講師(宗夜)ブログ
●先生を『先生』と呼べる人、呼べない人
お稽古に入る前のご挨拶
よし庵では必ず『先生』と呼びかけていただいております。
『先生、〇〇点前のお稽古よろしくお願いいたします。』
といった具合です。
膝前正面に扇子を置き、畳に両手をついた状態でのお声掛け。
頭を低くし『先生』を省略せず、必ず『先生』と呼び掛けてからお稽古を行う作法は、現代では珍しいかもしれません。
それには、よし庵なりの理由がございます。
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●挨拶をする姿がとても美しく見える
●上下関係がはっきりし、茶室の空気が整う
●先生を『先生』としっかり呼べる人は茶道の上達が早くなる
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●挨拶をする姿がとても美しく見える
お辞儀の姿勢と言葉遣いのバランスが取れていて、お相手にはとても美しく映ります。
『礼節をわきまえる』練習を毎度のお稽古で行うことで、年齢相応の落ち着きも培われます。
この作法は、『きもの』幸田文/著の文中より着想を得たもの。
礼儀に厳しい明治生まれの女性。幸田露伴の娘・幸田文さんが仰るなら間違いないだろうと思ったことがきっかけでした。
どうやら歌舞伎役者さんや狂言の役者さんも師匠にご挨拶する際に同じ作法をなさっておられる様子。
ドキュメンタリー番組などで同じ作法を拝見し、伝統を重んじる世界では共通の概念なのだと感じました。
●上下関係がはっきりし、茶室の空気が整う
疎んじられる傾向にある上下関係。
しかしそろそろ我を張る幼さに気付きたい。
場の空気に自分を合わせる大人の余裕を身につけたいところ。
そうでないと、茶道のお稽古は流れていかないからなのです。
茶道のお稽古は非常に複雑です。
亭主の作法だけではなく、お客様の作法も入り組んでおります。
『良いお席』とは亭主の力量だけでなく、お客様の力量も相まって形成されるもの。
一座建立(いちざこんりゅう)
の清々しい空気は上下左右が認識されてこそ作られていきます。
●先生を『先生』としっかり呼べる人は茶道の上達が早くなる
茶道の技量は人格と強く結びついています。
知識も技術も、
上(師匠側)から下(生徒側)に
流れてきます。
よし庵の生徒さん達が非常に優秀でいらっしゃるのは、勤勉であることと同時に心根が優しく素直であられる証。
師を師と認められる素直さがあるからこそ、流れてきたものを受け止められます。
宗嘉教授が御家元からの功労賞を賜る前のこと…
外部からのご参加者の中には
『道場破り』の精神を持った方々も多くいらっしゃいました。
その方々に共通する行動が
・タメ口
・先生を『先生』と呼ばない
・ひとの失敗に笑い声を立てる
などでした。
自分は数十年勉強してきた。
行躰先生に習ってきた。
茶名を持っている。
准教授である。
自分の教室も持って教えている。
などなど…
プライドの高さが邪魔をして、宗嘉先生を『先生』と呼ぶことが出来ず、お稽古中も度々反抗。
何かの拍子に褒めると調子に乗ってしまい、他の生徒さんに偉そうに指図をし始めました。
しかもそれが間違っていたので困ってしまいます。
ご注意申し上げても行動が改まることはありませんでした。
素直にアドバイスも聞けないから、所作も技術も何も身につかないまま去られていきました。
茶道が好きで長年習ってきたはずなのに…もったいない。
プライドを捨てることは、それほどまでに難しいことなのかも知れません。
しかし最初から『こういうもの』と正しい作法を教えてもらっていれば何の苦労もなく平和な空気を身につけることが出来ます。
そう考えると教室選びによっては、人生の何十年かを不本意に過ごしてしまいかねません。
ご在籍のお教室の先生は、正面から生徒さんに向き合うことを面倒に思っておられたのかも知れません。
『お上手、お上手』
と資格だけを前に前にと進ませてしまったのかも知れません。
