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2019-07-24 07:26:00

訪問をありがとうございます。

 

昨日は、午前中に一般社団の活動を行いました。

 

・・・と言っても、ひたすら地域団体さんにメールを送るという、何とも地味な作業でして☆

 

隣では、友人がボランティアで経理をしてくれました。

 

そして、午後からはスマホ教室とその取材立会い、夜は自転車で20分ほどの距離にある会館で、区の長期計画説明会を聴講しました。

 

 

 

 

さて、昨日、ニッセイ基礎研究所の資料を読んでいたのですが、その時に『地域づくり』について書かれており、課題を改めて整理することができました。

 

徐々に本格議論されている介護保険制度改正について、2期前から予防の強化が進み、認知症施策大綱も加わったことで、一層の地域マネジメントが求められています。

 

つまり、『これからは介護保険等、保険財源だけでなく、地域住民も巻き込みながらみんなでまちづくりをしていきましょう』というものなのですが、この言い分自体は非常に当たり前のことです。

 

本来、地域というものは、そこに住んでいる住民が主体となり地域をつくり、行政というのは補完的役割を果たすことで地域の基盤を支えるという関係性が、諸外国をみていても通常のシステムなのです。

 

しかし、日本は戦後、素晴らしすぎる社会保障、そのなかにある社会保険のおかげで、国民は国や行政依存体質になってしまいました。

 

これは国が悪いとか国民が悪いとか、そういう話ではなく、高度経済成長期から2000年くらいまではそれができる体力が日本にあったというだけの話です。

 

で、悩ましいのは、転換のきっかけとなったのが、『財源・人材不足』から来たことなのです。

 

 

 

 

一般的な反応として、自発的に始めた活動に人はコミットしますが、言われてやらされる活動には責任も持たず反発しますよね。

 

それが今の地域づくりにも起きており、今後の行政の地域住民に対しての介入の仕方というものは、とても難しいと感じています。

 

本当は、どこの国でも住民が主体的に地域に関わり、行政はその活動の中で、地域住民では解決できない部分を担ったり、予算をつけたり、活動を担保することが望ましい形です。

 

一方で現状は、大半の行政が国の施策で動いているから、住民への配慮が足りず、ペロッと『こういうように国は動いていますので、皆さん、協力をお願いします』と言ってしまう。

 

行政としては、何ら間違ったことをしていません。

 

自分たちの役割を全うしているだけですから。

 

ただ、人って感情で動くのですよね。

 

その部分の配慮というか、戦略が求められているということは、理解された方が良い気がしています。

 

そうしないと、住民対行政という二項対立を生みかねず、住民からはそっぽを向かれ、行政は『ここの住民は意識が低い』という“自分たちはやることやったけど住民が協力してくれない”という、非常に残念な結果になってしまうことが予測できます。

 

 

 

 

何度も書いてしまいますが、地域づくり・まちづくりのポイントとなるのは、70代の方々です(本当のお互いさまを知っている最後の世代)。

 

この世代が元気なうちに、彼らの協力を得ながらまちづくりを進めていかないと、本当に日本という国は超個人主義の自己責任社会になってしまいます。

 

今回の国の動向は、地域がつながり、本当の意味での“幸福度”を考え直す、良いチャンスだと私は感じています。

 

だからこそ、言われたから取り組むではなく主体性を持って、他分野(子育て・まちづくりの課等)とも協力しつつ、その地域の良さを最大限引き出せるアプローチを、行政は住民に対して行っていただきたいと思います。

 

なぁんて考えながら、当区の来年度からの長期計画案説明会を聴講したのですが、企画課の皆さんは、しっかりと住民の声を聴き、丁寧に説明・対応されていました(今回異動された部長が素晴らしい能力を発揮されています)。

 

時代の揺り戻しで、社会システムが見直されている今だからこそ、個の損得を外して地域のために考え行動する。

 

良い意味での自分ごと化の伝播が、住みやすい社会をつくると考えています。

 

私も微力ながら、お手伝いできる部分はさせていただきます☆


2019-07-23 07:24:00

訪問をありがとうございます。

 

昨日は、地域の住民主体の研究会でスマートフォン講座について、20代の講師と一緒に講義の時間を持たせていただきました。

 

