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古本屋日誌

2025-03-07 23:15:00

中学受験の進学塾、日能研関西で2000年に起きた過労死事件のことだ。

 

 

算数課のリーダーだった酒井の授業について考えている。

 

彼が初めて塾の仕事を始めたのは1985年のことで、当初京阪電車の丹波橋駅近くにあった「桃の木スタディ」という小さな塾だった。

 

まだ熊野寮に住む学生だった。

 

 

寮生の中には既に予備校で教えている学生もいたのだが、酒井は高校生や浪人生相手ではなく、小中学生相手の塾を最初から選んでいた。要するに数学の力にややコンプレックスがあったからで、そういう慎重できっちりした面があったわけだ。

 

 

その当時熊野寮は、その年の秋に予定されていた成田空港をめぐる闘争に取り組んでいたが、酒井はそれとともに柏木さんという障害者の介護や聖護院近くのマンションに住んでいた障害のある小学生の学校への送り迎えにも取り組んでいた。

 

 

成田空港の闘争については、空港の第三ゲート近くにある三里塚第一公園に武装して集合して、空港に突入する計画だった。

 

 

これは学生のある部分は、空港反対運動ではなく、反体制運動と考えて、取り組んでいて、つまりは日本の支配体制を転覆することを考えているわけだ。(反対同盟の人たちはそうは思ってない人も当然いるだろうけどね)

 

ただ酒井はそうではなく、身体を張って国家の圧力と闘う農民に共感していた、と思う。

 

 

柏木さんは車椅子生活なんだが、「自立して生活したい」と考えて、親なんかに頼らず、学生などのボランティアの支えで、京都駅近くのマンションに1人住まいしていた。

 

 

小学生の方は足に障害があって、車椅子なんだが、養護学級には入らず、学区の第三錦林小学校の普通学級に入っていたのだが、その送り迎えを学生などが支援していたのだ。

 

 

俺なんかはどうしても人手が足りない時にスポットで入るくらいだったが、酒井は真面目かつ真剣に取り組んでいた。

 

 

ハンディをかかえながらも、頑張っていきたい人を支えたい気持ちがあったわけだよ。

 

このへんは日能研関西での授業にも生かされていたはずで、真面目に勉強に取り組みたい姿勢はあるが、要領が悪い子どもや、手を束ねて悩んでいる子どもを目にしたらなんとかしてやりたい気持ちが溢れてきたのだろう。

 

 

それにしても、この年の秋、10月20日に酒井も第一公園に集合したのだが、集会とはいうはものの、それは表向きだけで、実際にはトラックを使って鉄パイプや石材、丸太などを運び込んでいて、阻止線を張っている機動隊を蹴散らして空港に向かう段取りになっていた。

 

 

集まった全員がそういう、面白けれど危険な取り組みをしなければならないわけではなく、酒井の話では「『どないする❓空港に向かうか❓やめとくんやったら、公園の中におったらええから』と聞かれた」

 

 

「迷ったけど、『行くよ』と答えて竹竿をもらった」というのだが、公園から出て交差点の方に進もうとしても、機動隊が打ってくる大量の催涙ガスに目をやられて、涙は止まらないし、咳き込むしで、どうとも堪らなくなって、近所の民家の庭に侵入して動かなくなっていたところに、機動隊員がやってきて逮捕された。

 

「マルキは『ラッキーやったな』ゆうてたよ」とのことで、逮捕時に殴られたり、蹴られたりはなかった。