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2019-09-19 21:53:00

連続投稿です。

 

こうやって、やることがあると現実逃避したい気持ちから『そろそろサイトを更新させないとなぁ~』と逃げてしまうのは、だらしのない私の習性です。

 

そして、締め切りの直前で変な汗と半ベソをかきながら『ヤバい!!!』と追い込まれている自分の姿が目に浮かびます。

 

今日は、サイトの取材・編集の方々で会議を行い、活動団体の取材のまとめ方の仕切り直しと役割分担の変更を決めました。

 

そして、12月6日午後に交流会を行うことを決めました☆

 

明日は、サービスBの後、社会貢献大學構築に向けた話し合いがラポールであります。

 

なんか、住民が誰に言われたわけでもないのに、主体的に『地域を良くしよう!』と取り組む姿は、とても元気をもらいます。

 

 

 

 

さて、最初に書いた通り今日は連続投稿ですが、前回の『今の社会の生きにくさ』について、平成生まれの方々から視た『生きにくさ』について、書かせていただきます。

 

今回は、平成生まれで初めて直木賞作家を受賞した、朝井リョウさんのインタビューを基に書かせていただきます。

 

 

 

 

朝井さんは、8組の作家がさまざまな時代の“対立”をテーマに作品を描く、という企画に参加をしたのですが、その中で『平成』を担当した時のインタビューです。

 

いやぁ、本物の作家さんは観察力・分析力に優れていますが、朝井さんもご多分に漏れず、素晴らしい分析をされていまして。

 

『平成って、平らかに成るといういう字の通り、もしかしたら“対立”を排除してきた時代なのかもしれません。国が豊かになったり、ナンバーワンよりオンリーワンという空気のもと、わかりやすい“対立”がなくなったように見えるのに、生きていく苦しさはそのまま残っている。対立じゃないよ、人と比べなくていいよ、という雰囲気が平成なのかなと思いつつ、そこに眠る違和感の手触りも明確になっていきました』

 

 

 

 

・・・もう、しょっぱなから言語力が高いです。

 

確かに、今までの社会で戦争のない時代は平成だけです。

 

戦争のような明確な“対立”のない時代で、かつ、SMAPの『世界に一つだけの花』がヒットしたり、『アナとナントカ』も“あなたらしさを大切にしなさい”みたいな内容だったと聞いているし、インターネットの普及で誰もが“自分発信”をしやすくなったのも平成。

 

そういう風潮に対して、平成元年生まれの彼が感じたのは『1つのゴールに向かって全員がしのぎを削って競争していくより、自分の個性を大切にしよう、自分の個性を磨いていこうという風潮がどんどん強くなってきた時代』であり、個性を大切にする雰囲気に潜む『見えない対立』に対して、このように表現しています。

 

『自分の個性、自分らしさを大事にと言われていますが、その個性や自分らしさが何なのか、実は誰にもわからないところに、平成らしい“見えない対立”の種が眠っていると思いました。(中略)“対立”は見えなくなっただけで、ずっとそこにあり続けているんです』

 

彼は、多様性という光の部分である恩恵の反面、人が持っている本能部分の“弱さ”という裏の部分について触れています。

 

『今回で言うと、人と比べなくていい、多様性だと言われたところで、どうしたって自分と人を比べてしまう、他者や世間の平均値からの差異でしか自分の輪郭を感知できない人間の弱さです。(中略)私は多様性という言葉から、自分で自分のことを決めていい快適さと同時に、自分で自分の意義や価値を見出していかなくてはならない地獄も受け取った実感があります』

 

 

 

 

確かに、自分で自分をジャッジすることはとても難しいかもしれません。

 

明確な“敵”がいないというか、ある意味“敵”は自分自身にもなり得るのですから・・・。

 

これは、まじめで順応性の高い人ほど採点は厳しくなるでしょうし、教育システムでは思いっきり相対的評価(成績表など順位付け)をしてきたのに、一方で『あなたらしくしなさいよ』と絶対評価という矛盾を突き付けられ続けてきたのが、今の若い子の感覚なんだということに、気づくことができました。

 

敷かれたレールの上を進むのは、外れた時に他者から非難は浴びますが、基準が明確なため不安はありません。

 

一方で『らしさ』は、角度を変えたら『常にこっそりと他人と自分を比べて自分の言動が正解か確認し続けなければならない』ということであり、常に不安が伴うことも想像に難くありません。

 

 

 

 

