Welcome

古本屋日誌

2023-12-18 01:18:00

大河ドラマの『どうする家康』というくだらないドラマも、ようやく終わったな。

 

 

最終回前後は、とりわけ極めて不快だった。

 

 

そもそも、夏の陣は、司馬遼太郎に言わせれば「日露戦争までの全ての戦争をはるかに上回る戦死者を出した」戦争であり、まったく意味のないものだ。

 

耄碌した家康のわがままによって始まり、自らも命を失いかける危機に陥った。

 

徳川幕府の正史である『徳川実紀』でも大坂の陣はまともに取り上げられていない。

 

また徳川時代に大坂の陣を扱った講談『難波戦記』は出版こそ許されなかったが、筆写で流通するのは黙認していた。

 

歌舞伎でも明らかに大坂の陣を扱った『先陣の館』の上演を認めていたわけで、それはこの戦争になんの大義もなければ、意味もなかったと為政者自身が思っていたからだろう。

 

 

それはさておき、この戦争についてNHKの『歴史探偵』が何度か取り上げている。

 

 

❶冬の陣では秀頼は淀川の堤防を何ヶ所も切り、城の北、東側を水浸しにして家康方の接近を許さなかった。

 

 

❷家康はこれに対抗して長大な堤防を築き、水の流入を阻止して、本丸の北側にあった備前島に(堤防を設置する前は水没していた)オランダ製の大砲を設置して、500メートル離れた本丸に砲撃を加えた。

 

 

現在新淀川の洗堰付近の河原(長柄)には巨大な石が打ち捨てられて残っている。

 

 

これは徳川の再建大阪城に使うための石材が残ったものと言われているが、そうではなく冬の陣の際、徳川方が築堤のために沈めたものだ。

 

 

❸冬の陣の際、城の南に作られた真田丸は城から独立した城郭であり、現在も残る心眼寺など、3つの寺院をその敷地内に取り込んで作られた。兵営として庫裡が使えるからだ。また、狭間と城郭の上の二ヶ所から家康方に鉄砲を放った。

 

 

❹真田丸には 3人がかりで操作する巨大な大筒があって、鎧の装甲を貫く威力をもっており、それを用いて攻撃していた。その模様は「冬の陣屏風」にある。

 

 

❺真田丸を攻撃する家康方は、塹壕を掘り、さらに築山を築いて高いところから砲撃し真田丸を攻撃して、同時に大部隊を投入して正面突破で落とそうとした。(大失敗に終わる)

 

大東亜戦争の直後に、焼け野原となった大阪を米側が空撮した写真があって、それを分析すると、家康方が築いた築山の名残が土地の高まりとして確認できる。

 

 

❻夏の陣では、信繁は茶臼山に砦を作った。茶臼山の南側には深さ5メートル、長さ二キロの湿地帯があった。信繁はそこに家康方を誘き出して一気に打ち取る戦略を立てた。さらに西側に大きな馬出しを作り精鋭を待機させた。

 

 

この馬出しは南に陣取る徳川方からは死角で、大軍が湿地帯に入った段階で密かに別働隊を出して、手薄になった家康の本陣を襲い、打ち取る戦略だった。

 

 

❼実際の戦闘では、徳川の大軍が湿地帯に入りきらないうちに浪人衆が攻撃を始めてしまい、本陣の守りが手薄にはならないという誤算が生じた。

 

 

などという面白い説が紹介された。

 

 

これはおそらく「城廓研究家」だという千田先生のお説なんだろうね。

 

 

最近出ている大坂の陣の本には全然載ってないからね。

 

 

確かに茶臼山のすぐ南には、今も河底池があって、まんまんと水をたたえているし、ここから南にずっと低い溝が、近鉄の河堀口駅あたりまである。

 

地名も谷町筋沿いに堀越神社というのがある。

 

つまりここは奈良時代の終わりに和気清麻呂が運河を掘ろうと10年にわたって苦労した場所なのだ。

 

(実は、環状線の天王寺駅周辺も、この奈良時代に掘られた運河の窪みを利用して掘鑿されている。)

 

 

それにしても、千田先生は、信繁が茶臼山を第二の真田丸にしようとしていたとの主張のようだ。

 

 

でも茶臼山はとても小さいんだよね。

 

長さは100メートルもないし、それ以外の東に伸びる溝は大した深さもないから、徳川方を立ち止まらせることは無理だろう。

 

 

真田丸はすぐ北側に鉄壁の堀を備えた大阪城があったからね、全然違う。