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2018-03-16 07:48:00

訪問をありがとうございます。

 

いやぁ、良かったです。

 

私、昨日は、何かを書くと予告してこのサイトを更新したのですが、今朝起きて『はて?何のことを書くと言ったっけ?』と、忘れてしまっていました。

 

いや、何かを書くと書いた事は覚えているのです。

 

ただ『何を書くか』を忘れてしまっただけで・・・(ちゃんと、その後に思い出しましたよ)。

 

というわけで、今回は、無事に思い出した『どんなに頭に来ても、絶対にケンカ(対立)しない』について書こうと思います。

 

またしても、興味のある方のみ、お読みいただけたら幸いです☆

 

 

 

 

『どんなに頭に来ても、絶対にケンカ(対立)しない』の真意は、周囲との調和でも、事なかれ主義でもありません。

 

単純に、『残り少ない時間で大事を成し遂げるには、そのこと以外に労力を使いたくない』という意味です。

 

そして同時に、『自分と違う考えであっても、違う考えを尊重し擦り合わせ、仲間を増やしたい』と考えるからです。

 

あざといですよね、私。

 

 

 

 

前回の話に戻りますが、私の最終目標は『次の世代に住みやすい社会を繋げる』ことです。

 

そして、当たり前ですが、これって大層な目標だと自負しています。

 

現在の孤立化した社会を住みやすい社会にするって、本当に大変なことだけど、どうしてもどうしても実現したくて開業しました。

 

具体的には『小さな優しさの連鎖で、住みやすい社会をつくる』という、至極当たり前であり、だけど現代においては大変な取り組みをしようと、本気で考えたわけです。

 

 

 

 

ケアマネ事業所を開業したのは、その実現に向けた手段の一つであり、本当の目標はここなのです。

 

その時、既に私は30代後半。

 

限られた(残り少ない)時間の中で、自分の中で計画を立て行動していく。

 

そのために一番避けたいことは、『周囲とのケンカや対立なんかで、大切な時間を取られたくない』だったのです。

 

 

 

 

いつの時代も、想いを行動に起こす人はいると思います。

 

そして、人間は本能として『(良くも悪くも)自分に利がないと感じた場合は変化を拒絶する』傾向があります。

 

それを踏まえて自分の行動計画を見返した時、客観的に見て『あ~、これはやり方次第では批判を受ける恐れがあるな~』と考えました。

 

 

 

 

というのも、私のやろうとしていることは、ある意味、まさしく『変化』です。

 

それは、現在ケアマネジャーを担っている人たちからしたら、取りようによっては『脅威(負担)』になるのですよね。

 

初めのうちは『なんだか異色な奴が来て勝手にやってる』くらいで済むだろうけど、計画の一つである『ケアマネジャーが自分たちで研鑽し、自分たちの役割をつくる』に着手した時に、それが正しいことであっても、伝え方を間違えたら、相手に脅威(負担)を感じさせてしまうかもしれない、と考えたのです。

 

の時にですね。

 

『本気で取り組もうとしているのに、意図を誤解されて揉めるなんて、そんなことに時間と労力を費やしたくない』と考えたわけです。

 

と同時に、『何かしらのアクション(批判・意見等)を起こしてくる人は、きっとパワーを持っているだろうから、そういう人を大切にして、より発展的な活動をしたい』と考えたわけです。

 

そして、『もし今後、活動について何か言う人が出ても、素直に相手の話を受けてその意見も尊重する。絶対に対立しない』と決めたのです。

 

 

 

 

いやぁ、改めてルールにするほどの事じゃないだろうと、読み返して感じてしまいました。

 

が、自分が全力で取り組んでいる時って、どうしても視野が狭くなるじゃないですか。

 

その時に、自分のためを思って意見してくれる人、ケアマネジャーの事を考えて『もっとこうした方が良い』と言ってくださる人って、本当は貴重なんだけど、狭い視野で私自身が『批判された』と受け取らないようにするための自戒という意味でつくったんだろうなぁ~、と振り返って考えました。

 

活動を始めて5年目。

 

今、改めて振り返って、俯瞰的に現状を確認したいと思います。

 

 

 

 

ここからは余談です。

 

タイトルの内容になりますが、対立・正義について考えてみました。

 

ちょっと固い話になりますが、『対立』の対義語は『協調』です。

 

そして、なぜ対立が生まれるかと考えた時に、『それぞれの見ている景色と、そこから感じ取った正義が違うから、対立は生まれる』という結論に、私は達しました。

 

『じゃあ、正義とはなんだ?』と深めたのですが、これって、見方によって全然違うという、至極あやふやなもので、絶対的なものってないのですね(絶対的な正義は愛くらいでしょう)。

 

 

 

 

わかりにくいですかね?

 

例えを出してみます。

 

円錐(えんすい)を想像してください。

 

あれって、下から見たら丸になるし、横から見たら三角ですよね。

 

そこで、何の形に見えるかは、自分が下から見るか、横から見るかで変わります。

 

下から見た人からしたら確かに丸に見えるし、横から見た人からしたら確かに三角に見えるでしょう。

 

みる角度で、変わった結論が出てしまうのです。

 

円錐の場合は、正解・不正解がすぐにわかりますが、れが、正解のすぐにわからないものだと、ややこしくなるわけです。

 

 

 

 

人は自分が見たいもの・聞きたいことしか脳に入っていきません。

 

だから、同じ事象でも、価値観も生活歴も違う人間である以上、見る人によって受け取り方は違うし、感じる正義も違うわけです。

 

そしてそして、厄介なことに、正義というものは未来でしか検証できず、それが合っているか間違っているかの判断が、『今』はできません。

 

結果が出て、初めてわかるものなのです。

 

過去、たくさんの偉い人ですら、間違った正義を振りかざしてしまう事は、歴史からもわかりますが、当事者たちは『自分こそが正義だ!』と信じて疑わなかったのです。

 

そんなわけで、正解のないもので対立しても、仕方がないわけです。

 

 

 

 

そこで私が考えたのは、『じゃあ、正義の対義語は何だろう?』ということです。

 

一般的には、正義の対義語は『不義』だと言われています。

 

ただ、私には、この言葉がどうしても、しっくりこなかったのです。

 

先ほども書きましたが、事象ってみる角度によってというか、立ち位置によって正義は変わるから正解はないわけで、自分と違う正義を出された時に、それは自分にとっての正義ではなかっただけで、相手の正義を不義だとは思えないのですよね。

 

というか、正義を声にできる人は真剣に物事を考えているわけで、むしろ、それはそれですごいことであり、尊重すべきものなのではないかなぁ~、と思うわけで・・・。

 

と、そんな感じで悶々としている中、数年前にとある本を読んで腑に落ちました。

 

 

 

 

『正義の対義語。それは許しである』

 

 

 

 

見方によって生まれる正義というものを、自分がどれだけ許す(受け入れる)ことができるか?

 

無責任ではなく、『そういう考え方もあるよね』と受け入れ、尊重することができるか?

 

そのことに気づいた時、“1週間詰まった便秘が解消されたらこんな気持ちなのかなぁ~”と思ったくらい、気持ちがスッキリとしました。

 

以来、私の中では『正義の対義語は許し』です。

 

 

 

 

以来、私のテーマの一つに『いかに相手を許せるか(受容できるか)?』が加わりました。

 

もともと怒りの沸点が低い私なので、まだまだ修行中ではあります。

 

ただ、せっかくたくさんの人と関わるのなら、たくさんのものの見方を教えてもらって、視野を広げたいと考えています。

 

 

 

 

皆さんにとって、対立の対義語は何ですか?

 

正義の対義語は何ですか?