質疑応答(2)
平成十六年十月号「道」掲載
質問
最近癒しについて考えたことがありました。先生のところにお邪魔していて、なぜ少しずつしか良くならなかったのか。それを考えて見ますと、どうも潜在的に先生の癒しを拒否、とまでは言えませんが、軽く考えていたように感じます。あ、でも先生やイエス様やお釈迦様の教えはちゃんと心に刻まれていましたし、今もそうだと自負しています。
遠くにあって近き弟子にならせていただきたいなあ と思っています。至らないところは多すぎますが。話は戻りますが、実際のところ、先生に癒しを受 けている間、僕なんかよりもっと大変な人がいるのだから、そういった人たちの方が癒しを受けるの に相応しいのではないかということをずっと考えていました。
おそらく先生は、「全ての人が幸せにならなければならないのだから、そういう心配は要りません」と言ってくださるでしょうが、自分の心というものはなかなか掴みどころがなくて、正直自分でも病気が治って欲しいのかどうか、分かりません。(表面的な意識では治って欲しいんですけど) 何かいいアドバイスがあれば教えてください。よろしくお願いします。
先生
骨折した骨がその場で繋がり、切れた靭帯がその場で繋がる。考えられないことですが現実です。 同じように体の悪いところの全てに同じような現象がよく起きます。しかし中には、治らない方々もあります。その方々の方の心が作用する場合もあると思います。
また病気の種類にもよります。 例えば、最悪の末期癌で手遅れの場合等、どうすることも出来ないことは事実です。しかし何よりも大切なことは信じることです。キリスト教の教えでは、信じる者は救われると教えられています。もっとも大事なことは、己の心が救われることです。
質問
長尾先生、いつもありがとうございます。先生、今私は主人の母とどう接していくべきか迷っています。というのも、結婚以来二十年、先生のおっしゃるように人生色々未知との遭遇そのものでした。 そしてまた先日、母より十数年前の出来事をもち出されて叱責されました。
私の事だけでしたらともかく、苦労して育ててくれました私の両親に対してまで話はおよんでしまい、 娘として申し訳なく悲しい思いをいたしました。この二十年間、頭を下げ続けてきましたが、母との 間の溝の深さを思い知らされ、打ちのめされました。
先生、母に拒否された私は、それでも自分のほうから歩み寄っていくべきでしょうか。 それとも、距離をおくべきでしょうか。 母は決して自分から折れる人ではありません。 どうか先生、人として歩むべき正しい倫を教えてください。よろしくお願いします。
先生
大変厳しい御修行ですね。人の心は十人十色、その人その人によって心は違います。 まさに色々の心の人がおられます。その人その人のお顔が違うように心は違うと思って下さい。
さてお姑さんの件ですが、厳しい修行と思って尽し尽くし抜いてみて下さい。お姑さんの為ではなく御自分の徳積みと思い、御自分の為だと思って下さい。 それが人としての倫だと思います。
質問
お久しぶりです。 数日前も祖母がお世話になり私も数回相談へ行き、私が幼い頃は、祖母の家へ来ていただいたり・・。話も聞いていただいてアドバイスももらいました。
先生とは祖母を通して長い間知っており、先生からも「ありがとう」と「ごめんなさい」この二つを・・ と言われたのに、よっぽど言ってなかったのか、いまだに出来ているとは言えぬ状態です。 なかなか難しいですね。私は今自分の立場が半端というか、職も条件が厳しくないため、親の職場なので完全な自立もできず、気持ちも安定していないイライラから、他の事へまで悪影響・・。
自分の過去が嫌で、何もかも言い訳にしてしまったり、正直自分でも今どうしていいか分からず、相談をと思いました。今は気持ちが安定していないからか、今まで以上に感情的になりやすかったり、 どうしたらいいかよく分からなくなります。
親とも前々から反発が多く、私は今何をすれば、道はひらかれるのですか。 教えてください。
先生
