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古本屋日誌
今朝はええ天気で快晴、風もなく穏やかです。
「漫画アクション」はわけのわからない漫画を連載させたりする実験的な面白い雑誌で例の「土竜の唄」の高橋のぼるも「シスターまりん」を連載していた。これはマッドな司祭と汚れなき美人のシスターのどたばた喜劇なんだが、司祭のマッドぶりがなかなかのもので人間の形はしてはいるものの、実は太古の三葉虫やバーチェス頁岩の出た時代の怪虫の遺伝子を受け継いでいるという話で、その男の脳内の描写が奇怪で驚かされた。他にも「おさなづま」とかも変態の旦那と借金のかたに無理やり嫁にされた女の話で女体盛りでお造りを食べたりバカバカしくて面白かった。
「アクション」の最新号に大友克洋と矢作俊彦の「気分はもう戦争」の最新作が載っています。近所のコンビニにはおいておらず、天満橋のジュンク堂に行ってみたら平台に40〜50冊積んであって「お一人様2冊まででお願いします」とある。
それはそうとして内容だが、極東情勢が劇的に変化し、北朝鮮に観光客や投資家が押し寄せてくる話で北がこれまで心血を注いで開発してきたテポドンなどの核兵器は解体され、処分されたことになっていたが、投資家を乗せたバスの近くで爆発が起きてしまう。
爆発を遠景で捉え、手前にバスを置いて乗客の様々な反応がふきだしで示してある。「まだこんなものが残っていたのか⁉️」というまっとうなものもある一方で、「これはアトラクションなんでしょ、すごいねー」とか「弾頭の中に中和剤が入れてありますから、放射線は大丈夫です」とかわけのわからないのも混じっていて楽しい。ポスターも付いていてなかなかお買い得ですな。
昨日仕事で三ノ宮のジュンク堂に出向いて漫画売り場をのぞいたら、アクションはたくさん平積みになっていて特に冊数の制限なんかはないようだった。
今朝は薄曇りで春たけなわですね。
小島政二郎の「場末風流」は昭和35年に単行本が出てその後一部が旺文社文庫になったんですが、単行本の方は400頁以上あってしかも二段組みになっていて情報量も豊富で今も人気です。
小島はとにかく悪口が止まらない人で誰であれお眼鏡にかなわない芸人、作家に容赦がない。この本でも三遊亭百生のことを東京へやって来たものの人気も出ずまた大阪に舞い戻って「長屋の花見」を演じていたが、嫌味だし、こなれてなくて哀れを催したなどと書く。
小島に言わせれば落語にせよ講談にせよ、歌舞伎にせよみた芸の力ではなく説明して客に伝えようとするのがそもそも堕落だと一刀両断、なるほどまあそうなんだろうがこちらはそれほどの名人の芸を目にしたこともないので感心するばかりだけどね。昔は芸人風情とあからさまに差別していて蔑むところもあったから、よほどの道楽者か、芸に取り憑かれたやつとかしか芸人にならなかったかもしれず、そういう差別が芸を鍛えることにもなったのだろう。
小島も言っているがものがわかりすぎるのも考えものでその名人が死んでしまったらあとはバカバカしくって他のお子ちゃま芸など見る気も起こらない。そのようにしてどんどん世間が狭くなっていくわけです。
岩波文庫のオールコック「大君の都」は人気のある日本滞在記で、イギリスの日本総領事として幕府との交渉にあたる一方全国を旅した話も収録してある。
中巻の最後に大阪や奈良を旅した話があって、大阪に関しては運河が四十発達しているが「ベニスに比べるべくもない」ものに過ぎず、また四天王寺に参拝した際も1時間も土煙が立つ中を歩かされて、暑い中寺に着いたが何も見るものがない、ただ五重の塔があるばかりで、失望したオールコックは「塔に登らしてくれ」と頼むのだが「大阪城代の意向で禁止されている」とにべもなく拒絶されてしまう。大阪城に向かうものの、外から眺めるだけで登城は許されなかった。
まあオールコックはバカですね、何も見えていない。西国防衛の拠点である大阪城にイギリスの総領事を入れないのは当たり前だし、四天王寺の五重の塔に上がらせないのもけとうに信仰の聖地を土足で踏み荒らされたくないということで至極当たり前ですね。