『今回のキーとなる重要人物は、国立大学に通っていますし、家庭も特に貧困層というわけではありません。友人もいるし、周囲の人から恋愛感情を向けられる章もあります。だけど、心の内側に煮えたぎる何かを抱えており、それが作品全体を貫く毒素となっています。彼のプロフィールだけ抽出すると、悩みなんてなさそうですよね。プロフィールだけ抽出して外側から見ると』

 

『それって、日本という国全体にも当てはまる現象なのかなとも思うんです。先進国で、物資も豊かで街もキレイで、水道をひねれば水が出てスイッチを押せば電気がついて、食べたいものを24時間買えるような素敵な国。何も問題がないように見えますが、それでもみんな生きづらさを抱えている。それってインフラが整っていない国の人たちからすると、“何が生きづらいの?”ということになると思うんです。だけど、そこらじゅうに毒素がある』

 

『その毒素には、今回“自滅”という言葉を当てはめました。目に見える形での個人間の対立が奪われていき、自分で自分の意義や価値と向かい合い続けた結果、謙虚とも違う自己否定が積もっていってしまう。その先には、自分なんてこの世界に存在していたって意味がないと思い込んでしまう“自滅”が待っていると思うんです。そして“自滅”の先には、まさに自分を滅しようとする“自殺”と、自分をこんなふうに苦しめている他者や社会もろとも滅してしまえという“爆発”があるような気がしています』

 

 

 

 

長文になりましたが、これは『NHK NEWS WEB』のインタビューから引用をさせていただきました。

 

この感覚は、社会で一度でも役割や肩書を持ったことのある人には理解しにくい感覚かもしれません。

 

が、我が家の長男(人生はムリゲーという長男)はこの記事を深く頷きながら読んでいました。

 

時代によって、生きにくさを感じるポイントは違うでしょうが、若い世代と接する機会が恐ろしく少ない私にとって、このインタビューは目からウロコの価値観であり心情でした。

 

皆さんは、平成生まれの感覚について、どのように感じますか?


2019-09-19 20:46:00

訪問をありがとうございます。

 

先日、おもしろいニュースを読みました。

 

曰く、『数十年で激変した世帯構成、政府が示すサンプルはすでに標準ではない』というものです。

あ、世帯サンプルというのは、この国で社会保障や税などの議論をされる際に『国民全体の縮図』として制度設計に大きく関わっている部分なんですよね。

 

そして、その『世帯サンプル』とは、お父さんが働きお母さんが専業主婦、子どもが2人の世帯(4人世帯、有業者1人)です。

 

私は実家がまさに『世帯サンプルそのまんま』だったわけですが、今の時代はなんと4.6%しかおらず、“4人世帯、有業者2人(両親共働き世帯)”ですら6.8%となっています。

 

ちなみに、現在最も多い世帯構造は“1人世帯、無業”で17.0%。

 

次いで“一人世帯、有業”で15.7%、“2人世帯、無業”と続きます。

 

1位も2位もお一人様が占めているところは、本当に今の社会をリアルに示していると思います。

 

そして、このデータだけで、実に様々な想像が掻き立てられたのは私だけでしょうか?

 

 

 

 

 

さて、私は8月から経済ニュースサイトを読み漁り、テクノロジーを始めとする進化や、様々な立ち位置の方々の考え方を知ったり社会学を再勉強し直したりしています。

 

改めて、社会の変革と現在を知り今後の社会を予測するという、まぁ、オタクな私にとっては至福の時間を過ごしているわけですが、実は昔からやっているこの方法は、非常にバランスが取れていると自分で感じています。

 

・・・というのも、ミクロとマクロの両方に触れることでその両方を行き来できるという、とてもありがたい環境にあるということです。

 

社会ニュースや社会学などでマクロの世界を学びつつ、一方で個別ケアマネジメントのミクロの世界にも触れている環境。

 

経済というビジネスの世界をマクロの視点で学びつつ、一方でミクロの地域活動やボランティア活動をされている方々の取材を行える環境。

 

本当にありがたいと思います。

 

 

 

 

 

これは来月中旬まで続けようと考えていますが、複数の社会学についての書籍や多世代の作家さんのインタビューを読む中で、ぼんやりとですが『今の社会の生きにくさ』について視えてきたので、久々にサイトを更新させていただきます。

 

今回は、歴史社会学者の子熊英二先生の書籍『日本社会の仕組み』と『私たちの国で起きていること』からです。

 

