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訪問をありがとうございます。
昨日は三鷹で行われた「東京ホームプロジェクト」のプロボノの説明会に参加をしてきました。
そして、その説明会でたまたま隣に座った方と終了後話が弾み、連絡先交換をしたくせに「ちょっとお茶でも」となり、1時間以上お互いの地域活動について情報交換をしました(初対面でいきなりお茶できる自分が好きです)。
いやぁ、本当にたくさんの学びと気づきと元気をいただきました。
そして、そのテンションで午後から地域活動のお手伝いに来てくださった方の邪魔をして、『今度は加藤のいない時に私来ます』と言われてしまった私です(ホント、いつも邪魔してごめんなさい!)
人との出逢い、交流は宝ですね☆
さて、昨日は「なんで今の社会は生きにくいと感じるようになったのだろう?」について考えまてみました。
そして、一つの答えとして『規律から規則重視に変わったことが生きずらさに拍車をかけたのではないか?』という結論を出してみました。
今日はそのことを書かせていただきます(あくまでも私の勝手な妄想です)。
まず、この2つの言葉について書かせていただきます。
規律とは、「1社会生活・集団生活に於いて人の行為の基準となるもの。また、そのようなものとしてのさだめ。おきて。のり。2一定の秩序。きまり」となっています(三省堂大辞林先生より)。
一方で規則(ルール)というものは、「人の従うべき基準であり、主に文章によって規定されたもの」と記されています(Wikipedia先生より)。
つまり、この2つの違いを簡単に書くと、「自分の物差しか社会の物差しか」の違いかな?と私は捉えています。
で、ですね、今の社会を窮屈に感じてる人が多いということをよく聞くのですが、これは「社会が規律→規則に変わってきていて、それが過剰になりつつあるからではないか?」と思うわけです。
言い方を変えると、「規律にある余白がなくなり、何でも白黒はっきりつける規則重視が息苦しさを生んでいるのではないか?」というか。
答えがないものって考えなきゃいけないから面倒くさいんです(常に“今どうあるべきか?”を考えなきゃいけない)。
しかも、明確な正解がないから、自信を持って断言することに勇気がいるのですよね。
面倒くさいうえに勇気がいるのが「規律」です。
ただ、良い面もあり、それは『自分で決めることができる自由がある』ということです。
一方で、規則は白黒はっきりしている為、自分で考える必要はありません。
規則を軸にジャッジすれば良いだけなので、まぁ楽ですよね。
ただ、悪い面もあり、それは『ルールに自分を合わせるため自由がない』ということです。
規則が白黒だったら、規律は玉虫色みたいな感じです。
介護保険を例にして、規律から規則に変化を具体的に書かせていただきますね。
『走りながら創る制度』として始まった介護保険は、創設当初はルールが少なく、個々の判断に委ねられている部分が多かったです。
これはある意味根拠と呼ばれる大義名分づくりが大変だったけど、ご利用者の意向を聴いてルールを“上手に解釈”する『余白』がありました。
が、ルールが細分化され増え、どんどん制度が白黒はっきりになると同時に余白はなくなり、“上手に解釈”することはできなくなります(同時に考えなくても良いので思考も低下する)。
また、介護保険でサービス提供と引き換えに地域資源を激減させてしまった今、介護保険が使いにくくなっても、それに代わる資源はありません。
結果、制度は不便になる中、思考低下により“じゃあどうしよう?”の課題に対しての創意工夫が苦手になった現場は、“あ・・・気づかなかったことにしよう”と、課題をなかったことにする(もしくは“他に手はないから仕方ない”という言葉で課題解決を諦めてしまう)。
そんな感じです。
昔、社会学の本で読んだことがあるのですが、日本人は伝統よりも利便性を好む傾向が強いのです。
だから、個々の解釈で悶々と悩むより、考えなくても済む規則を重視する気持ちもわかります。
で、数日前に書きましたが、日本人はセロトニン量の不足している人の割合が高いから、安心安全を求めやすい傾向があります。
そして『決まりごとは真面目に守る反面、それを外れた人を許せない傾向が強い』民族なため、規則から外れている人を異常な勢いでバッシングするわけです。
これが今の社会に『息苦しさ』を生んでいるのではないかなぁ~、と思うのです。
考えること(もとい妄想)が好きで自由人の私は、今の余白のない社会はつまらないなぁ~、と感じていますが、皆さんはいかがですか?