思いの中に生きている

1997年3月23日 長尾弘先生 大阪講演会より

 

「「父の愛は天体音楽のようにも溢れ、それに扉を開く全ての魂の中に捉えられる。人は皆、幸せを求めているが、それを外に見い出しうる者は一人もいない。(心身の神癒 第六話 59)」

 

 人はみんな幸せを求めています。しかし、幸せというものは外に見い出すことはできない。よくお話させてもらうんですね。私たちは自分の外、環境の中に生きていると思っておりますが、本当は自分の思いの中に生きてる。思いが調和されたら、また環境も調和される。そして、環境に振り回されておりますと、振り回されるんですから段々と悪くなっていく。私は不幸や、私は病気やから辛い、それをよしと受けるか、苦しみと受けるか、それが、思いの中に生きているわけですね。

 

 外、外なる世界、この環境です。この外なる世界に五官を持って生きてます。しかし、本当は、その思い方の中に生きている。どんな不調和な恵まれない環境にあっても、もっとひどい方のことを思えば幸せだと思えば、心は満たされるはずです。いくら恵まれても、私は不幸や、あるいはなんぼあっても、もっと欲しいとか、あるいは、その与えられた喜びを自分が思えなかったら、これは地獄と一緒のことが起きます。

 

「人は皆幸せを求めているが、それを外に見い出しうる者は一人もいない。内に幸せを実現してのみこの幸せのリズムの悦ばしい力は感じられるのである。(心身の神癒 第六話 60)」

 

 自分がけっこうやこれぐらいやったら幸せやと感じてこそ、その幸せのリズムに乗ることができます。

 

「神の音楽、愛、英智は、魂を通じてそれ自身を表す。このようにしてあなたたちは、それが自分の肉体に顕現するのを意識する。わたしの平安と愛とをもたらし、私の平安と愛とをあなたたちの許にとどめる、と私が云うのもその為である。(心身の神癒 第六話 61)」

 

 平安と愛、あなた達の中にとどめる、これは自分の思いによってその喜びを噛みしめることもできるし、どんな幸せの中にあっても、この世というのは上を見てはきりがない。自分よりもっと上の人を見ては、「ああ、あの人、結構や。私はつまらん」と。十分恵まれているのに、それを噛みしめることができない。幸せのリズムに乗ることができないんですね。思いというのは本当にどのようにも思えるもんですね。

 

 よくいつもお話ししますが「竹の柱に萱(かや)の屋根、筵(むしろ)垂らして戸の代わり」、これはもう貧しい代名詞です。竹の柱、かやの屋根そしてむしろで壁、あるいは戸の代わり。その中にあっても、あっ、この竹の柱のおかげでかやの屋根を支えていただき、そして雨露をしのばしていただき、このむしろでもって外との間を遮ってもらいありがたいなと感謝すれば、その中は極楽の世界です。ありがたい、ありがたいなと、竹の柱を見、かやの屋根を見、むしろ見ては、ありがたいなと。その中で、はぁ、なんと私は貧乏ったれや、こんな辛いことないと思えばそこは地獄ですね。

 

 思い方一つです。また、金の壁塗って銀の柱で、ダイヤモンド・サファイアと照明つけても、その中にあってもこんな冷たい金誰が貼りやがんだ、こんな眩しいダイヤモンド誰が付けやがった言って文句言おうと思えば言えるんです。そうしますと、その、この世的に言ってですよ、金銀財宝の中にあっても地獄を味わうことができます。思い一つですね。幸せを求めるんであれば、外に求めてはならない。自分の内に求めなさい。思い方を変えなさいということだと思います。

 

「神の音楽、愛、英智は、魂を通じてそれ自身を表す。このようにしてあなたたちは、それが自分の肉体に顕現するのを意識する。わたしの平安と愛とをもたらし、私の平安と愛とをあなたたちの許にとどめる、と私が云うのもその為である。(心身の神癒 第六話 61)」

 

常に思いを喜びの方へ向けなさい。「喜べば喜びごとが喜んで、喜び集めて喜びに来る。」まず喜びなさい。そうすると、喜びごとが喜びます。そして、喜びの仲間を集めて喜びに来てくれると、思いですね、想念。」