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古本屋日誌
2000年1月に起きた、中学受験の進学塾の日能研関西の過労死事件のことだ。
算数課の課長だった酒井の授業のことを考えている。
彼は算数課の職員を統括する地位にいた。ただし、当時の算数課の課長は2人いて、もう1人は酒井より社歴の長い酒井浩だったから、彼に全ての職責がのしかかってくるということはなかった。
酒井はなぜか自分の地位や実力に自信を持てていないところが感じられて、不思議な思いを俺は抱いている。
ただ彼は自信を持っているところもあって、それは課長の職務であったり、社員や上司、友人の見立てだったりというあたりだ。
課長の職務については、書店でビジネス書をあれこれ物色して購入し、ノウハウを学んで、自信を持っていた。
しかしこれに関しても彼の自信ほどのことはなかったのではないかと思うのだ。
算数課にはテスト問題の提出期限になっても、出さない困った社員が複数いた。
酒井はその尻拭いで、自分で問題を作らざるを得なくなっていて、怒りを覚えていたことは間違いない。
俺はその当時そういう事情に疎くて、酒井と梅田で飲もうとなって、彼に知らせずにある算数課職員にも声をかけたのだが、酒井は「あいつなんか呼ぶなよ。腹が立つ」と真剣にむくれていた。
そういう厄介な社員への指導や扱いに苦慮していたわけだ。
しかし、宴会にやってきたくだんの社員を前にしても機嫌は直らず、ブスッとしたままなのはどうなんだろう。気持ちは向こうにも伝わってしまうし、管理職としては難しいところだ。
算数のオリジナル問題を作るのは、授業力とは全く別の能力が求められる。
先輩の東が言うには「いつも問題に出来そうな事象を探して、考えておかないといけない」。
また同じく社歴も長く、算数課の課長であった酒井浩は、雑誌『中学への数学』の常連投稿者で、毎月出題される難解なオリジナル問題を誰が速く解けるかを競っていた。
そういう素地があって初めて模擬試験の問題を作成できるわけで、当然ながら、力を有している課員は限られる。
能力的に無理な人にやらせても、レベルに達しないものしか作れないだろうし、結局自分がやらなければならなくなり、二度手間になるだろう。
本来は能力のある課員を配置するべきで、それは日能研関西の経営者がなすべきことなんだが、要するに経営者は無能だから、それは木によりて魚を求めるようなことだ。
また酒井は俺の授業がダメなこともわかっていたが、それを俺自身が気にしているだろうと考えていた。
これは俺という人間を見誤っている。
前にも書いた通り、酒井など社員と違い、俺は日能研関西に収入の重きを置いていなかったから、その程度の仕事で構わないと思っていた。
だから酒井が俺にクレームを伝える時に、さも気を遣っているそぶりをしていたのは、的外れなのだ。
彼が病に倒れる直前、2000年の1月中旬にも、「来期の予備校の出講はどないなったん❓」と聞かれたが「これから博多で西南大、福岡大などの直前講習があるし、来期も九州で3日、河合塾で2日ある」と答えたら意外な顔をされた。
また1999年は彼のご母堂が還暦で、それを祝うために妹さんも含めて、大阪見物に招いていたことがあった。(その事実は彼が亡くなってから、お母さんから知らされたのだが)
上本町校で授業の前に酒井が、大阪のガイドブックを見ていたので、「どないしたんや❓なんかあんのか❓」と尋ねたら、彼は口を濁して「ちょっとな」という。
大阪の名所なら俺に聞いて欲しいところだが、彼としては親孝行のことをあれこれ知られたくなかったのだろう。
いろいろ聞かれると恥ずかしいという思いもあったのだと思う。それは今ならわかる。
でも、その頃は酒井が俺の授業に不満を持っていることもよくわかっていたし、酒を飲みに行くのもわしではなく、社会課の阿部と行っていることも知っていたので、俺はちょっと僻む気持ちになった。