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古本屋日誌
NHKのBSで2020年から『いけずな京都旅』というのが放送されている。
先日その10回目があって、89分の長尺だった。
内容は伝統は革新によって守られるというもので、京都らしい様々な文物は、これまでの姿を墨守するのではなく、絶えず新しいものを付け加えることで守られるというのだ。
伏見稲荷の千本鳥居は徳川時代中期の『都名所図会』には描かれていないが、そこから90年後の図会には記されている。観光客の目を引くスポットとして割合最近作られたものということになる。
また伏見稲荷のある稲荷山には、明治時代に個人の参拝場所として『お塚』がたくさん作られた。これも今では名物スポットになっている。
化野念仏寺の、千体を優に越える石仏もさほど古いものではなく、先代の住職西村公朝が始めたものだという。
祇園祭の山や鉾に垂らすタペストリーもベルギー製とか舶来のものがたくさんあることはよく知られている。
建物では祇園閣や西本願寺の伝道院、平安神宮なんかが奇抜で、伝統を継承しながらグローバルな新しさを取り入れたものとして紹介されていた。
料理では祇園にある田畑智子の料亭は、伝統の料理に工夫を加えて客に提供しているという。
しめに出すおこわは表面はありふれた椎茸が顔を覗かせているが、その下には蒸し鮑があって、客があっ!と驚くものなんだそうだ。
俺は大いに違和感を覚えたなあ。
伏見稲荷の千本鳥居にしても、念仏寺の石仏にしても要するに観光都市なんだから、客の要求にお応えしているだけであって、伝統を守ろうという意志は感じないなあ。
だって伏見稲荷は、そもそも本堂に御籠もりして驗の杉をいただく行場が伝統だったのに、それとは全く関係のないものを客の要望で作ってしまったわけだから。
第一京都の人に景観を守る意識はないよね。
大東亜戦争の空襲もほとんど受けておらず、中心部でも旧市街と言ってさしつかえない町屋が残っていたにもかかわらず、頓着なく破壊して、東京や大阪と変わらない変哲もない街並みしてしまった。
もちろんビルやマンションにして店貸しにした方がはるかに儲かるからだ。
観光都市としてはこれは致命的な欠陥で、すでに1960年代から「京都は街並みとしては見る価値はない」と西洋人の間では定まった評価となっていた。
現在でも実は京都観光に来る外国人にさしたる富裕層はいない。
どう考えてもチェコのプラハとか、イタリア、ポルトガルの伝統的な都市の方が優れているからだ。
俺が京都に感じるのは、よく正体も掴めないようなおかしなこだわり、執着だな。
街の景観や社寺仏閣の景色を大きく変えることは問題ない、とお考えだ。
これが大問題で伝統を受け継いでいるなどとは到底言えない。
祇園祭にしてもルートは大きく変更されていて、そのため山鉾が狭い寺町通の町屋を通る時の風情は今や全くないけど、気になるという声は京都の人からは少ない。
食べ物は、料亭は何万も払うわけだから、うまいのは当たり前の話で、それ以外の普通の料理はそれなりの値段であるにもかかわらず美味しくない。
これは観光都市の通弊であって、客は舞い上がって金を使う気で来ているし、そもそも味覚なども怪しい人たちだから、京都の人たちは舐めているんだろう。
例のにしん蕎麦にしても、鯖寿司、祇園祭の時の鱧にしても、伝統的な蕎麦屋にしても、残らずまずいのはすごいよね。
古本屋も学生がたくさんいるので、大名商売だったから、商売のやり方はずっと変わらない店がある。
また差別意識は強烈で、部落差別のような非常識で論外なのでも、人前も憚らず大の大人が堂々と差別発言をしたから、俺には驚きだったよ。
下京、中京を特別視して、宇治だとか嵯峨の人は京都の人ではないという意識も強いよね。
大阪など論外と考えておられます。
差別意識を支えているのは自分たちを特別視する考えなんだろうが、その基礎にあるものが俺にはよくわからない。
別段伝統を墨守する気は、サラサラなく、むしろそれを破壊しているのに、なぜか全く新しく作り上げたものに感情移入して誇りを感じているようなのだ。
