお寺行って、芭蕉のとこ行ってて忙しい忙しい」てなことをおっしゃる。
なんでも東京からこの日のために有休を取って旅行代金もなけなしの給料から捻出して喜び勇んで京都観光に駆けつけたんだと言うのだ。
そうなのか、大文字の送り火や嵐山の精霊流しそのものを目標に日々仕事に励む連中がいるのか❗️
実は私の従兄弟は結婚式でこう語っていたのだ。
「私たち2人の出逢いは京都の大文字焼きでした。その日に出かけて河合橋から左大文字をちゃっちゃと見て『〇〇さん、俺と真剣につきおうてはくれまいかな❓』と告りましたよ」
つまり送り火なんか単に恋の舞台装置で、雰囲気をかもしだすために利用してやったワイ❗️ということだ。
それが大阪の人間の普通の感覚だったんだが、どうも世間には全く違うへんなことを思い浮かべている連中がいるもんだ。
iPhoneから送信
2021-11-15 15:53:00
1980年代は男女が知り合う機会は紹介してもらうが1番多かった。
といっても
「今度な〇〇さんゆう子がなちょっとあんたと話したいゆうてるからおうたってや」みたいにデートを設定してしまうと、2人の関係がこじれた時とばっちりが紹介したこっちにきてしまう。
「あの人、この頃全然おうてくれへんねん、どないしたんやろか❓」とか「そんなん知らんわ」と言うしかない話を聞くハメになってしまう。
だから片方(積極的ではない方です)には何にも言わないでおく。
「今度な、近所でえらい大きな花火大会あんねん❗️わしの連れとかな何人かくんねん❗️あんたもな是非とも来てな」
とか「今度な釣りに行かへんか❓一緒に何人かくんねんけどな」てな感じで出会いの場を設定するわけだ。
何人かく来るゆうてるが、実際には男1人だけとか女1人だけとかだから、ちょっと考えたらわかりそうなものだが、バカはどこにでもいるものでまるで気が付かないのもいっぱいいるのだ。
iPhoneから送信
2021-11-14 18:19:00
夜中にわざわざ大文字山に男とはしゃいで登るような女は珍しいわけではない。
靡かなかったからとて、その時は草臥れていて、早く寝たかっただけだろうから、わざわざ訪ねて詫びなど入れる必要はないと思った。
しかし田中くんはひつこく「頼むから❗️頼むわ。」と言う。
「あのな、一緒に行ってくれたらな、わしの妹が京都の大学に行っとんねんけど電話番号教えたるさかい頼むわ」てなことまで言い出す。
80年代はネットも何もないので男女の出会いはもっぱら友人からの紹介によるものが多かった。
だから別にとっぴな話ではなく妹から「誰か、にいちゃんの連れで適当な男を紹介して❗️」てな話があって「わかったわ、どんなんがええんや」てな会話があってのことであることは間違いがない。
つまり私の知らないところで女の方に一方的に個人情報や何やかやが届けられていて向こうはやる気満々だというこなのだ。
いざ出会ってみて「これはやばい女だよなあ」となったとしても先輩の妹さんとなると断りにくいし、女の方もそれを頼りに居丈高になってくる危険性もある。今よりものすごく面倒な時代だったのだ。
結局私は田中くんと一緒にC棟に出向いてNのドアをノックして出てきた女に
「すんません、わしB棟の三階におる須崎ゆうもんですけど、田中くんが先日のことを詫びたいゆうて今日一緒にきてるんですわ。なんかえらいひつれいなことしよりましたやろうけど、心広うにもたれて許したってもらうわけにはいかしませんやろか」
てなことを頼んでいたら、辛抱できなくなったのか田中くんが後ろから出てきて(彼は私の左後ろに隠れていたのだ)
「なあ、頼むわ、もう会わんとか言わんといて欲しいんや」と小さな声でゆうてペコペコ頭を下げるので驚いた。
iPhoneから送信