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古本屋日誌
今日は年一回の健康診断で、新大阪に出向いた。
去年11月上旬に急に息切れして、階段を上がるのも大変になったことがあった。
内科を受診したら、血圧が180でビックリしたが、体調不良だったのは1日だけで、その後はなんともない。
今日の血圧は2回測った平均で117だった。
さて、3時くらいから、友人と飲みに行った。
立ち飲み「庶民」という店で、西中島の他に、梅田、高槻、京橋なんかにもある。
横長の店内は10人くらいがすでにきこしめしていらっしゃったが、まだ大丈夫。
びっくりしたのはおまかせセットで、税込600円で、大きな生ビール、おつくり(ハマチ、赤エビ)関東煮2品、コロッケという豪華なラインアップ。安いだけでなくみな美味い。
その後も生をお代わりし、唐揚げ、冷奴、漬物、ミンチカツ、本マグロのおつくりなんかも食べたが、みな150円とか200円で安い。
鳥山明の『Dr.スランプ』は、亡くなった後ジャンプコミックスの重版が行われている。
当初1、3巻を重版しただけだったが、現在ではほとんどの巻が書店に並んでいる。
しかし、なぜか2巻とか7巻が重版されない。特に7巻は古書価が高騰していて5000円くらいしている。
先日ジュンク堂の三ノ宮店に出向いた際「重版はかからへんの❓」と聞いたら「あー、『Dr.スランプ』ですね、今、出版社検討中と聞いてます」という訳のわからない返事だった。
この作品は全部で18巻でているのだが、最終巻にそのアシスタントのコメントが載っている。
なんでも鳥山は1人しかアシスタントを使っておらず、それも13巻からだというのだから、驚くよな。
鳥山本人は6日連続で徹夜して描いていたと振り返っている。いくら20代とはいえ、理解を絶する仕事ぶりだな。
買い物はそもそも楽しい。
このところ心斎橋や新京極のグラニフにしばしば出向いて、猫をモティーフにしたカーデガンやTシャツを買う。
7.8千円程度だし、嫁もこのブランドを気に入っているので二人で好きなものを選んで買うのは愉快だ。
また商売は古本屋なので、好きな本をいくらでも買うことができる。(といっても俺が気に入った本や、評価する本を売ってくださるお客様は少ない)
俺はすごくいいと思っているのにもかかわらず、古書価が安い本がある。その一つは杉浦幸雄の漫画だ。
代表作の『淑女の見本』は箱もついて1000円くらいで買えてしまう。
バカでどうしょうもない女の図鑑で、素晴らしい。
出てくる女どもは我欲にまみれていて、清々しいくらいで、鳥山明の『Dr.スランプ』のアラレちゃんの読後感とよく似ている。
『Dr.スランプ』が売れるなら、『淑女の見本』もヒットするはずなんだが、世間はバカばかりなのでそうはならない。
これは悔しい。
それにしても、長年仕事をしてお金を貯めていると、それをいつ、どう使うのか考えいなかったことに気がつく。
若い頃は給料も安いし、金も貯めないとと思うから、喫茶店に入らず、職場に置いてある、ただのインスタントコーヒーで済ませたり、三足500円の安い靴下をこうたりしていた。
でもそれは若かったからで、今はそれなりに収入もあるし、貯蓄もしているとなれば、例えば1000円以内の出費なら、300円であろうが、1000円であろうが何も変わらないことに気づいた。
このところ大人気の川瀬巴水の版画は初刷とかなら一枚20万くらいしているものがある。
俺は川瀬は好きではない。(どうだ‼️きれいだろう‼️そう思うだろう‼️)みたいな計算した人工物感が目につくからだ。
それよりは『浪花百景』の方がいいな。
これなら500万くらいで揃いの、いいコンディションのが手に入るだろう。
その程度の金額なら買えるだろうけど、さて、手に入れた後、今のおうちに並べても感心しないな。
狭すぎて並べきれないし、浮世絵はもっと薄暗い灯と障子や襖で囲まれたしっとりした空間に馴染むものだ。
そんな部屋はない。
またネコ様がおられるので、油断しているとバリバリと爪研ぎのグッズになさるやもしれない。
そう考えると、新しい大きな家が必要になるのだが、当然ながらそういう資力はない。
それにしても、おそらく世間の老人たちも、ある時点で「もうこれ以上稼いでも使われへんし、残したかてしゃあない、なんか好きなことにつこてまお」と決心する分岐点があるのだと思う。
子どもがいる人たちは、そいつらに財産を残してやろうと思うのかもしれないけど、それは子どもにとっては、完全な不労所得であって、褒められたことではないよな。
人間は人様のために、ひたいに汗して働いてお金を儲けるべきなのだから。
中公新書から先ごろ萬代悠の『三井大坂両替店』が出た。
徳川時代の大阪の両替商が、金を貸す時に、身元調査をどのようにやっていたかを詳細に調べたもので、さすがは碩学、大したものだ。
徳川時代でも担保の価値を厳格に査定していたのは当然なんだが、家屋についてもやはり、予想通り「新築」であるのか、「築浅」であるのか、手抜き工事はされていないか、堅牢さはどうか、などといった、今日と全く変わらない価値観で査定されていたというのが書いてある。
近世の大阪でも、伝統的な建築だとか、古い様式を残しているとかいうのは全然重んじられていない。
今日のスクラップ&ビルドの価値観が貫かれているということだ。
例の小泉八雲がエッセイで「大阪ほど、伝統を重んじる街は見たことがない。この後何百年経とうとも、今の街並みが変わるとは思えない」と書いていた。
俺はそれを読んで、(明治は遠くなりにけり、だよなあ。今の価値観とは逕庭大きいよなあ)と思っていたのだが、その感想は間違いだったのだ。
個人商店はどこも後継問題が深刻だ。
子どもに継いでもらいたい気もするが、そもそも性格が向いていないことも多いし、その商売の醍醐味がわかるわけでもない。
そうこうしているうちに、親は歳を重ねて、いつもなら難なくこなしていたルーティーンも億劫になってくる。
親しい古本屋も、今年の秋で店を閉めると聞いた。
「うっとこはな、もう50年、この商売やっとるよってな。
仕事はな、しんどないゆうても、店開けとったらな、前見とかなあかんやん。
ほんで心臓に持病もあるし、血ぃ固まらんようにする薬呑んどるよって、怪我してもうたら、逆に血ぃとまらんようになってまうさかい、気ぃつけやなあかへんねん。」
「せやけど、残念やわ、ええ本ようさん置いたあるし、おっさんとこ閉めてもうたら、本買いに行くとかのうなってまうわ。ほんでも辞めてから、どないしはんのん❓」
「そら、やりたいこともあるしな。時間て銭では買われへんよってな。まあでけるか、でけんかわからへんけどな」