あなたの幼い頃からのお付き合いですね。朝、おはようございます。ありがとう。御免なさい。 履物を揃える。これだけ守ったならば、幸せになれると聞きました。あなたは素直で良いお子と思いますが、もっともっと素直になってください。道は開けると思います。
平成十六年十一月号「道」掲載
質問
先生こんにちは。今回も質問をさせて頂きます。聖書に「求めよ、さらば与えられん」とあるそうです。この言葉はどのように理解させて頂ければよ いのでしょうか。ある方は、求めるとは、神様に求める事である。与えられるのは、必ずしも求めたものではないが(例 子供がわがままで求めるものを、親が子の為を思って与えないのと同じように)、 私達にとって(私達が求めたものとは限らないが)「良いもの」を与えられるだろう。だから安心して求めなさい、と。そのようにおっしゃる方もいらっしゃいます。
また、神様に求めても良いとしたら、「求める心は苦しみを生むから、また、魂の曇りとなるから求め はる心から離れなさい」というお言葉に、背くような気がするのですが、どのように思われますか。 斉藤先生がおっしゃっていたように、人の幸せや、自分を正しくお導きくださる事を祈るのは構わないと、私も思わせて頂いています。それ以外のことを求めて祈っても良いのでしょうか。先生はどのように思われますか。 よろしければお教えください。
先生
「求めよ、さらば与えられん」この言葉は色々の取り方があります。これは物質や金銭ではなく、また、権利、私欲の求めではありません。私はこの様に信じてきました。
ある一つの理想、あの高い峰(心の世界)に登りたい。また現実にこの様になりたい。
人々を幸せにしたい。この思い、常に求めなさい。そうすればやがて与えられるでしょう。
私は求めるもの、その全てを与えられました。幸せです。物質、私利私欲を求めないで下さい。物質は有限のものです。みんなが有限のものを求めては、与えられるはずはありません。私利私欲は無限のものです。 みんなが無限の欲望を求めた時、必ず争いが起きます。
高い理想を求め、道を求め、人々の幸せを求めましょう。
平成十七年一月号「道」掲載
質問
今日、知人の紹介で高知での講演会に参加させて頂きました。中程の列の左の端に座っており、後のデモンストレーションにも参加させて貰いました。(高知の豪傑ですねと先生が言って下さいました) 同行していた私の母は脳下垂体の腫瘍や子宮脳腫等で大変苦しんでおり、治療をして頂ける事があるという事だったので、先生に治療して頂け、手の表面が六十八歳には見えない程、張りが良くなり、その効き目の程を確認したのですが、私は先生の治療を受ける事を求めませんでした。
私自身も、高知医大の先生が、数百万人に一人と認めた奇病の持ち主ですが、それを何とかする為に 精神世界に触れ修行を始めた訳で、仮にそういった修行をする前に、あのような形で、本人の努力や 行ないなど関係無しに機械的に癒して貰っていたなら・・・今の私は無かった事に気づいたからです。
「人生とは、重荷を背負うて、長き坂道を登るが如し」と徳川家康が言っていますが、自らが産まれる時や、その生涯の途中で自ら選んだせっかくの重荷を捨てて、身軽になるのは逆に勿体ないのでは無いのか?と思った事もあります。その重荷を捨てるには、それなりの心の準備となにがしの代償が必要だと、私は考えてしまったのです。こんな私はひねくれ者なのでしょうか?
講演の後、エレベーターの側で待っていると、講演を終えた五十代の男性が、立って待っていた私と母を突き払って我先にエレベーターに乗るのを見て、それを更に実感しました。
あれでは先生の気持ちの十分の一も伝わっていないなと・・・。自分の身だけ健康で永らえればいい・・・ そういう考えなのだなと思い、哀しく思いました。
先生が自ら背負った、癒しの道の(荷の)重さを思うと、頭が下がります。今日は母を癒して頂き、 誠にありがとう御座いました。
先生
あなたはひねくれ者ではありません。ご安心下さい。人はそれぞれ思いは自由です。
善を悪と見、悪を善と見る、これも自由です。しかし原因結果の法則により、間違えば間違いの結果が現われ、正しければ正しい結果が出ると思います。
