Welcome
古本屋日誌
秦郁彦がPHPから新著『日本近代史12の謎を解く』を出した。
90を超えてなお、立派な本を出し続けられる精神的な強靭さは素晴らしい。
その中で幕末の動乱を論じたくだりがある。
秦郁彦によれば内戦では勝者は敗者を撫で斬り、つまり皆殺しにするケースが多い。(敗者の再起を封じるため)
だが戊辰戦争では、賊軍と官軍の死者は各4000人で、アメリカの南北戦争の62万人に比べて格段に少ない。
両軍は国際情勢を睨みながら、民衆を巻き込まないように自制しつつ戦った。
そのわけは、上級武士は、お目見えも叶わない下級武士や下級公卿の暴走と本気で対決し、争う気分を持てなかったからだ、というのだ。
なるほど、確かに鳥羽伏見の戦いなど、幕軍は敵の3倍の15000の兵力に加えて、最新の銃器で武装していたから、優位に立っていたのに、あっけなく敗退してしまった。
中公新書の『鳥羽伏見の戦い』で野口武彦が論じていたが、幕軍が攻め上った京街道は幅員がなく、数の優位性を活かすことができない。
通常なら西国街道、京街道、奈良街道と軍勢を3つに分けて攻めるのが筋なのに、なぜかそうしなかったとある。
これについて、これまでは、幕軍は士気が高くなく、それは追われる立場で、過去の遺物みたいな幕藩体制を支える気にはならなかったからだと説明される。
しかし秦はそうではなく、薩摩や長州の下賎な連中と本気でやり合う気にならなかったからだというのだ。
そういえば先の野口の本でも鳥羽伏見の戦いの火蓋は先に進もうとする幕軍を薩長が狙撃したことから始まったとある。
幕軍は目の前に銃で武装した敵兵がいるのを、重々承知で堂々と進んでいく。
つまり大君さまのご威光の前には薩摩や長州の下級侍など何ほどのものがあろうかと侮っていたからだと解釈できよう。
そして注目すべきは双方が平坦で見通しのきくエリアでやり合ったにもかかわらず、戦死者が非常に少ないことだ。
幕軍は「こんな下賤な連中とまともにやりあえるか‼️」と考えてすぐに下がったし、薩長も雲の上のような存在である幕軍の侍たちには遠慮があったということだろう。
ああいうバカと関わり合いになりたくない、勝手にやりたいならしたらいいという考えは、れっきとした差別でもあるし、また言い方を変えれば、侍の矜持、忍従ともいえよう。
そういえば、インドの独立につながったセポイの乱も、カースト制に基づく差別を保ちたい感情が元になっていた。
ともに、差別に意味があるといえる現象なのだ。
朝日新聞に先日政治学者の原武史が「象徴天皇制を問い直す」と題したインタビュー記事を書いている。
ーーー天皇制は「身分制度の飛び地」とも評されます。一方で、国民国家を成立させ、民主制を補完する機能も担ってきたとして評価する識者もいます。
という問いかけに対して原は
「それは近代天皇制を単線的に捉えた、不正確な認識だと思います。
(中略)後に天皇制国家と呼ばれるものは、国家神道の整備と大規模な行幸、学校教育によって、紆余曲折を経ながら形成されたものです」という。
徳川時代は侍とそのほかの大衆との間に身分差があった。
明治になって四民平等で、それらは解消されたが、天皇だけは特別な身分であり、これは人間の平等を基本にする民主主義に反するものではないかという指摘がある。
また反面、帝国臣民は天皇の赤子であって、区別はないとの考えから、部落差別などへの防波堤となったことも事実だ。
記者はこの点を、原に聞いているのだが、彼の答えははぐらかすもので、全然答えになってない。
確かに原は象徴天皇制は、存続を図るかやめにするか、きちんと論議する段階にきているとは言っているものの、歯切れがよくないな。
「時を司る」と称する『まんだらけ』のグランドカオスに行ってみた。
ここは堺筋に面する五階まである細長いビルだ。