あるいはその先生方ご自身も、茶道に入る前の根っこの部分『先生を敬う心』を身に付けずに先生になってしまったのかもしれません。
師弟関係の喪失
現代社会において個人の権利と引き換えに、私たちが失ったものの一つかも知れません。
先生を『先生』と呼んできちんとご挨拶をすること。
大人になってから取り戻しても決して遅くはないと思います。
価値を知った今なら、時間を大切にできるから。
●『ああ嫌だ!もう嫌だ!』 愚痴さえも包む古今和歌集
高野切第三種の終盤
(ん?)と目を皿にして何度も見返した和歌がありました。
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そゑにとて
とすればかかり
かくすれば
あないひ知らず
あふさきるさに
そうだからと言って
ああすればこうなるし
こうすればああなるし
ああどう言っていいか分からない
食い違いばかりで
(第1160首 よみ人知らず)
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そゑにとて(そうだからと言って)と、突然に始まる和歌。
直前の和歌への返歌か?と思ったけれど、直前の和歌は三日月🌙を詠んだもので意味がつながらず…
唐突に始まることで、何かにすごくイライラしている様子が伝わってきます。
あふさきるさ は
漢字を当てると『合ふさ切るさ』
長さが規格に合わないのでしょうか?
も〜!ピタッとハマらないのよ。
だからと言って切るわけにもいかないじゃない?
こんな声が聞こえてきそう。
面白い和歌を込めたものです。
撰者は紀貫之。
編纂を命じた醍醐天皇も当然知ってのこと。
その次の和歌も強烈で…
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世の中の
うきたびごとに
身を投げば
深き谷こそ
浅くなりなめ
(第1161首 よみ人知らず)
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これは現代語訳も必要ない、そのまんまの意味です。
すごいなぁ日本人。
表現の幅が広いなぁ。
これらの和歌は古今和歌集の第十九巻目の中の俳諧歌の段に収められています。
俳諧歌は、おもに滑稽な歌のこと。奇抜な着想によって正調から外れた歌とのこと。
もしかしてこのまま1100首まで続いてゴールか?
と心配になって先を読むと、
『大歌所御歌』とあり、日本各地の当時の主要都市を愛でる歌が風土記のように並び、雅びに幕が閉じられていました。
大歌とは、当時の祭事で、楽器の演奏に合わせて歌う歌のこと。
主要都市の景勝地を讃える歌が順番にならんでいます。
この祭事はもしかしたら…
古今和歌集の完成時に各都市の要人が招待されて催されたのではないかと想像したくなるのでした。
和歌集という国宝
ふわりとした真綿のような柔らかさを感じます。
鋭いものを柔らかく包み込んで無力化してしまう強さ。
文化力の誇示というと、大きな建造物がまず最初に浮かびます。
でも、立派であればあるほど維持が大変。
後世の人々への負担となります。
だけど、どうだろう。
紙と墨で出来た和歌集は朽ちにくい。
もしも全て覚えてしまって
口伝で継いでいくなら、朽ちることもない。
臨書をしていると、ところどころで小さなミスがあります。
ミス…と言っていいのか分かりません。
ただ、和歌集によって何ヶ所も相違があるのは事実です。
横に置いて書き写したのなら表れることのない相違でしょう。
これらはもしかして、口伝を書き起こしているのでは?と感じるのでした。
こんなにたくさん覚えられないのではないか。
普通はそう思います。
ところが継ぐことが自分たちのアイデンティティを証明する方法だとすれば…
中には喜んで覚える人間もいるだろうと思うのでした。
なぜ醍醐天皇は和歌集の編纂を命じたのか。
口伝に励もうとする心に望みを賭けたのかも知れない。
日本人のアイデンティティを繋ぐ確かな方法として。
臨書を進めていると、そんな風に思われるのでした。
