真の神様はお金を必要とされない
【1】~【3】
【1】長尾弘先生御著書 愚か者の独り言 講演集一 P47より
真の神様はお金を必要とされない
よく神様にお金をあげなさいという宗教がありますが、あれは皆おかしい。ほんとうの神様から見るとおかしいことです。今この世にある殆どの宗教は、お金をあげることになっています。あなたの罪を私がお金で買ってあげましょうと言って神様が取って下さるのならたくさんお金を上げたらよろしいが、神様にお供えしたお金は、皆人間が使い、そして組織が使っております。マンモス宗教の偉い人は、栄耀栄華を極め、走り回っております。
いい証拠として、私は神様と名のる者を人間の身体の中に入れることができますし、悪霊も 自由に入れられます。或る時、神と名のる方を現実の肉体を持つ方の中に入っていただいたことがあります。その神は、僅かの賽銭で多くの願いごとが聞き入れられるか、とおっしゃいます。しかしほんとうの神様ならば人間の肉体の中には入られません。人間の中に入る神様は、 偽物の神様です。この辺りにも、いわゆる「拝み屋さん」というのがありますか? 神様が体内に入って来ると称している拝む人ですが、これは百パーセント偽者と思って間違いありません。
それでは何が入って来るのかと言いますと、全部成仏していない霊が入るのです。悪い霊です。そして何々の命とか、何々の大神とか名乗ります。この場合も悟っていない神だったので、私の前でボロを出してしまいました。「人の世界も神の世界も同じで、もっと賽銭を上げよ」と言うので、「いやいやあなたは間違っている」と言っても聞き入れない。物質として ただ現われているものを、どうして神が求められますか。 こんなお金などは必要とされない筈です。 光をやらないぞとは言われません。
お金はただ一時現われては消えていく姿です。私達のこの肉体でさえオギャーと生まれて五十年、百年のうちには消えていくのです。そして又新しい命が生まれては、又消えていき、新陳代謝を繰り返しています。私達自身が大いなる神のご神体の細胞の新陳代謝を起こしているわけです。古いのは滅んで新しいのが生まれて来る。神様の身体の中で新陳代謝を起こしているのが、私達の身体なのです。自分が死んだ後に、子や孫が生き代わっていくのが定めです。 絶対に死なないという人はありません。
お金を必要とする神様は偽者と思って下さい。お宮にしろお寺にしろ、又さまざまの宗教にしても、お金を上げなさいと言って献金とか玉串料とかお賽銭とかいうことがあります。しかし、それは神の名を使ったごまかしのようなものです。 本当の神様はお金をお使いになりません。必要とされないのです。 お札はお足といいますが、流通しているお札の期間というのは、ほんとうに短いのですよ。全部現われては消えているのです。お日様は一銭の請求もされないし、また神様も一銭の請求もされません。 結局神や仏に上げたお金を使っている人間が問題です。
【2】1997年11月23日 長尾弘先生 大阪講演会より
「よく宗教でもないのに神様、神様というんですが、なぜ神様、神様と言うか言いますと、これは人間はすごく弱い存在、何
私は、神を口にさしてもらいます。しかし金をあげなさい、参りなさい、あるいは来なかったらバチ当てる、そんなこと一切言い
ですから、いつもお話しさせていただくように、 神はただ与えたもうのみです。一切お求めになりません。 こういうことは宗教家は言えない。なぜかと言えば、「金あげなさい
【3】長尾弘先生御著書 愚か者の独り言 講演集二 P87より
全財産上げても神は喜ばれない
ある方はT教を信仰されて亡くなりました。ものすごく素朴な信仰をされましてね。現在は違うそうですが、昔は「家も屋敷も上げてしまえ」と言って、みな上げてしまえという時代があったようです。その頃、その人は家も屋敷もも畑もみな上げてしまったのです。その息子さんが、お父さんの亡くなった後、法にご縁があって、自分の意識を開いて あの世を見てこられるようになられたのです。その息子さんはT教団の子として分教会の 中で貧しい貧しい生活をして成長されました。その息子さんが、「お父さんはあんなに熱 心な信者であったから、さぞいいところにいっているだろうなあ」と思って、光の世界をずうっと探し求めてこられたそうです。