イギリスの植民地支配はオックスブリッジの落ちこぼれやならず者を派遣するのではなくエリートを遣わして出来る限りよくあろう、正義と民主主義を伝えようとするものだった。そのためインドではカースト制度が明らかに身分制度であり不公正と思われたので、とりわけチームワークが欠かせない軍隊では許されないことに思えた。そしてバラモンであろうがシュードラーであろうがハリジャンであろうが国のために等しく扱おうとこころみて、結果としてはセポイの大反乱を招いた。
そのてんでいえばオールコックは物事をきちんと見ようとする視点もなく、能力的にも欠如が目立ち徳川幕府からも与し易しとなめられていた、まあ言動を見れば納得できますね。
さすがに葉桜とはなっていますが、今年は長く桜が楽しめました。京阪萱島駅まえに建築中の緑の外観のビルは一階は何かショップになるようだが、上の階は保育所になるようだ。
集英社新書で酒井邦嘉の「チョムスキーと言語脳科学」が出ました。全ての言語に共通する特徴を見出し、さらに人間は生得的に言語を習得できる脳の構造を備えているから、幼少時、親が話す断片的な会話だけで十分な言語能力を持つに至るのだとする。
酒井はこのチョムスキーの言説が脳科学の進歩で裏付けられつつあると力説していて、まあアインシュタインの理論がブラックホールの発見で裏付けられたようなものかな。
大人になると言語を生得的に獲得できる脳のシステムは無くなってしまうから葛飾北斎スピードラーニング」みたいな聴くだけで覚えられるというのは、無理な話で、せいぜいビジネスや旅行に必要な英語や中国語レベルだったらいけるよ程度の話だろう。
2002年にノーベル化学賞を取った田中耕一は去年アルツハイマーの認知症は血液中のある2つのタンパク質の濃度のバランスが崩れると起きることを発見して「nature」に論文を載せて反響を呼んだのだが、これも体の元から持っているシステムが原因であると考えられる。
今朝も天気で行楽日和ですね、仕事で朝から三ノ宮に来ています。
世間には取り憑かれたように旅行に行って癒しを求める人がいますけど、ハラリの言う通り旅はいいものだとか、癒しを与えてくれるとか何か発見があるとかいった意味不明の共同幻想に取り憑かれているわけです。
だいたいが旅行は時間と金の無駄です。美味しいものとかいっても萱島や大阪の方が間違いなく美味い店があります。そもそもその場所で取れるものだけを使って料理を作るとわびしいものしかできません。徳川時代の農村や漁村は本当の意味で地産地消でしたが、時に飢餓に直面して餓死者もたくさん出したし、「日本残酷物語」にもある通り、あまりにも貧しいゆえに沖合を通る船を村落あげて襲撃して船荷を奪い取って渇を癒していたくらいです。
旅先の美味いメシといっても、つまりはいろんなところから食材を運び込んで調理しているわけで、大都会のお店がやっていることの焼き直しにすぎません。
また絶景を楽しむかいってもすぐ飽きてしまいます。ネットの画像で十分です。温泉とかいっても温度調節が自分の好みでできませんからすぐのぼせたり、寒かったりして不快です。冬は露天風呂は行くのが寒すぎるし、夏は風呂から上がるとまた直ちに汗をいっぱいかくので風呂に入る意味がそもそもない。
橋爪紳也が洋泉社から「写真が語る百番と飛田新地」を出しました。料亭百番の写真集で、以前も同じような本が出てましたが今回は百番の昔の写真や改装に取り組んだ所有者の話がたくさん収録してあります。これはこれで結構なんだが百番の写真を見ていると京都御所の勅使門とか小御所によく似ているなあと思うけどね。これは井上章一が島原の建築に関して御所に似ている、積極的に御所の様式を取り入れて遊郭の建物は作られているのではないかと書いていたが、飛田についても同じことが言えると思う。これは徳川時代の流行なのか、それとも御所のスタイルを教えることで遊郭の方からコンサル料とかを取って商売のネタにしていたのか、興味深い。