●茶道のお辞儀 腰は低いがペコペコしない
お辞儀という所作。
ここに武士の魂が込められているように思えてなりません。
相手に礼を尽くす
腰は低い
しかし頭は垂れずペコペコしない
相手を立てる
同時に自分も立てる
だから信頼される。
真のお辞儀
行のお辞儀
草のお辞儀
いずれも腰から折るように心掛けます。
それぞれに相応しい角度や速度などがあります。
どの場面でどのお辞儀をするのか。
また、中級に上がった折の襖の開け閉めの手をつく所作と、何がどう違うのか。
よし庵では説明をしながら細かく指導しております。
腰を折り、ピタッと一瞬止まるこの所作。
身体の小さい日本人が、西洋諸国の人々と渡り合えたのは、この所作のおかげではないかと、最近思うようになりました。
所作の背後に見え隠れする武士道精神のおかげではないかと。
歴史の研究がどんどん進み、幕末の西洋諸国との交渉も『あの時点でよくまとめた』と、再評価される動きがあります。
1853年 黒船来航
小・中学校の歴史の授業では
『江戸幕府は慌てふためいた』
と習いましたが、実はそうとも言えないとのこと。
日本側は事前に情報を掴み、前もってかなりの用意をしていたことが明らかになりました。
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・アメリカから4艘の軍艦が江戸湾に訪れることと、その時期
・2艘目にペリー総督が乗船していること
・乗組員の大体の人数
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軍艦が現れるやパッと数百隻の小舟で囲み、2艘目に通詞と役人が近づいて総督に今回訪問の目的を尋ねたそうです。
しかし事前に情報を掴んでいたとはいえ、大砲を持つ巨大な黒船を目の前にして当時の日本人は相当な恐怖心を抱いたことでしょう。
江戸時代は大型船の建造を禁止されていたので国内用の船は商船ばかり。
日本の船は20〜30m
黒船は70〜80m
その大船が、航行の難しい江戸湾に易々と入ってくる。
三浦半島と房総半島に挟まれた
浦賀水道の一番狭いところ
約6.5km。
狭い分、潮の流れが早く、月との遠近や満干によって航行できる日数と時間帯は限られます。
海底は浅めで、陸地に近いところでは水深約20mだとか…。
一歩間違えれば大船も木っ端微塵です。
相手国は、一体どれほどこちらの情報を掴んでいるのか。
お互いの一挙手一投足に集中し、相手の出方を見ながら言葉を選んでいったことでしょう。
所作というのは、このような時に言葉以上に雄弁であるように思います。
無礼であったり不躾であったりすれば、文化力の低さを見せつけることになり、自国が窮地に陥る可能性もあります。
現代の個人であってもそれは同じこと。
所作を整えるということは、誰かと勝負するためでも優位に立つためでもないのですが…
ただお辞儀という所作ひとつにも自分そのものが表に現れます。
日ごろから整えておくことで、ある意味自分を守ることも出来るかもしれません。
茶道はお辞儀を通じてそのような現実を教えてくれるように思います。
●あな雅び…の光と影
趣味で古今和歌集を読み込んで3ヶ月目となりました。
1月は高野切第一種
2月は 〃 第二種
3月は 〃 第三種
本来、古今和歌集には1100首の和歌が収められています。
ですが長い年月を経て、上記の本には切れ切れでまばら、所有者も様々であるものを集められるだけ集めてテキスト化されているのでした。
第一種と第二種にまとめられている和歌は、花鳥名月を愛でた美しいものでした。
梅、鶯、桜、紅葉、月…
仮名文字を追って、
現代語訳で頷いて、
もう一度仮名文字で味わう。
小さな机の上なのに旅にでも出ているような満足感。
玉手箱を紐解くような気持ちになります。
『本当のところは生きるのが大変だったから、敢えて綺麗なものを国宝にして遺したかったのだろう』
と宗嘉教授。
天災、疫病、そして謀略。
確かに
少しも気が安まりません。
第三種を読み出すと、第一種・第二種とは異なる風景が広がりました。