40名弱の方々にご参加いただき、彼にはスマホ教室の状況・効果の説明、私は地域活動と健康寿命延伸の因果性についての説明です(ガチ、フレイルとかサルコペニアとかそういう専門話と、科学的データに基づいた健康延伸の取り組みについての話をしました)。

 

いやぁ、70代後半から80代の方々に、堅い内容をいかにわかりやすく、聴きやすく話すかがポイントとなるなぁ~と思いながら始めたのですが、皆さんに楽しみながら、地域活動や他者との交流が、いかに健康に大きな影響を及ぼすかを理解していただき、良かったです。

 

終了後、『あの資料っていただける?』等、問い合わせをいただいたり、夜に別の会で参加者と会ったという知人から、『加藤さんの話が適度に緩くておもしろかったと言ってたよ~』と、間接的にお褒めの言葉をいただきました。

 

また、明日当法人で開催するスマホ教室に参加されるという方もおられ、あぁ、良かった良かったと思った次第です。

 

一歩ずつですが、地域の方々に協力をいただきながら、住民主体の活動を応援していきたいと思っています。

 

そして、一緒に10月オープンのサイトについての協力依頼もしてしまった私です☆

 

 

 

 

さて、今日はその研究会の後、スマホ教室講師の方と知人とで懇親会を行いました。

 

いやぁ、3時間、本当に濃い時間を過ごすことができ、本当に幸せだと感じています。

 

様々な話題が挙がったのですが、何が良いって、誰もがお互いの価値観を認め、大切な部分は(違いも含め)共有できたことです。

 

そして、『同じ方向を向いてそれぞれができることに取り組もうね』ということを確認できたことが、何よりの財産です。

 

 

 

 

今更ですが、実は介護の業界は、この『他人の価値観を認め合う』ということが難しい側面があると感じてます。

 

ケアマネジャーもですが、実は介護に関する団体数って少なくないんですよね。

 

その中で、いわゆる団体同士が連携できているのは、『日本ケアマネ協会』と『都道府県ケアマネ協会』と『(東京都の場合は)地域のケアマネ協会』です。

 

他、日本ケアマネジメント学会は、協会に入ってる会員さんも多数加入しています。

 

私は東京都の職能団体の活動を中心にお手伝いをさせていただいていますが、この団体の非常にステキだなと思っているところは、『主体的に地域と連携を図る活動を行っている』ことと、『WHATの研修を行うことで、有資格者全体のボトムアップに貢献している』という部分です。

 

『社会貢献』の視点で、東京都の看板を背負い、東京都や医師会等他職種とも連携を図りながら、医療福祉の貢献を行っています。

 

そして何より、職能団体自体がきちんと組織化されていて、各委員会では主体的に役を担った方々が、活動に参画してくれています。

 

その想いは、『現場のケアマネジャーの声をまんべんなく拾いながら、社会に求められる職能団体としてまとめていく』という部分のビジョンが共有できています。

 

各々の介護やケアマネジメントに関する思想・価値観はありますが、ビジョンがしっかりとしているため、建設的な意見交換ができるというか(あ、これは私の所属している2つの委員会の話です)。

 

相手の意見と自分の意見を二項対立的に捉えるのではなく、様々な角度から意見を聴き、『全体最適視点』で議論できるというのは、素晴らしいと思います。

 

 

 

 

一般に、他職種と比べて介護保険の中でしか活躍の機会のないケアマネジャーは、社会認知度でいえば、まだまだ低いですが、だからこそ、自ら役割を宣言し、その役割に向かって研鑽するということは、とてもとても大切だと感じています。

 

結果が出るには時間を要する取り組みですが、だからこそ長期視点でコツコツと、できることに取り組んでいきたいと思います。

 

目指すは、社会にとって必要とされる存在になること。

 

皆さんに元気をいただきながら、これからもできることは主体的に取り組んでいきたいと思っています☆


2019-07-22 07:27:00

訪問をありがとうございます。

 

昨夜は毎回チェックしている放送が更新されていたので、それを観ました。

 

NHKBSが放送している『欲望の資本主義』シリーズで、今回は『欲望の貨幣論2019』です。

 

https://www.dailymotion.com/video/x7ddulh(前編)

