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訪問をありがとうございます。
昨日は、お昼に文化センターに集合し、社会福祉協議会と地域住民団体のコラボレーションで行う『第4回地域福祉フォーラム』のお手伝いをしました。
受付と開始直後のアナウンス、ワークショップのサポーターをお手伝いさせていただいたのですが、こういう地域の方々が主体的に学ぶ場というものは良いなぁ~、と思います。
そして、意外に地域住民の方々と仲良くなれていることを実感し、またしても幸せを感じてしまった私です☆
さて、今日は『幸せ』という言葉について書いてみます。
この、一見ポジティブな、だけどなんとも抽象的なポワンとした言葉。
私も良く使用しますが、改めて考えると『幸せっていったいどういう状態をいうんだろう?』と気になってしまいました(どーでも良いことに拘ってしまうのが私です)。
そこで、様々な書籍を読んだり、ググってみたり、人に意見を求めたりして、私なりに定義をつくりました。
それが、これです☆
『バランスの取れた状態、かつ、未来が今よりちょっとでも良くなると感じられる(信じられる)状態』
今、『は???』って思った方が8割くらいだと思います。
いや、とある書籍を読んでいた時に、『幸せは不確定要因の中で起きる不幸中の幸いである』という内容を読んで、その後に、『幸せとは何かということを漠然と言っている時点で、単なる感情の状態でしかなく、だったら気分が良くなるサプリでものんどきゃいいじゃん』みたいな文章を読んで、カチンときてしまったのですよね(あ、実際の書籍はこんなひどい書き方はしていません)。
悔しいけれど、私は『幸せ』という言葉を安易にふわっと使用しているし、その時の気分(感情)で使っています(先の著者が言っている『本当の幸せではなく心の中の感情の話』です)。
が、この内容を読む限りは、『感情で幸せを語っている奴は本当の幸せなんかわかるはずがない』とバカにされたようで、なんか悔しくなったのです。
一方で、『確かに、幸せというものを目的にするのは変だよなぁ~』と考え、だったらちゃんと自分なりの定義を持とうと思ったのですが、行きついた先は『お釈迦さま』の世界でした(私自身は無宗教です)☆
つまり、煩悩と空の中間であり、それは『当たり前の日常』なんだという結論に達したのですね。
でも、未来に期待も持ちたいから、『当たり前の日常だけど、今よりちょっと良くなることが期待できる状態』を加えて、私は幸せと定義することにしました。
・・・という話を夫に話したらニヤリと笑われ、
『今よりちょっと良くなることが期待できるって・・・それって、煩悩そのものだよね』
という返答が☆
あぁぁ、どこまでも欲にまみれた私です。
そして、壁にでも『煩悩退散』のお札を貼っておこうかしらと反省しました。
追記:真面目な話、人間の進化を考えると『未来に期待をする』ということは欠かせない自然の欲求だそうです。
そして、幸せを求める心は重要かもしれませんが、それを目的とすることはあまりよろしくないということを知りました☆