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古本屋日誌
司馬遼太郎の『城塞』という歴史小説は大坂の陣を扱ったものだ。
初出は1969年の「小説新潮」なので、随分前の作品だよな。
今では否定されていることも、その当時の司馬には史実と考えられてしまって、あれこれ書いてあるので、たかだか小説に過ぎないのに、洗脳されたみたいにいつまでも覚えているのは大問題だ。
例えば冬の陣の講和条件は外堀だけを埋めるとなっていたのに、徳川方は内堀まで埋めてしまったとなっている。
しかし、これはこのところの研究で否定されている。やはり内堀も埋めることになっていたのだ。
俺が一番気になる司馬の記述は、落城後の秀頼のことだ。
天王寺での真田や、岡山での大野治房の奮戦も虚しく、天守閣も焼け落ちてしまった後も、北の山里曲輪にあった蔵にこもって、助命を願っていたと司馬は言うのだ。
「城が落ちてしまったにもかかわらず、その責任者がおめおめと生き残り、蔵にこもっている」といい、秀頼は卑怯者で、武将としてなってないとこれでもかこれでもかと書いていく。
助命嘆願については家康は息子の秀忠に「何とかしてやれ」と言ったのだが、秀忠は拒否したと書いてある。
確かに城が落ちたのに、なお切腹もせず、おめおめと生き延びているなど言語道断だ。
俺は司馬遼太郎の作品で、秀頼や淀殿にいい印象は持たなかったな。
しかしこれも昨今の研究で嘘ではないかといわれているのだ。
秀頼は落城の日、天守閣の千畳敷で切腹して果てたとの記録がいくつも残っているのだ。
もちろん翌日まで生き残り、蔵に入っていたところを、外から銃撃されたという記録もあるが、それは豊臣家を傷つけるためのプロパガンダみたいなものだろうというのだ。
だいたいそんなに命が惜しいのなら、冬の陣の後、さっさと大阪を捨てて、大和なり、どこなりへの国替に応じるだろう。
それを拒否して一戦構えるわけなんだから、司馬の表現はおかしいのではないか。
1980年に木崎国嘉が『秀頼の首』を出した。
これは今の追手門学院の敷地から若い成人男性の骨が、首を切断されたかたちで出土したのを扱ったものだ。
地面にアサリなどの貝を敷き詰め、副葬品の唐津焼きの大皿や巨大な馬の骨も出土した。
木崎はこれは秀頼の首ではないかというのだ。
大坂の陣については天守閣の北川央なんかが、いろんな本を書いているが、なぜかこの秀頼の首に触れていない。北川としては否定したいということなんだろうか。
ただミネルヴァ書房から『豊臣秀頼』を出した九州大学の福田千鶴の本にはこの首について触れた部分があって、肯定的な書き方になっているし、その首が京都の寺に埋葬されていることにも触れている。