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訪問をありがとうございます。
今日は参院選挙投票日ですね。
期日前投票をしていない私は、この後、家族会議を行い選挙に行こうと思っています。
※選挙の時は、子ども達に選挙権がないため、各党派の主張をオトナが要約しみんなで話し合っています。最終的には私自身が決めるのですが、子ども達の意見を聴くと『はっ!』とすることがあるので、結構楽しいしお勧めです☆
我が家は子どもと一緒に選挙に行くのですが、この行為って結構重要だと感じていて、選挙に行くたびに『義務と権利』については、切々と語っています(ウザがられるけど・・・)。
さて、私は月に2回程度関わっている仕事で、『あらゆる新聞の社会保障関係だけを切り取った記事を読める』という特典をいただいています。
これは、本当にありがたいです。
点の情報をたくさん集めることで、今後の社会が視えることが多々あるのと、同じニュース報道でも、各社の書き方や割く紙面の大きさによって、その新聞社の思想がわかります。
これがおもしろく、毎回3時間以上の時間を使って、半月分の新聞を読み込んでは重要事項をメモし、後日、情報を集約しながら将来予測をしている私です(ホント、オタクですね)。
で、私の個人的な嗜好を書いてもおもしろくないので、今日は『気遣い』というものについて書いてみることにしました。
結構・・・いつも感じているのですが、『気遣い』って、善いものと悪いものがあると私は感じています。
で、その善し悪しのジャッジについて、先日『どこで判断しているのだろう?』とぼんやり考えていたのですが、その答えを見つけました。
善い気遣いは、『私を私として考え扱ってくれるもの』で、逆に悪い気遣いは、『肩書きによって変化する扱いや型どおりなマナーや独りよがりな気遣い』です。
私はこんな感じで、気遣いを捉えているのですが、皆さんはいかがですか?
私を知っている人はご存じだと思いますが、私は肩書きによって態度を変えるということはしないです。
もとい、肩書きというものはあえて意識せずに接しているというか。
なぜかというと、『肩書きを先にみてしまうと、相手を正しく観察しないままに、ニセモノの気遣いをしてしまうから』なんですね。
これ、分かっていただけるでしょうか?
私にとって気遣いとは、相手を慮(おもんぱか)る気持ちの表れです。
例えば、『田中さん』という方がいたとして、その方が課長だとしてもヒラだとしても社長さんだとしても、今、目の前にいる『田中さん』の思考だとか、性格が変わるわけではありません。
でも、肩書きから入ってしまうと、『田中さんという人がはどういう人で、どうしたら田中さんが気持ちよくこの時間を過ごしてもらえるか?』を考えることなく、一般的なマナーを当てはめ対応してしまうのです(いつも書いている思考の停止です)。
つまり、肩書によって態度や態度を変えると言う行為は、私にとっては気遣いではなく、『ただの自己満足』だと感じてしまうのです。
あと、“私だったら”の思考も、完全に『独りよがり』だと思ってしまっています(自分と相手は価値観が違うから、自分の物差しでしか物事を考えられないのは、相手を慮っているとはいえないという考え方です)。
気遣いは逆だよ、というのが私の持論です。
そうではなくて、先に『田中さん』という人から入ると、『田中さんは何をされたら嬉しくて、何をされることがイヤなんだろう?』と相手の観察をします。
その後に、肩書きを『あ、今日はこのメンツで田中さんはこういう役を担っているから、皆の手前、ここは田中さんをこういう風に立てておこう』とか『この企業の社風はこうだから、この話題には気をつけよう』とか追加項目として活用する方が、本当の意味で、相手に合った気遣いができると思うんですよね。
・・・とそんなことを考えながら、夫と話をしていたら言われた一言。
『 一 番 大 切 な の は “ 自 分 自 身 が そ の 場 を 楽 し む こ と ” だ よ ね 』
なんだか、彼に敵がいない理由が分かるような気がした一言でしたが、同時に、もやっとした私でした。
そして、その後『確かにそうだね。で、その上で“相手に対しての気遣いって何だと思う?”』と、夫にしつこく迫っていた私でした。
あぁ、やっぱり私は面倒くさい人間です☆
皆さんは、他者への気遣いをどのように考え実践していますか?