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訪問をありがとうございます。
ここ最近、私なりに「助け合いを行う人と行わない人の差」の正体を掴もうとしていましたが、昨日家族と過ごしている時に少しだけ何かが分かったような気がしました。
で、いつもながら家族そっちのけで思考に入ってしまったため、またしても家族にとって「(いるのかいないのかよく分からない)頼りない人」に成り下がってしまった私です(トホホ)。
そんなわけで、今日は、「ボランティアなど助け合いを行う人のマインド」について書いてみたいと思います。
あ、これは私が勝手に考えたことなので、正解不正解はありませんので、皆さんは皆さんなりに答えを出していただけたらと思います。
結論から書くと、助け合いを行う人のマインドは、無意識かは別として「因果法則」を知っているからではないかという結論に達しました。
どういうことかというと、この考え方は仏教からくるのですが、「過剰な欲は自分を破壊する」ということを知っているのではないかということです(ちなみに私は特別な宗教は持っていません)。
私自身、楽しいことが大好きで、そういう意味では欲望だらけなのですが、この「欲」って妄想だから尽きることがないのですよね。
で、「欲」がある限り自分自身が満たされることがないので、いつまで経っても幸せにはなれないのです。
そう考えると、仏教の「小欲知足(欲と不満はほどほどに、あるものに満足して生きなさいよ)」は欲をコントロールする機能があり、これを鍛えることによって、「現状に満足する=(現状に)幸せを感じることができる」に繋がるのかなぁと思いました。
ここまでは個人レベルの話ですが、このマインドを他人に与えるところに持っていくにはどういう過程を追うのかを考えた時、「因果法則」に行きついたわけです。
つまり、「自分のキャパシティを超えて入ってきたものは、足りない人に分けてあげましょう」という言う思考なのではないかな、と思ったわけです。
自分しか考えないのではなく、俯瞰的視点で捉えて『社会がうまく回っているから自分は幸せでいられる』という視点があるというか。
“全体の中の自分”という考え方だから、自分が満足するには全体も満足しなくては意味がないことを知っているというか(ホント、ややこしくてスミマセン)。
循環ですね☆
これの典型的な例が、お金持ちの人が行う「寄附」かもしれません。
お金で分け与えると寄附ですし、自分の体力や時間を困っている人に与えるとボランティアや助け合いになるのではないかな、という結論に達したわけです。
『できるだけ欲を少なくしてあるものに気づいて満足し、それ以上のものを自分が持った時には困っている人に回しましょう』という考え方をすると、助け合いを行う方々の行動が腑に落ちたのです。
この考え方があっていた場合、助け合いを行う人たちはものすごく自然の法則に則っていることがわかります。
例えば、食料の問題について考えてみます。
今の時代は豊かになっており、全ての人間が分相応に食料を得ていた場合は、飢餓でなくなる人はいないと言われています。
が、現実にはどこかではたくさんの人たちが飢餓で困っているわけです。
これは言い方を変えれば、『どこかで自分の必要分以上に搾取している人がいる』ということです。
そして、飢餓をなくしたいと考えたら、皆が分相応に食料を得て余った分は足りない人に回せばよいのですよね。
この『分相応』を判断するときの基準時に参考にするのが『小欲知足』であり、これがぶっ壊れている人は(自分が満ちたりているにも関わらず)『もっともっと』と思うし、それが全体のバランスを壊しているのですね。
うーーーん、そう考えると、仏教が何千年も人々に支持されてきた理由が分かるような気もします。
と、こんなことを書きましたが、私は別に欲を持った人を否定するつもりはありませんし、小欲知足を勧める気もありません(第一、仏教徒ではなので…)。
ただ、助け合いを行う人のマインドは、無意識であっても、小欲知足が自分を幸せにすることを知っており、余剰を困っている人に回すことで社会はうまく回るということを知っているのだろうな、という結論に達したということを書きたかっただけです。
そして、同時に、欲の正体を考えた時、これを必要以上に持っている人は、レッドオーシャンの思考なのかもしれないと思いました(これを書くと長くなるので割愛します)。
因果法則を理解した上での小欲知足☆
私もそのマインドにいけるものなら行きたいのですが、物的欲望はないものの、どうにもこうにも好奇心という欲望が邪魔をしてしまい、その世界にはたどり着くことはできそうもありません。
あぁ、煩悩退散!!!