 

https://www.dailymotion.com/video/x7dj2q4(後編)

 

 

興味のある方はご覧ください。

 

 

 

 

そんなわけで、資本主義経済と人間の幸福という、本当にどうでも良いことを悶々と考えてしまったのですが、うまくまとまりそうで、今ひとつ、うまく思考をまとめることができていません。

 

というわけで、今日は別の話題を書こうと思います。

 

最近、様々な社会課題を目にしていますが、それらに対して感じること。

 

それは『実は、直接的な支援よりなにより、今の社会に一番必要とされているのは“理解”ではないか』ということです。

 

認知症、発達障害、虐待、いじめ、引きこもり、対人の悩みetc.

 

こういうのって、いわゆる『その道のプロと呼ばれる専門職』が介入して支援を進めることも必要だと思いますが、それ以上に大切なことは、『認知症(発達障がい・虐待・いじめ・引きこもり)の人が引き起こす言動を理解しようとすること』なんじゃないかなぁ・・・と思うわけで。

 

 

 

 

例えば『Aさんは発達障がいがある』という場合。

 

発達障がいというものを、きちんと理解していないと『障がいがある』にフォーカスしてしまい、『支援が必要!』となってしまいます。

 

でも、実は発達障がいって、社会不適合部分もありますが、同時に秀でている強みもたくさんあるんですよね。

 

『発達障がい』という言葉に引きずられるのではなく、『Aさん』という個人の言動をみて、『なんでAさんはこんな行動を取ったのだろうか?』と理解しようとする気持ちが必要だと思うのです

 

認知症についても同様です。

 

『Aさんは認知症』ときくと、『支援が必要!』ではなく、認知症という症状を正しく知り、理解することが必要なのではないかと思うわけで。

 

※私達は介護の専門職だから認知症と言っても、その進行具合によって様々な症状レベルがあることを知っていますが、世間様はそのあたりをよく知らず、認知症と聞くと『大変!』と思ってしまう人が多いわけです。

 

引きこもりや虐待については、その背景を知ろうとせずに、『状態』に注目してしまい、『なんとかしないといけないんじゃないの?』となってしまっていますが、必要なのは『なぜそうなったのか?』の理解の部分なのではないかと思うわけで。

 

今の社会には、そういうカテゴライズすることで『理解しよう』と言う気持ちが減ってしまったことが、生きにくさを助長している気がします。

 

そうではなく、『個人』をみて、『Aさんは認知症(発達障がい等)があるけど、こういう強みがあるよね』というように、状態を理解した上で、個人の持つ強みにフォーカスすることなんじゃないかなぁ、と思うのです。

 

これが本当の意味でのダイバーシティ(多様化)だと思うんですよね。

 

 

 

 

今の時代は『ちょっと変な人』の存在を許してくれません。

 

昔だったら、『ちょっとずれているよね。でも一緒にいるから折り合いをつけよう』というのが、『あぁ、あの人は〇〇(疾患名)だから(排除しなきゃ)』という感じになっています。

 

疾患名のついていないものには、状態を掲げて『問題ある人』にカテゴライズしてしまいます。

 

そして、お決まりのように、疾患や問題行動等を理由に社会の目に見えるところから排除しようとしてしまいます。

 

こういう社会って、なんだかつまらないと感じてしまうのは、私だけでしょうか?

 

いろいろな人がいて世の中は成り立っていて、だからこそ、大変だけどおもしろい一面がある。

 

その大変を排除すると、同時におもしろさも失われてしまうんですよね。

 

そんなことを考えながら、様々な年代の人がいる喫茶店で、朝からぼーっとし、『あぁ、どなたさまか私の面倒くささを受け入れてくれる人はいないかしら?』なんて考えている私でした☆


2019-07-21 07:24:00

訪問をありがとうございます。

 

今日は参院選挙投票日ですね。

 

期日前投票をしていない私は、この後、家族会議を行い選挙に行こうと思っています。

 

※選挙の時は、子ども達に選挙権がないため、各党派の主張をオトナが要約しみんなで話し合っています。最終的には私自身が決めるのですが、子ども達の意見を聴くと『はっ!』とすることがあるので、結構楽しいしお勧めです☆

 

