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古本屋日誌
気鋭の論客、御田寺圭の新著『ただしさに殺されないために』が大和書房から出た。
能力主義を差別だと切って捨てる姿勢がなかなか面白い。
部落差別や出身地、思想信条などで差別するのは許されることではない。
これは資本主義社会の当然の原則だ。
そんなことしてたら金儲けができないからな。
しかし御田寺は、仕事が下手くそな労働者とか、要領が悪くてみんなが出来る業務すら四苦八苦して迷惑をかけてくる連中を「能力に欠ける」として左遷したり、低賃金のままにすることも差別だというのだ。
「無能への差別を完全になくしてしまえば、この社会を運営するためになくてはならない『だれもやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事』をだれにも割り当てられなくなってしまうからだ。
だれかがその役割を引き受けなければ社会の維持が困難になってしまうそれらの仕事を、独裁国家のように強制動員によってまかなうのではなく、ごく自然な選択の結果として演出しながら、個人に引き受けさせるには『能力による序列化』が不可欠だ。」
こういう議論は随分前からあったよなあ。
全共闘の連中は『帝大解体』などと自己否定まがいのスローガンを掲げていたし、毛沢東が引き起こした文化大革命では学力試験による大学入試を廃止したりしていた。
こういう試みは悉く失敗したよなあ。
文化大革命などは、国全体が、大混乱に陥り2000万ともいわれる死者を出してしまった。
ただ話として御田寺の言っていることは間違いではない。
フェミニズムへの批判も面白い。
御田寺はフェミニズムが言語能力や競争に長けたインテリ女のための運動だという。
「先進的で豊かな社会に生きる、個人として優秀で生産的な女性である私の権利運動にすぎないフェミニズムの主張を、企業社会においてとりたてて優秀でない一般的な女性が、なんとなくよいものであると信じ込んでしまうことも多い。
(中略)
高い学力や知的能力を持つジェンダー論者や社会学者が唱える『ミスコン廃止論』は容姿によって女性を評価するコンテストが、女性から主体性を奪い、男性に奉仕する道具として見せるものだと批判する。
(中略)
だが、学力の高い自分たちにとって有利なルールを、あたかも万人にとって、「公平』であるかのように主張するのはいささか誠実性にかけている。
(中略)
知的能力や認知能力に長けているわけではないが、しかし対人的な魅力(あるいは性的魅力)の高い女性が、それを活かして経済力を獲得したり、だれかのパートナーとなれたかもしれなかい可能性をーそのようなものは差別的で不道徳で不公正な価値基準であると非難することでー閉ざし、代わりに「誰もやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事』に従事する労働者として参入させる道筋をつくった。」
なるほど、勉強なんかできない女もたくさんいるんだから、いろんな道がないといけないだろうという主張で、特に異論はない。