その本の中で小熊氏は、「世界中のさまざまな場所で分断が起きているが現代日本も『2つの国民』に分断されている」と書いています。

 

1つは、企業・官庁・労組・町内会・婦人会・業界団体など、なんかしらの組織に属している人とその家族。

 

もう1つは、それらの組織に所属していない人たち。

 

悩ましいのは、“所属のない人たち”には『縁』がないことであり、この人たちが抱える困難に対して報道も政策も十分ではなく、放置された所属のない人たちをどうするかが、目下の大きな課題の一つになっていると書いています。

 

 

 

 

恐らく、ケアマネジメントや地域活動など、アウトリーチをされている方々にとっては、『なにを今さら・・・』というところでしょう。

 

が、現実は、ようやく社会が課題に向き合い始めたというところだと感じています(それも薄目でコソッと見ている感じ)。

 

社会の仕組みの中で対応しようとすると思いっきりコストがかかるし、かといって格差が広がる現代では、これ以上“所属のない人たち”を見て見ぬふりをすることもできず。

 

今後の政策に注視しています。

 

で、個人的に感じたことですが、私は『情報不足等により所属できない人』と『安心よりも自由を選択した所属しない人』を見極める力が必要だと感じています。

 

何かの縁を持つことは安心につながります。

 

一方で、縁は、ウッカリすると『しがらみ』にもなり得るので、縁を持つということは100%自分の好きにしていた生活よりは制限を感じる部分が出てしまいます。

 

安心と自由。

 

今後、社会保障改革で『断らない相談窓口』等、いろいろな相談機関ができるとされていますが、“所属しない人”がどちらを希望しているのか、どの程度の安心と自由のバランス配合を希望してるのかを見極めながら対応をする必要があるなぁ~、と感じました。

 

でないと、『小さな親切大きなお世話』になりかねないので。

 

 

 

 

『安心』と『自由』。

 

どちらも心地よい言葉ですが、今の社会ではどちらも手にして生活を営むことは至難の業です。

 

そして、そのバランスに対する意向は人それぞれ違うので、間違っても、せっかく折り合いをつけて生活している人に対して、自分の目線で『この人にはこの支援が必要に違いない!』と決めつけて、無理やり介入することだけはしないでほしいなぁ~、と、老後は引きこもりになる予定の私は思うのでした。

 

大切なことは、『当人が何を望むか?』ですよね☆


2019-09-09 10:29:00

訪問をありがとうございます。

 

昨夜からの台風はだいぶひどい状況でしたが、皆さま、大丈夫だったでしょうか?

 

 

 

 

さて、突然ですが、今、私は新幹線に乗っています。

 

今日・明日と2日間で、毎年さわやか財団が主催している『助け合い大会’19』に参加するため、台風の中、8時には東京駅に着き、遅延している新幹線に乗車時間変更しての移動です。

 

今年は、当区地域活動でお世話になっている方がパネラーとして登壇されるほか、一番尊敬している方が主催者お手伝いで大阪に行かれているため、半分応援、半分冷やかし(?!)での参加です。

 

こんなことができるのも、私自身、ケアマネジャーとしての担当件数を5件に減らしたからです。

 

単独居宅介護支援事業所だからこそ、自分の稼ぎは自分で…ですが、どうしても腰を据えて地域活動をしたくなり、昨年10月から思い切って引継ぎを行い、1年間と期限を決めて会社にぶら下がることにしました(5年半頑張ったから1年くらい良いよね…と)。

 

というわけで、担当件数いっぱいで頑張ってくれている会社の仲間には、感謝感謝しかありません。

 

いつもフラフラしていますが、来春には私自身の給与を捻出すると同時に、地域の雇用拡大、企業と地域をつなぐ活動を、事業として行わないといけません。

 

あぁぁ、考えただけで胃に穴が開きそうですが、これはやると決めたので、頑張らないといけませんね☆

 

 

 

 

多分…恐らくですが、これから先の時代は、好きなことでつながることと、地域の緩いつながりが、人々の核になると私は考えています。

 

って、これは8年前から言っていますが、ようやく環境が整ってきたのが『今』だと思っています。

 

社会保障の縮小、テクノロジーの発達による便利さと引き換えに孤立化した揺り戻し、働き方改革による会社コミュニティの解体etc.