ところが、上のほうにはどこにもおられないので す。 「まあ、あんなに物を上げても高い所には行かれないのだなあ」と思って、天上界の低い段階を次々探していってもそこにもおられません。 「おかしいなあ、どこかにおられるはずだ」と思って、今度は幽界からもっと下の世界、薄暗い世界へと探していきますと、 地獄の薄暗い所で、向こうからお父さんが荷車を引いて廃材を荷車いっぱいに積んでやっ て来ました。明治時代の人ですから荷車を引いているのです。お父さんは自分の息子さんが、自分よりも歳がいっているので、もう分からないのですね。
「死んだ後でお父さん、何をしているのですか。そんな所で」と声をかけると、「あんたは、誰かいな」と、逆にお父さんがたずねます。「僕や、〇〇だ」と言うと、「ああ、そうかいな。わしはな、家も畠も田圃もみな上げてしもうて、子供を育てるのに本当に申し訳ないことをした。こんなことだったら、子供はちゃんと自分の家で育てて大きくすべきだった。家がないということはこんなに辛いことだ。何とか自分の家を建てようと思って、今こうして一生懸命働いているのだ」と、このお父さんは地獄で材木を運んで家を建てようと思っているのです。
全財産を上げても極楽には行けません。神様は財産はお受けとりになっていないのです。 仮に神様に文句を言ってみなさい。神様は「私は何ももらっていません」と言われます。 上げたものは教会、或いは教会の中におられる人間が掠め取って使われたのであって、神様の許にはいっていません。神様は、私たちよりもなお恵まれない不幸な方に、たとえ僅かでもいい、無駄使いを少なくして、その人達の為に役立てて下さいとご喜捨させていただいた時、「あなたはよくしてくれます。あなたの行為を私は頂きます」と言って下さいます。
それはなぜかというと、神様は「私は人を救いたい。人々を幸せにしたい。しかし私はその行為を現わすことができない。愛ゆえに身を滅した者である」と言われ、助けて上げたいと思われても、それを現わすことができないのです。神の御心は愛の思いでいっぱいです。その神の御心を私たちが行なった時、神様は「よくやってくれました。私の思いをあなたが果たしてくれて、ありがとうございました」と喜んで下さいます。受け取って下さいます。
そんなことがあるだろうかと思いますが、河内の国分でこのお話をした時のことです。 固い蕾のチューリップを何十本か生けて下さっていましたが、みな首を曲げていた蕾が、 そのとたんに立ち上がって、パーッと一斉に花が咲きました。ワァーとその場で開いたのです。二部屋向こうの鏡台の上に一輪ざしで生けてあったチューリップも一緒に開きました。見ておられた皆さんが喚声をあげて驚かれました。自然現象であったとしたら、蕾は必ず時間をおいて次々開いてくるはずです。
「ああこれが開いたなあ、ああ次はこれが開くなあ」というように開くのが普通ですが、同時に全部揃って開くのです。これは、私が話させていただきましたことを、神様が「その通りだ」といって証明して下さったのです。 私の話は間違いないと神様が認めて下さったから、こういう不思議な現証を見せていただけたのです。もし間違っておれば、そんなことは起きません。チューリップの蕾が一斉に 開いても、その中の一本だけが開く前はこうだったのですよと教えるように首を曲げて、もとの姿の証として残っていました。
正しい真理は話す言葉の中に神の力が宿ります。その言葉によって植物も動物もすべて反応してくれます。神が証をして下さるのですね。私にはそんな力はありません。ただの凡夫ですが、しかし日々の生活で心の調和とその実践が神様に通じます。