法と病

 1997年8月24日 長尾弘先生 大阪講演会より

  

「「聖書は生命の法則を教え、生命の法則を正しく用いさせるために、み霊(みたま)の導きによりインスピレーション(天啓)によって書かれたものである。(心身の神癒 第7話14)」 

 

いつも話しております、人は生まれたら必ずこの世を去ると、まためぐり会えば必ず別れる、別離しなければならない、これも法則です。だから法則のゆえになにものをも曲げることができない、どんな偉い人でもどんな賢い人でもこの法則を曲げることはできないんです。

 

例えばどんな偉い人でも、お日様を西から上げることはできない、そんなことしたら地球が砕けてしまいます。また水を低いところから高いところへ流すこともできない。なぜできないのかというとそれは自然の法則だから命の法則だから、なにものをもこれを変えることができない。 

 

生死、また老いることも病むこともそうです。正法勉強して、私は病気になったから正法あかんって言う人あります。私は言うんです、正法勉強したから実践したから病気にならないんか、そんなことありません。あの偉大なお釈迦様でさえ、ひどい腰いたで悩まれたことあったんです。

 

またお亡くなる前にはすごいお腹いたおきて、そのお腹いたがもとでお亡くなりになったんですね。ではイエスはどうか、イエスは最後になったら十字架に釘打たれて磔にあわれて、そして槍で突き殺されて亡くなり、法の実践者ですよね、だからそんなならないんかっていうと、なる、そんな偉大な方でもそういうこと現実になられたんですから、我々が法を勉強したからっていって絶対ならないんかって言ったらそれは間違い。

 

ただその時にいかに自分の心を管理できるかです。なった時に、「あー私は正法実践しているのに病気になった。こんな正法あかん」って言うのと、これも学びやと、お釈迦様、イエス様でもああいう苦しみを体験していただいたんだから、私なんかは当たり前のことやと思わしてもうて早く健康取り戻すと、その為に努力する。この心の持ち方が大事だと思うんですね。法を学ぶというのは、その時その時、与えられたその環境の中で、いかに心苦しめないで、いかに心安らかに生きさせてもらう、これの学びです。」 

 

 

 

1995年10月22日 長尾弘先生 大阪講演会より

 

「「群れから迷い離れたことはないであろうが、神を愛するすべての人々のために父なる神が折角備えてい給う賜物にあずかり得ない人々がいる。それは、自分が恒に神と偕に居ることを知らないからである。(心身の神癒 第4話74)」  

 

私達は常に神様と共にある。これはいろんな形でお話しておりますが、私達の内なるキリスト意識の中に大いなる神の命がそのまま注がれている。そしてただ私達が自覚できないのはこの五官の感官、五官の煩悩がそれを妨げているからそれを自覚できないんです。

 

そして生まれてから今日までを徹底的に反省、懺悔、悔い改めを行った時ですね、その曇りがやがて晴れて内なる神の子の意識、神我意識、またキリスト意識とも言います、これがこの世、現象界と言っておりますが、この物質世界へ精神世界の神の愛をその曇りの少なくなった方が示し現すことができるようになります。 

 

この神からの賜物、贈り物ですね、私たちが神様からいただく最後の賜り物、最後の恵みは何か言いますと、それは死という賜り物です。だから死はこの世の最後にいただく恵み、最後にいただく頂き物であると賜物であるということを今の間にしっかりと自覚しておけば、その死というものを、この世の最後の神様のお恵みやないうふうに受け入れた時に死の恐怖もまた変わると思います。

 

またそのように感謝して受け取れる自分を今、健康なあいだからつちかい、あるいは鍛えておかなければいけない、心を鍛えておかなければいけない、そして死を迎えた時にこの世の最後の恵みをいただくんやなあと、だったら怖いと思わなくていいですね、ありがたい、この世の最後の頂き物と思って死を受けること、これも大事ですね。」