我が家は子どもと一緒に選挙に行くのですが、この行為って結構重要だと感じていて、選挙に行くたびに『義務と権利』については、切々と語っています(ウザがられるけど・・・)。

 

 

 

 

さて、私は月に2回程度関わっている仕事で、『あらゆる新聞の社会保障関係だけを切り取った記事を読める』という特典をいただいています。

 

これは、本当にありがたいです。

 

の情報をたくさん集めることで、今後の社会が視えることが多々あるのと、同じニュース報道でも、各社の書き方や割く紙面の大きさによって、その新聞社の思想がわかります。

 

これがおもしろく、毎回3時間以上の時間を使って、半月分の新聞を読み込んでは重要事項をメモし、後日、情報を集約しながら将来予測をしている私です(ホント、オタクですね)。

 

で、私の個人的な嗜好を書いてもおもしろくないので、今日は『気遣い』というものについて書いてみることにしました。

 

 

 

 

結構・・・いつも感じているのですが、『気遣い』って、善いものと悪いものがあると私は感じています。

 

で、その善し悪しのジャッジについて、先日『どこで判断しているのだろう?』とぼんやり考えていたのですが、その答えを見つけました。

 

善い気遣いは、『私を私として考え扱ってくれるもの』で、逆に悪い気遣いは、『肩書きによって変化する扱いや型どおりなマナーや独りよがりな気遣い』です。

 

私はこんな感じで、気遣いを捉えているのですが、皆さんはいかがですか?

 

 

 

 

私を知っている人はご存じだと思いますが、私は肩書きによって態度を変えるということはしないです。

 

もとい、肩書きというものはあえて意識せずに接しているというか。

 

なぜかというと、『肩書きを先にみてしまうと、相手を正しく観察しないままに、ニセモノの気遣いをしてしまうから』なんですね。

 

これ、分かっていただけるでしょうか?

 

 

 

 

私にとって気遣いとは、相手を慮(おもんぱか)る気持ちの表れです。

 

例えば、『田中さん』という方がいたとして、その方が課長だとしてもヒラだとしても社長さんだとしても、今、目の前にいる『田中さん』の思考だとか、性格が変わるわけではありません。

 

でも、肩書きから入ってしまうと、『田中さんという人がはどういう人で、どうしたら田中さんが気持ちよくこの時間を過ごしてもらえるか?』を考えることなく、一般的なマナーを当てはめ対応してしまうのです(いつも書いている思考の停止です)。

 

つまり、肩書によって態度や態度を変えると言う行為は、私にとっては気遣いではなく、『ただの自己満足』だと感じてしまうのです。

 

あと、“私だったら”の思考も、完全に『独りよがり』だと思ってしまっています(自分と相手は価値観が違うから、自分の物差しでしか物事を考えられないのは、相手を慮っているとはいえないという考え方です)。

 

 

 

 

気遣いは逆だよ、というのが私の持論です。

 

そうではなくて、先に『田中さん』という人から入ると、『田中さんは何をされたら嬉しくて、何をされることがイヤなんだろう?』と相手の観察をします。

 

その後に、肩書きを『あ、今日はこのメンツで田中さんはこういう役を担っているから、皆の手前、ここは田中さんをこういう風に立てておこう』とか『この企業の社風はこうだから、この話題には気をつけよう』とか追加項目として活用する方が、本当の意味で、相手に合った気遣いができると思うんですよね。

 

・・・とそんなことを考えながら、夫と話をしていたら言われた一言。

 

『 一 番 大 切 な の は “ 自 分 自 身 が そ の 場 を 楽 し む こ と ” だ よ ね 』

 

なんだか、彼に敵がいない理由が分かるような気がした一言でしたが、同時に、もやっとした私でした。

 

そして、その後『確かにそうだね。で、その上で“相手に対しての気遣いって何だと思う?”』と、夫にしつこく迫っていた私でした。

 

あぁ、やっぱり私は面倒くさい人間です☆

 

皆さんは、他者への気遣いをどのように考え実践していますか?


