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2019-06-11 07:23:00

訪問をありがとうございます。

 

昨夜は主任ケアマネ会の立ち上げに伴う会議がありました。

 

この会で毎回感じるのは、『主体的な取組に勝るものはない』ということ。

 

今回もたくさん勉強させていただきました☆

 

 

 

 

さて、以前から書いていますが、私は『規則(ルール)ですから』という言葉が嫌いです。

 

普段はできるだけ好き嫌いをはっきりとは言わないようにしているのですが、この言葉だけは嫌いなんです。

 

で、今日は、なぜこの言葉が嫌いかについて書かせていただきます。

 

 

 

 

突然ですが、皆さんは『ハンナ・アーレント』という人をご存知でしょうか?

 

この人はアメリカの政治学者(哲学者と言う人もいます)なのですが、ドイツ生まれのユダヤ人で、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画の指揮者であったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して、『悪の陳腐さについての報告』という本を出しているのです。

 

その中で彼女はこう主張しています。

 

『悪とは、システムを無批判に受け入れる人である』と。

 

その上で彼女は『陳腐』という言葉を用いて、このシステムを無批判に受け入れる悪は、誰でも犯す危険を孕んでいる』としています。

 

つまり、『自分で考える』ということを放棄してしまった人は誰でもアイヒマンのように『無意識に悪事に手を染める』可能性があるということです。

 

そして、彼女は『だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならない』のだと主張しています。

 

 

 

 

 

多くの人は、現行システムがもたらす悪弊そのものに対してにどうしたら良いかを考えるよりも、システムのルールを見抜いて、その中で『うまくやる』ことを考えてしまうと言われています(だから、書店ではハウツー本が流行るのですね)。

 

実際、今の日本ではそうしている人の方が楽だろうし、上手に生きているなぁ~と私も感じています(外国を知らないので、日本に限定させていただきます)。

 

 

 

 

また、アイヒマンで思い出して今調べたのですが、心理学では『人が集団で何かをやる時には、個人の良心は働きにくくなる』という結果が出ています。

 

これは、『アイヒマン実験』と呼ばれる実験で明らかにされたことですが、要は『「自分は単なる命令執行者に過ぎない」という主催者への責任転嫁が、個人の意思で動いている意識を低下させ、どんな酷い事でも抵抗なく行ってしまう』というものです。

 

今の社会にありがちな、官僚制(公務員だけでなく権限とルールによって実務が執行されるという体制)と過度な分業体制は、正にその最たるもので、悪事をなす主体者の責任が曖昧な状態になればなるほど、人は他者に責任を転嫁し、自制心や良心の働きは弱くなることが立証されています。

 

 

 

 

私が『規則ですから』という言葉を嫌う理由はココです。

 

物事の『なぜ?』を理解せず、それが妥当かも自分の中で検証せずに出る言葉が『規則ですから』なのです。

 

この言葉は本当に無責任に人の思考を奪う魔法のコトバだと思っています(皮肉です)。

 

そもそも規則なんて集団生活を円滑に進めるための手段でしかなく、時代や状況が合わなければ変えてゆかないといけないものなのに、その規則の妥当性を検証することなく相談を終わらせたり、次のアクションに移す思考を止めてしまうのです。

 

つまり、私は『規則ですから』の言葉は、人の思考回路を停止させてしまうだけの言葉であり、その実害を自身で感じることなくまき散らす行為は、迷惑以外の何物でもないと感じているのです。

 

 

 

 

とはいえ、私は『規則です』の言葉全てを否定しているわけではありませんし、ルールは集団で生きていく上で大切だと考えています。

 

何が言いたいかというと、ちゃんとルールの意味を理解していれば、相手の相談等を「規則ですから」の一言で終わらせることはないだろう、ということです。

 

そして、相手を見せかけの正論で思考停止にすることなく、丁寧に説明をした後、相手の相談もきちんと聴き、再度、規則自体を見直し、どうしたら良いかを考え行動することができるのではないかと思うのです。

 

・・・と、そんなわけで、規則やルールを活用する時は、ルールの意味を理解し妥当性があるかも考えながら活用することが大切なんじゃないかなぁ~、なんて思ってしまう私でした☆

 

追記:アイヒマンは数年前に映画化されています。