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議会質問&会派取組

2012-10-29 10:22:00

 

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視察実施日 平成24年10月22日~24日

 

視察参加者(自由市民)
田畑 庄司、食野 雅由、田中  学、池尻 平和

 

視察参加者(新政クラブ)
真利 一朗、阪口 芳弘、南野 敬介

 

 

はじめに


 今回の視察は、三陸鉄道㈱主催の「被災地フロントライン研修」に参加のため、貝塚市議会自由市民・貝塚市議会新政クラブ、泉佐野市議会議員鎌野博氏、泉佐野市議会議員中藤大助氏の総勢9名の視察となりました。

 

 

報告 1 「被災地フロントライン研修」第1日目

       (平成24年10月22日)


 平成24年10月22日 10時30分頃、花巻空港にて、三陸鉄道㈱南リアス線運行部運転士の及川克彦氏の出迎えを受け、「被災地フロントライン研修」がスタートされました。

 


 まず、車中で震災時の津波の様子等をまとめたDVDを鑑賞しました。DVDでは、地震発生時からの映像で、即「津波が来る!逃げろ!」と叫び声が聞こえ、危機意識の高さがうかがえました。

 


 また、高台からの映像では「もうやめてくれ!」「誰か(波を)止めてくれ!」と叫ぶ声も収録されており、現場の壮絶さがうかがえました。


 DVD鑑賞後に陸前高田市へ到着し、陸前高田観光ガイドガイド部会長の新沼岳志氏の案内で市内視察致しました。


 新沼氏の話では陸前高田市では、都市部を被災前と同じ場所にするのか、高台にするのかが決まっておらずJRの復興も目処がたっていない状態である。また、災害当日は、地震から津波まで40分経過していた事から一度避難した方が戻ってきてしまい被害にあわれた方も多くいたのではないかと語られました。


 市役所跡地では、隣接する民間スーパー「MAIYA」との対応の違いが指摘されました。民間企業はどんどん復興に向けて取り組みが進められている。いち早く土地を確保し仮設のスーパーをオープンさせるなど対応が早かった。今ではそのスーパーを中心に街づくりが計画されようとしているとの事でした。


 また、このスーパーでは避難教育が徹底されていたようで、お客様で亡くなられた方はいたとは思うが、従業員で亡くなられた方はいなかったとの事でした。そういった意味では普段からの地震が発生すれば津波が起こると想定した訓練がなされていたのであろうという事でした。

 

 その後、今回視察の主催である「三陸鉄道㈱の盛駅」に立ち寄り、大船渡市・釜石市を車窓から視察し、大槌町へ到着しました。大槌町は、震災時貝塚市消防が担当した地域でありましたので、役場前等視察させていただきました。


 その後山田町を車窓から視察しました。山田町では津波被害もあったのですが、火災の被害も大きかったとの事でその地域により被害の違いも浮き彫りになりました。その後、宮古市に到着し一日目の研修を終了しました。

 

 

 

「被災地フロントライン研修」第2日目(平成24年10月23日)


 午前8時30分宿泊先を出発し、宮古市鍬ケ崎地区を車窓より視察し、浄土ヶ浜の避難路を見学した後、田老地区を視察しました。


 田老地区では海抜10mのスーパー堤防が建設されていたにも関わらず、その堤防を乗り越えて津波が押し寄せ被害にあったとのことでした。推定13m以上の津波が押し寄せた事と、スーパー堤防があったから安心して非難が遅れたのではないかとも言われていました。

 

 

 田老地区では、過去明治28年と昭和8年に津波に襲われていたのですが、今回の津波はその二つをの津波をはるかに超える大きさであったと言われています(左の写真の白いラインの上が明治28年、下が昭和8年の津波到達ラインです)


 その後、田老地区の仮設住宅(1000戸)を車窓から視察させていただきました。田老地区のグリーンヒルを活用し、仮設住宅及び仮設商店が建設されていました。


 岩手県各被災地では共通している事は、地震によって地盤が50cmから1m下がっていて、今もなお大潮時や台風などで浸水被害もあるとの事です。


 各地で所謂ガレキの分別作業等は進んでいますが、震災から1年8カ月も経過しているにも関わらず新たな街づくりが一向に進んでいない状況であったのでないでしょうか。


 所定の行程を終え、「被災地フロントライン研修」を終えました。

 

 

報告 2 ホテル観洋「語り部バス」(平成24年10月24日)


 第3日は、食野雅由議員、真利一朗議員、阪口芳弘議員、南野敬介議員の4名での視察となりました。
 平成24年10月24日午前8時45分、宿泊先のホテル観洋主催の「語り部バス」に参加しました。


 南三陸町の被災状況をバスの車窓及び現地で語り部からお話頂きました。
語り部はホテル観洋予約係の伊藤俊氏でありました。伊藤氏は震災当時南三陸町の町営住宅に居住しており、被災者のひとりでした。