マンガからソフビ、おもちゃ、看板、写真集や画集など幅広い品揃えだ。
活字本は文芸書、絵本、占い本、ミステリー、アーティスト本、オカルト本、文庫本は少数だが岩波文庫、講談社学術文庫、ちくま文庫、創元推理文庫などがあった。
なかなか面白い品揃えなんだが、活字本もビニールがかけられていて、中身が確認できないものが多い。
もちろん立ち読みをさせたくないためだが、買おうとする側からしたら困りものだ。
目次をチェックも出来ないし、小口のコンディションがわからない。
確かに立ち読みされてしまうと、汚れたり、破損したりはあるかもしれないが、マンガではないわけだから、ずっと長時間立ち読みするとは思えないけどなあ。
このグランドカオスビルはうなぎの寝床のように間口は狭くて奥行が長い構造になっている。聳える本棚と本棚な距離は狭くて、一人が横向きで通れる幅しかない。
ここで立ち読みされたら、客同士身動きが取れなくなってしまうとの配慮もあるのかもしれない。
でもそうなればそうなったで、逆に立ち読みを控えて、通路を譲り合うものだと思うけどね。
だいぶ前にまんだらけの梅田店に出向いた際、当時社長だった古川益三が店内にいて、「立ち読みはやめてください‼️」
「近くにはいくらもマンガ喫茶がありますから」と客に注意しているのに出くわした。
その流れからグランドカオスでも本までもラッピングすることになっているのだろう。
東野圭吾が1986年に乱歩賞を受賞した『放課後』の古書価が高騰している。
初版、帯付きはなかなか目にしないのだが、5000円以上するだろう。
東野は『容疑者Xの献身』で直木賞を受賞したが、この小説はつまらない。
別れた夫の暴力に耐えかねて、嫁と娘が男を殺害するのだが、そこに隣に住んでいる数学教師がやってきて、アリバイ工作をするわけだ。
でも男は凶悪で、女を殺そうとしていたわけだから、普通に考えれば正当防衛が成り立つはずだろう。
だからすぐに警察に連絡すればいいものを、無理から隠蔽しようとするストーリーは問題だ。
また身代わりにホームレスを殺害して死体を用意するなど、極めて不自然だし、不愉快な展開だ。
しかし東野は例えば『白夜行』(さらにその続きの『幻夜』もいい)などの傑作を書いているわけだから、なんとかして直木賞をとらせてやりたい気持ちが選考委員に働いたのだろう。
『白夜行』は900ページに及ぶ長編で、20年近い年月に発生した様々な事件を複雑に絡ませながら組み立てており、構成力が素晴らしい。
がんぜない小学生の男の子が自分の父親を刺し殺す展開も、無理がなくよく考えられていて、心打たれた。
経済学者の森永卓郎が遺著だとしている『書いてはいけない』を読んでみた。
森永は赤字国債の発行残高が積み上がって財政危機になっているから緊縮財政をしなければならないという財務省を前から批判してきた。
今回の本にもそのネタはあるのだが、主に森永が主張しているのは、85年の日航ジャンボ機墜落事故のことだ。
彼によれば自衛隊が演習で発射した飛行体が尾翼に命中して、操縦不能になったというのだ。
それでもなんとか高度を上げて飛行を続けていたが、さらに自衛隊機がミサイルを発射して、これがエンジンに命中して墜落したのだというのだ。自衛隊のミスを隠蔽するためなんだそうだ。
森永はさらに、日米半導体交渉で日本が不利な条件を受け入れたのは、アメリカが真実を暴露するのを恐れたからなんだともいう。
容易には信じられない話だけどね。
確かに自衛隊が原因で民間機に損害を与えたとなれば、大きな問題ではあろうが、1970年代初頭に雫石で自衛隊機と民間機が衝突して両方とも墜落して160人以上が死んだ事故もあったよね。
その時は隠蔽工作なんかもなかったわけだから、森永の主張はおいそれとは信じられないな。