大阪の連中は、そもそもこれまでの文化に価値を認めていないので、ひたすら破壊して、自分の思いつきで適当なものを作り上げることに価値を見出している。
近視眼的なバカの発想だが、京都ほど捻れておらずシンプルではある。
今日から谷町四丁目の古書会館で古本市。早速朝から行ってみた。
今回は文芸書を専門にしている矢野書房も参加しているほか、地図や一枚もの、近代文献のアジア号、SFの古書ディック、西洋文学の寸心堂、真木書店、汎書店、厚生書店、唯書房、淡路の古本屋など。
今回は淡路の古本屋が大量の洋書を出していたのにびっくりした。
このところ古本屋は仕入れが楽になっていて、年中満遍なくお客さんからお呼びがかかる。
亡くなる人がたくさんいてその遺品整理を遺族が依頼してくるのに加えて、大学の教員の定年退職も、老人の人口が増えているため増加していて、使用していた研究室の蔵書の整理も依頼されるからだ。
古本まつりも、従来は今月初めの百万遍のやつで終わりだったが、今月はこれからまだ神戸と京都で予定されている。
京阪電車の特急停車駅である京橋に到着する際のアナウンスはやかましい。
音量が大きい上に、日本語、英語、シナ語、朝鮮語の4つを順にやるものだから、時間も長く、すぐ前の野江駅を通過してすぐに始まるのだ。
阪急電車はやはり特急の止まる十三では、音量が低く、囁き声みたいな感じで、言語も日本語と英語だけでスッキリしている。
JRの芦屋駅も新快速が止まるのだが、アナウンスは日本語と英語だけだ。
京阪はなぜシナ語やら朝鮮語でもアナウンスを行っているのか、よくわからないな。
以前中島義道が、『うるさい日本の私』でくだらない、わかりきった鉄道のアナウンスを取り上げて批判し、自ら鉄道事業者に抗議してやめさせようと有言実行する様子を書いていたなあ。
中島もこの本で書いているが、大半の人はやかましいアナウンスを問題視しておらず、気に留めてもいない。
今日もかなりぬくい。11月の半ばなんだが、日中は汗ばむくらい、20度をかなり超えている。
仕事で神戸に行かないとならないのだが、お昼前にJRは事故があって不通にになっているので、京橋周りではなく天満橋から東梅田に出て、阪神電車を使うことになった。
介護が必要な老人のデイケアに従事している久坂部羊が講談社現代新書から『人はどう老いるのか』を去年出した。
想像の通りわがままで、医者や職員泣かせの老人の姿が書いてあるのだが、歳をとると今まで当たり前にできていたことが、出来なくなるとか、腰や膝をはじめ不具合が出てくるのは必然であるとかいうことをわかってない人がたくさんいるという。
これはエイジングケアと称してサプリを摂取したり、適度な運動を心掛けたり、生活習慣を改めたりしたら、若い時のコンディションを保てるのだという宣伝が蔓延していて、それに踊らされているからなのではないかと久坂部は書いている。
結局老化に伴う不具合を嘆くのではなくて、死に至る準備として捉えて、その不具合を楽しむ心構えが必要だというわけだ。
これはすでに『荘子』内篇で説かれている考えなのだが、2000年以上の年月をけみして同じ知恵が論じられるのも面白い。
自営業者としての自分の労働時間を確認するために、一日のルーティーンを確認してみることにした。
まずは夜10時くらいから1時間半かけて、翌日朝に出荷する本を書庫から探し出して、クリーニングして、梱包し、あて先などを印刷して、すぐに郵便局に出せる状態にする。
本は仕入れた日付順に並んでいるし、検索もできるので、通常は探すのが困難ということはない。
翌朝、9時くらいに起きてのんびりご飯を食べ、掃除をして、ネコ様のお世話もして差し上げてから、30分程度かけて、夜のうちに来た注文の発送準備をし、そのまま郵便局に持ち込む。
ここは自宅から徒歩5分で着いて、受け付けてもらうのだが、窓口では5分程度で済む。
その足で京阪電車に乗って(12時くらい)、昨日なら京都のお客さんのところに出向いて本を売ってもらった。本をリュックに入れてまた京阪に乗り、車内で一冊一冊値付けをしてサイトにアップする。帰宅したのは4時くらい。
というわけで1日6時間程度仕事していることになるな。やはりかなり仕事しているよなあ。