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訪問をありがとうございます。
昨日は、一般社団の事務所を手芸ボランティアの方々が使用されていました。
この団体さんは月2回活動をされているのですが、皆さんとてもとても元気です。
朝10時から午後3時過ぎまで、ワイワイ言いながら活動をされています。
その姿を見る度に「人が集う場っていうのは良いなぁ」と思います。
そしてボランティアとか地域活動というのは「情けは人の為ならず(人の為に行った行為も自分に返ってくる)」だなぁ、と思います。
長寿社会だからこそ地域との繋がりは大切で、地域での活動を通じて健康を維持できるなら、一石二鳥だと思いませんか?
月数回程度の集いで健康を維持できたり精神的な繋がりを感じることができるのであれば、活動って良いなぁと思いますし、こういう「緩いつながり」を持つことは、現代の人には大切なことだと私は思っています。
さて。
今日は、意見の違いというか議論について書いてみたいと思います。
何かを決める際やテーマを決めて話し合う際に意見が2つに割れる時、「どちらが正しいか?」で揉めることってありませんか?
例えば介護報酬。
介護報酬は3年に1度見直しがされていますが、この額を決める際に介護事業所は報酬向上を望みますし、国(納税者)は給付をこれ以上増やしたくないと思っています。
こういう「正解のない意見の相違」って、実は結構厄介だと思います。
数学のように答えのない問いは、ほぼ「どの角度から見るかによって」正義は変わります。
介護事業所からしたら「俺たちはこんなに頑張っているのだから報酬を上げて役割を認めてくれよ」と思いますし、国(納税者)の側からしたら「高齢者の20%しか利用していない保険に、これ以上給付を増やすわけにはいかない」と思う。
どちらも間違えではないですよね。
ただ、自分の立ち位置からみえる景色が違うので、主張する正義も違っているのです。
物事を「白か黒か?」「敵か味方か?」で捉える考え方って、実は危険だと私は考えています。
そもそも議論って自分の正しさを主張するものではなく、お互いの言い分を聞き視野を広げた上で「何が一番最適か?」を話し合う場です。
そこでお互いが相手の言い分を聞かずに「自分の意見」を通そうとしてしまうと、そもそも議論にならないという。
こうやって抽象化して書くとぴんと来ないかもしれませんが、結構こういう正義の違いからくる不毛な争いってあると思います。
自分の意見を持つことはとても大切ですが、議論の場では相手の矛盾や綻びを見つけようとして意見を聞くのではなく、自分の考えは置いておいて「なぜ相手はそのような(自分と違う)考え方をするのか?」を知ろうとするだけで、議論の有意義さは変わります。
その上で、「目標達成のためにはどういう方法を取ることが一番最適か?」を考えることが、とてもとても大切になると思うのです。
ポイントは「自分の意見を絶対視しない」ということです。
これ、意識するだけで議論や会議の場が大きく変わります。
興味があればお試しください☆