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以前から「安全安心」という言葉には違和感がありました。
私はどちらかというと理屈バカの気があり...なにをもって「安全安心」となるのかがわからなくなるのです。
農薬は殺虫剤だから体に悪い。
化学物質は純度が濃いから扱いが怖い。
それはわかりますが一方、
有機的な毒と言うのもあります。
善玉と悪玉に菌を分けるように、ほんのちょっとの違いで人間にとって有毒か無毒かが分かれてしまいます。
また、玄米は体に良い悪い、大豆は体に良い悪い等、前に良いとしたものがが来年には良くないになるという事が健康に関する知識にはよくあります。
だから考えれば考えるほど、安全安心という軸のみで見た場合、正しいのかどうか、よくわからなくなるのです。
しかし、そこを考えても無限ループするだけなので、とにかくできている物を信じるしかありません。
ただ、安全安心を求める人の中には科学的根拠のみを指して言っているのではない人がいる、というのは無意識で(と言うのも妙ですが)何となくわかっていました。
この"科学的では無い安心安全の根拠"というのが、最近になってようやく意識として浮かび上がってきました。
それは何かと言うと、
「人間はルーツに安全安心を求めている」
と言うことです。
「和食」は無形文化遺産に登録されましたが、農作物に関して、その多くの要素が今は殆ど外国で作られます。
種の9割は外国で採られており、
肥料の9割は外国で作られている。
家畜の飼料の9割は外国産、
米以外の穀物の9割が外国産、
醤油や味噌、油の原料も9割が外国産...
これを偏った理屈脳で考えると、
「例え成分分析したとしても、海外産だからというだけで問題なのか?」
「なにを使っているのかわからないから安全では無い、と言っているのか?」
となりますが、そうではなく、
自分達の文化だと言ってる物が実際は日本では成立しないという事、
"和食はほとんど実態の薄い、虚構で出来ている"
という事に「不安がある」のです。
仮に国産の大豆が100%無くなったら、豆腐や味噌は過去の産物であって、もう遺産とは言えなくなる気がするのです。
歴史の文脈でも似た様な事を言います。
「戦後の歴史は分断されていて、今の日本人は首から下はアメリカ人」とか。
「現代の日本カルチャーは過去の文化を継承していない」とか。
「過去に存在していたのは確かだけど現在の日本からはなんだか遠い..」
昔と今が切り離されてる事に多くの人は慣れてしまい、当たり前になってしまっていますが、敏感な人にはわかるのではないかと思います。
そして気にしない人でも無意識の中で、ルーツの断絶が不安や自信の無さに繋がっているのではないでしょうか?
"安全安心"という言葉は、
「自分達と切り離されてる現在の"食"を日本の文化と呼ぶ事に"不安"がある。
だから"ルーツ"を求めている」
という事なのです。
そして、"ルーツ"との親和性が高いのは有機農業です。
自分がしている農業には、そういう潜在的需要を持っているのでした。
隣の畑では"アレチ瓜"が広がっています。
アレチ瓜は鋭いトゲがあり、食べることはできないし、触ると軍手越しでも刺さり、雑草の上を覆う様に拡がるため駆除する事も難しい、厄介な植物です。
以前、「畑に発生したら種子をこぼさないように全部焼き払うのだ」と地元の方から聞き、ナウシカの世界に出てくる腐海の菌をイメージしました。
地主さんが高齢により引退し、耕作放棄地となった畑に侵食しています。
中山間地域ではこのアレチ瓜が、人の支配の及ばない場所に全面に拡がっている所をチラホラ見かけます。
過疎化によって人の勢力地域は縮小しているのです。
アレチ瓜の奥には「もののけ」の世界。
彼らもまた、田畑の耕作放棄によって境界が無くなり、ジワジワと生息域を拡げています。
今のところ私の畑の被害は少ないですが、山の麓でもよく出没するし、より頂に近い地域で営農する人達の作物の損失は深刻です。
日本の"人の領域"は町に住む人には見えないところで、少しずつ、確実に、縮小しています。
ジビエとかハンターを増やすとか言ってますが、全く手に負えるレベルでは無いと聞きます。
人の領域は後退せざるを得ない様に思います。
有機農家は昔から、雑草を生やすので村から疎まれ、境界の荒地で細々営む、という人は恐らく多いと思います。
その意味で、人と人外のモノとの"間"に配置される宿命にあると言っても、言い過ぎでは無いかと。
人の殿となり、時にもののけ達と交渉し、贄となって境界を保つ。
そんなアシタカチックな役割を演ずる事が"有機農家のアイデンティティー"となる日が来るのかもしれません。