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古本屋日誌
2026-09-14 20:38:00
2014年に吉川弘文館から、出た『豊臣秀頼』を読んだ。著者は福田千鶴先生で、帯には「いま、徳川中心史観による虚像を剥ぐ」とある。
まず秀頼が二条城で家康と対面した際の内容が詳細に記されてあった。
「太閤殿下が亡くなられた際、倅が15になったら天下を返してほしいと言われ了承したが、関ヶ原でわたしを攻め滅ぼそうとされたので、その約束は守りません。ついては、大阪城の侍で一万石以上のものは、隔年で駿府に詰めるようにしてもらいたい」
これに対して側に控えていた加藤清正が「大阪でお待ちの方々がおられます。お帰りになりましょう」と引き取り、秀頼も「そうやな」となった。
また、夏の陣で大阪城が5月7日に落城しても秀頼はおめおめと山里曲輪の蔵の中に隠れて助命を願ったという話が、司馬遼太郎の『城塞』にある。
しかしこの本では様々な一次資料にあたって落城の日に死んだという記録も複数あることが示されている。
福田先生の解釈は、8日の朝、秀頼がいたという蔵は既に焼け落ちていたから、8日未明に自害し、焼け残りの蔵を守る豊臣の家臣たちを見た片桐且元が、秀頼生存の誤報をもたらしたのではないかというものだ。
また生存説は、首を隠すための時間稼ぎだったとも考えられるとして、以前から城の三の丸跡地(追手門学院のところ)で発掘された馬とともに葬られていた頭骨が秀頼のものではないか、と続けている。
さらに夏の陣でも秀頼は一度も出馬し、士気を鼓舞することがなかったとの話が蔓延しているが、この本によれば秀頼は、五月6日、大阪、小人町近辺まで出馬しているし、落城した7日には、秀忠の陣する岡山表の金瓢箪の馬印も立てられて、「秀頼が出陣していると思われていた」とある。