 地域に住む知人や友人が亡くなり、辛い想いもあるのですが、広く南三陸町の現状を分かってほしいという気持ちが強くなり話す事が出来ると言われました。


 多くの被災者は幸いにも生き延びても、その後の辛さもある事が身にしみて伝わりました。
 コースでは防災対策庁舎や志津川病院跡地等町内を巡回しました。伊藤氏の話では、防災庁舎を残すのも賛否両論あるとの事でした。亡くなった場所は防災対策庁舎だけではないという想いも強いとの事です。


 南三陸町も地盤沈下が激しく、台風や大雨時には冠水したり、地下より塩水が湧き出してきて今なお苦労しているというお話もお聞きしました。


 最後に伊藤氏は、「どうか本日見た事、聞いた事をみなさん帰って一人でも多くの方に伝えて欲しい。そうしていただける事が辛い想いをしても話して良かったと思えるんです」と語られ、「語り部ツアー」は終了しました。

 

 

報告 3 宮城県南三陸町行政視察(平成24年10月24日)


 午前10時15分頃、南三陸町役場へ到着。後藤清喜南三陸町議会議長、阿部敏克南三陸町議会事務局長、三浦清隆南三陸町復興企画課課長の歓迎を受け、「復興の取組み状況について」行政視察を行いました。


 南三陸町では、昨年5月に機構改革を行い、宮城大学の教授の支援を頂きながら復興の取組みを行っている事が報告されました。


 また、住民アンケート及び懇談会を実施した結果、7割の住民が高台移転を希望している事を踏まえた震災復興計画を策定されました。


 「絆~未来への懸け橋~」と題した、復興計画では、復旧期を平成23年から平成25年とし「まちづくりの光を灯す」をテーマに、復興期を平成24年度から平成29年度とし「本格的な復興まちづくり」をテーマに、発展期を平成26年から平成32年とし「持続可能なまちづくり」をテーマに10カ年の復興計画を立てています。

 中でも7割の住民が高台移転を希望している事を踏まえ、現在の海岸部から即、住宅・産業・観光施設となっている立地を、海~産業・観光施設~緑地~住宅・公共施設~山へと段階をつけて街づくりを進める計画となっています。

 

 また復興に向けての現状と課題については
 ①継続的な財政支援
 ②創造的復興に向けた支援
 ③急激な人口減少
 ④区画整理の弾力的な制度運用
 ⑤市街地形成の開発手法の創造
 ⑥JR気仙沼線の早期復旧
 ⑦公立志津川病院の再建
 ⑧復旧・復興事業に要する人的支援
 ⑨グループ化補助金の期間延長
 ⑩放射能に関わる風評被害
があげられています。

 

 ①の継続的財政支援については、国の計画は5カ年であるが、10年で3000億の復興計画を予定。しかし、その実現には国による財政支援が不可欠であり継続して財政支援を求めているとの事です。


 ②の創造的復興に向けた支援は、被災前と同規模・内容にとどまらず、柔軟な対応を求め、公営住宅1000戸を建設計画。地盤沈下による浸水対策も進めなければならない事です。


 ③急激な人口減少については、打つすべはなく、現在歯止めは利かない状態ある。仮設住宅の建設用地も乏しく隣の市の登米市に仮設住宅を建設している現状もある。


 ④区画整理の弾力的な制度運用については、60haの海岸部について300億円の予算でかさ上げを計画。しかし補助対象となっていないため、補助対象となるよう働きかけ

 


 ⑥JR気仙沼線については、赤字路線でありJRもなかなか復興に力が入らないのではないか。国による財政的支援が不可欠であるとの事。


 ⑦公立病院についても、年間2億5千万の赤字。現在、仮復旧で、診療所として開設せいているが、入院施設もなく、医師不足の問題も合わせてあるとの事。


 ⑧復旧・復興事業に要する人的支援につても、職員40名程度が亡くなり、町役場機能が持たない状態。全国から行政職員を派遣していただいている。これからも継続した支援が必要である。


 ⑩放射能に関する風評被害も今なお残っているとの事でした。

 

 復興と一言でいっても、様々な取組があり、今なおボランティアセンターの残る南三陸町の抱える問題は甚大であると言わざるを得ません。
 人的支援、就労支援、心のケアも含め継続的な取組を進めていく事が大切だと意見交換し、視察を終了しました。

 

最後に


 南三陸町は昨年8月の貝塚市社会福祉協議会のボランティアバスで訪れた地であります。

 当時作業した健康センターは撤去されていました。

 基本的に南三陸町に残っている建物はすべて撤去し、新たなまちづくりを進める予定であるとお聞きしました。

 また、復興支援の仮設商店街「南三陸さんさん商店街」に立ち寄り南三陸町を後にしました。

 


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