 

人は、自分の居場所というか、立ち位置があって初めて自分らしく行動・活躍することができます。

 

そして、今の人は一つにドップリ浸かるつながりよりも、緩く複数持てるつながりを求めています。

 

だからこそ、その居場所の1つに、自分が住んでいる地域という場所を選択してほしいなぁと思っています。

 

 

 

 

地域って本当におもしろいです。

 

人の数だけ、さまざまな考え方・価値観を持っていて、それをお互いに理解することで、自分の視野が広がります。

 

この『視野が広がる』ということが、人生を楽しく豊かにしてくれると思うのは私だけでしょうか?

 

そして、視野の広さが、他者との違いを受け入れるキャパシティの大きさになり、それが、偏った考えを軌道修正してくれると、私は考えています。

 

 

 

 

そういえば、昔、何かの本で『大切なことは、何をするかではなく何を残すかだ』という一節を読みましたが、この言葉は私の中で振り返りの1つに入っています。

 

自分がやりたいこと・できること・社会の求めていることが重なった部分の活動を行う☆

 

皆さんは、どんな居場所でどんな活動をされていますか?

 

なぁんて。

 

もうすぐ新大阪に着くので終了します☆


2019-09-02 08:55:00

訪問をありがとうございます。

 

先月は、地域活動団体への取材、経済ニュースの理解とコメント書きで追われていた私ですが、皆さまはいかがお過ごしでしたでしょうか?

 

今回の地域活動団体への取材は、私にとって、とても大きな糧となっています。

 

・・・というのも、様々な方とお話をすることで、その方々が大切にしているものの話が聴けたからです。

 

そして、彼らの話の中でもいくつかの共通点があることに気が付き、嬉しくなっている私です。

 

と、同時に、課題も見えてきたため、それらをどのように解決していくかは検討中。

 

学びの多い日々を過ごせることに感謝感謝です☆

 

 

 

 

さて、改めてになりますが、ちょっと大げさに書くと『私たちの生きている意味』とは何ぞや?ということを考える時間が多かった8月ですが、『私たち(人間)は幸せというものを追求しているのかもしれない』という1つの結論に至りました。

 

以前、正義はざっくり分けると、幸福と自由と宗教(道徳)の3つがあると書きましたが、何かを決める際は『何が一番国民にとって良いことなのか?』の基準で政治は判断をします。

 

そして、企業も『すべてのお客様の幸せのために』というようなキャッチコピーが多いです。

 

そう考えた時に、『幸せって、実は自分の行為を通じて、誰かが笑顔になった時に感じるものなのかもしれない』、という1つの結論に至りました。

 

 

 

 

 

じゃあ、どうしたら幸せを感じやすい体質(!?)になれるのかと言うと、いくつかキーワードがあると思うのですが、それは『日常生活圏域(継続できる場所)』『好きなことに取り組む』『自分の活動で誰かが笑顔になる』ということがわかりました。

 

幸せって、一人で得るより誰かと分かち合って方が、ジンワリと長持ちするのですよね。

 

それは、『自分のために頑張る』よりも『誰か(大切な人)のために頑張る』方が踏ん張れるのと、ある意味似ている気がします。

 

この感覚は、わかる人にはわかると思うし、わからない人には『何を言っているんだ?』になると思いますが、多分、恐らく、間違った考えではないと、私は様々な方々の話を聴きながら実感しています。

 

 

 

 

 

地域活動を行っている方々は、『生活圏域で自分の好きなことで活躍する場』を持っています。

 

それは言い換えれば、『自分に合った居場所を確保できる』ことであり、『その中で自分がやりたい・楽しいと思えることができる環境』を持っているということです。

 

そして、その安心・安全な環境の中で好きなことをすることで、結果『誰かが笑顔になる』と、それが自分の幸せ度を高めるというか、そんな感じです。

 

長く活動を続けている方ほど、『私はこれをするのだ!』という強すぎる使命感や正義感ではなく、『自分が好きなことに取り組んで、結果誰かが笑顔になったら嬉しい』という気持ちの方が多いというか。

 

このマインドは『情けは人のためならず』にも似ている部分があるし、専門的に書くと『利己的利他主義』と言いますが、とてもとても大切だと感じています。

 

自分が無理なく続けられる場所で活躍する。

 

 

 

 

そんな感じで、世の中はグローバル化とか色々言われていますが、ビジネス以外の部分では、意外に日常生活圏域で何かを『残す』活動が大切で、それは派手ではないけれど、実は一番大切なことのような気がします。

 

・・・そんなわけで、明日は覚えていたら『何をやるかより何を残すかが大切』について書きたいと思います(覚えているかな?)。


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