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古本屋日誌
昨日の晩は夜中の1時くらいからおそらく2時間くらいかなり風が強うて、物干し場のトタンやスレートの屋根がバタバタする音が聞こえました、それにしても兵庫の暴風警報は午後4時前、大阪のそれも少し遅れて発令され、全く風も吹いてないし、雨も降っておらず晴天なのにこの勇み足にあきれました。とにかく何でもかんでも前もって出せばいいというバカ丸出しの姿勢で、こういうことをするから、「警報なんかなんの意味もないやん、風もないし、アホちゃうか」となっていざという時も避難しないわけです。
でもまあ日垣隆がかつてこんにゃくゼリーで亡くなる人がいるから販売を規制すべきだとする意見に対してそんなこと言い出したら毎年毎年餅を喉に詰めて死ぬ人はかなり多い、だから危ないから餅を禁止すべきだとなるはずだし、毎日毎日風呂に入って脳溢血とかで亡くなる人が実に多い、だから風呂に入るのは禁止だとしないといけないし、家の階段からおって死んでしまう人も実に多いからもうこれからは家に階段を設けるのは禁止だとしないといけないだろうと論じていました。
「秀頼の首」の著者木崎國嘉が出した「大坂城余燼」を入手しました。「秀頼の首」は1980年にかつての大坂城三の丸跡の現在追手門学院の用地で江戸時代初期と目される地層から下に貝を敷き詰め、高価な陶器や、大きな馬を副葬品にした20代とみられる人物の首が出土した。首は介錯の時にできたとみられる骨の欠損があり、また江戸時代初期という時代を考え、立派な副葬品も考え合わせて被葬者は豊臣秀頼ではないかという。その人物は左耳が強い難聴で秀頼が1608年にほうそで重篤になった時の後遺症ではないかとも記してありました。天下の碩学、福田千鶴も著書の中でこの首が秀頼のものではないかといい、京都の清涼寺に今は埋葬されているそうだ。「大坂城余燼」は前著をふまえて秀頼を介錯したのは明石全登ではないかとして、山里曲輪の蔵から首を運び出して三の丸に埋葬して自らも脱出して土佐にのがれた、その子孫も健在だとして木崎は高知に出向いて取材をして裏付けを取ろうとしたルポです。
木崎の主張は基本的にはその通りだと思いますが、秀頼が山里曲輪にずっとこもっていたように書いてあるのはどうかなあ。天守の千畳敷で切腹した説が福田千鶴の本にも紹介してあるし、夏の陣の最後の日に出陣しなかったことが、秀頼が怯懦さ、優柔不断さを示す証拠として縷々取り上げられているが、秀頼は決戦前日などに何回も城から出て将兵を激励していたことも福田の本には書いてあるのでやはり切腹の場所は天守だったんじゃないかなあ。秀頼を貶めるための作文だと信じたいわけです。司馬遼太郎が「城塞」の中で敗軍の将が将兵が皆死に絶えた中でひたすら命を助かろうと蔵にこもっているのは理解に苦しむと書き、家康が落城の翌日戦場の見聞などもそこそこに離脱して籠で京都に向かい、途中からは馬に乗り換えて京都に入ったことも記していました。司馬はこれだけしか書いてないのだが、家康の話はまだ続きがあります。大坂を離脱する時に家康は「雨具の支度をしておけ」と命じ「いや、よく晴れて雨が降りそうもありませんが」という家臣に、「名将が命を絶った時は必ず雨が降るものだ」としっかり用意させて、予想通り京都に近づくと沛然たる雨となり何を思うたか家康は籠を捨てて馬で洛中に馳せ参じたわけなんです。司馬が名将云々のくだりをカットしてしまったのは腹立たしい。