2019-07-20 07:24:00

訪問をありがとうございます。

 

昨日は、ケアマネ倶楽部(地域の自主勉強会)で、リハビリの先生に講義をしてもらいました。

 

そして、この方の考え方は、私と通じる部分がたくさんあり、改めて同じ業界に目指しているものが同じ人がいるということに、心強さを感じました。

 

ここでも何度も書かせていただいていますが、今は時代の過渡期であり、介護保険制度もそうです。

 

その中で、ケアマネジャーが介護保険のルールに縛られている限り、介護支援専門員の役割は今後淘汰される可能性が高く、この視点の転換をどう行うかがポイントになります。

 

そのあたりを、どの程度のケアマネジャーが自覚しているかが肝になると思うし、そこを何とかしたくて私は活動を続けています。

 

今は、いわゆる介護支援専門員の自己満足に陥る研修(私たち頑張っているよね、とか、小手先のハウツー研修)ではなく、原点回帰された研修や、他職種の研修から自らの役割を内省するとか、そういう研修が必要になっているのだと感じています。

 

まぁ、こんな考え方を持っている人はごく少数なので、流行りませんけどね。

 

ただ、しつこく書きますが、『ケアマネジャーが、このまま介護保険制度の中だけの介護支援専門員に甘んじている限り、そして、担当ご利用者の支援しか視ていない限り、その将来は明るくない』です。

 

そうではなく、『介護支援専門員という役割を通じて、ご利用者の何を豊かにするのか?』『そのために私たちが行うことは何なのか?』の視点で自らが考えていかないとなぁ~、とか、いろいろそんなことを考えています。

 

目先のことや、個人の満足・損得で動く時代ではないということですね(社会はそんなものを求めていない)☆

 

それにしても、朝からこのテンションの私って・・・。

 

 

 

 

さて、そんなわけで、今日は『きちんと考えるということ』について書いてみたいと思います。

 

先日、『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』という書籍を読んだため、その中の一部を用いながら書かせていただきます。

 

例えば、道徳と倫理の違いについては、こんなことが書いてありました。

 

曰く、『道徳とは、善と悪、正しいことと間違っていることを区別する人間の能力である』とのこと。

 

そして、『倫理とは、道徳的な問題を考察すること』となっています(ただし、人の行動に干渉したり、こうすべきだと言うような行動に関する指示はしない)。

 

つい一緒にしてしまいがちな事柄ですが、こうして改めて一つひとつを考えてみると、違うことがわかります。

 

また、権利と義務については、こんな感じで書いてあります。

 

『権利は義務も伴う。多くの義務は私たち自身が何を正しい、何を間違っていると考えるかによる。また、法律で決められていて遵守しなければならない義務もある。例えば、子どもには教育への権利があるが、教育は義務でもある』

 

『社会は、私たちが法を守り、人として生きることを求める。もし法律や規則を破った場合は、罰側が伴う』

 

こういう原則的な部分や言葉の解釈をきちんと理解した上で、フィンランドの子ども達は『もし自分で宿題について決める権利があるとしたら、どんな義務がついてくるか?』とか、『現在の社会が認めないような権利はあるか?』などについて考え意見交換をします。

 

諸外国では、小学校の頃からこういう『考える力』というものを育んでいるわけで、それを考えると、グローバル社会と言われる現代で、日本人が議論が苦手ということもよく分かります。

 

 

 

 

どの物事にも一長一短はあるわけで、私は日本の教育は『高水準な質の担保』だと考えています。

 

つまり、全国民が土台の基礎部分はしっかりと学校で身につけることができるわけで、これは素晴らしいことだと感じています。

 

その上で、日本人がアップデートするのに必要なスキルは、『知識を用いて考える力を身につける術』と『それを第三者に伝える言語力』だと感じています。

 

だから、『フェンランドと日本は教育が違うから、今更そんなこと言われても・・・』とは思ってほしくないです。

 

誰でも、気付いたときから実践・訓練すれば、絶対にらせん状にスキルは上がっていきますから。

 

大切なことは、『言い訳せずに実践すること』なんです。

 

 

 

 

時代の過渡期は、答えという答えがないから不安に感じる人もいますが、逆に考えればチャンスがたくさんあるということです。

 

そして、思考力を始め、物事は鍛えれば伸びます☆

 

物事のポジティブ面を見て、未来を明るく捉えながら、今週末は、改めて、ご自身の仕事(ケアマネジャー)を通じて、社会に与えるインパクトを考えてみませんか?