つらい…、悲しい…
気落ちした和歌に多く出会うようになりました。
世の中はなんて辛いんだ。
もう山に籠ってしまいたい。
涙に暮れ、不運を嘆く
そんな意の和歌を多く目にします。
でも不思議。
実際のところは悲惨だったのかもしれませんが、和歌になると穢れが薄れる。
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よのなかは
夢かうつつか
うつつとも
夢とも知らず
ありてなければ
世の中は
夢か現実か
現実とも夢とも分からない
存在していて存在していないのだから
(第942首)
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現実と認められないくらいにつらい事に直面したのでしょうか。
生と死が近い時代。
末法思想の影響か『無空無絶』にも似ています。
やまと言葉の三十一音になると幻想的で美しい。
つらさが何処かに去ってしまうようです。
雅びには光も影も…
影にさえ美を持たせんとする
ここにも何か大きな意図があるのではないだろうか…。
やはり心奪われてしまうのでした。
●戦国時代、なぜお茶碗が褒賞になり得たのか?
お稽古後、生徒さんとお片付けをしていた時に大河ドラマの話になりました。
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大河ドラマ(豊臣兄弟)でお茶碗が出てきました。
『あ!お茶碗だ!』
と思ってちょっと嬉しくなりました。
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ご自身も茶道に関わっておられることに誇りを感じたご様子。
『お茶碗がご褒美だったんですね。でも蜂須賀小六には価値が分からなかったみたいですよ。』
ちょっと不思議そうでした。
確かに戦の褒賞がお茶碗というのは不思議です。
武士ならば土地が欲しいはず。
なぜお茶碗なのか。
おそらく二つの理由が存在したと思われます。
●一つには土地の割譲が難しかったのではないかと思います。
分けられるほど広大な土地がなかったということもあるし、簡単に譲れない事情もあったでしょう。
農民や平民も武装すると戦闘能力が高く、経済力も持つ自治区も多く存在しました。
気に入らない所有者には刃向かうことも多かったとのこと。
●もう一つは、武士独自の文化を確立して根付かせたかったことが挙げられそうです。
茶道、書道、香道、華道…
これらの文化は室町時代に幕府と五山寺院を中心に形作られていきました。
室町時代の初期…
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇と足利尊氏のタッグは、建武の新政後に崩れます。
再び貴族に力を集中させたかった後醍醐天皇。
言ってみれば醍醐天皇リバイバル
(Re・醍醐天皇)
醍醐天皇は905年に古今和歌集(日本初)編纂の勅命を下しました。
後醍醐天皇もまるで倣ったように
1326年に続後拾遺和歌集の編纂を命じています。
後醍醐天皇の息子は後村上天皇
言ってみれば村上天皇リバイバル
(Re・村上天皇)
村上天皇は醍醐天皇の息子。
951年後撰和歌集(日本2番目)編纂勅命を下しました。
貴族文化を再興させたい南朝の気概が感じられます。
一方室町幕府は、北朝にて天皇を立てますが権威の基盤は危うく、周囲の認知も今ひとつ。
後醍醐天皇は大変な能書家(書道の才能に長けた人)で、崩御後にもカリスマ性がありました。
たくさんの親王を全国に送り権力奪還の機会を伺わせます。
そのような折、海外や大陸から流入した文化・科学・学術が、幕府のニーズ・ウォンツに合致します。
航路の開拓によって頻繁に現れた欧州の行商人たち。
中国の王朝変遷により拠りどころを奪われた知識人たち。
五山寺院が交流の場として力を発揮しました。
日本語も大きく変化。
二字熟語・四字熟語が多く用いられるようになり、経済や法律の発展に活かされました。
この頃に、和歌から禅語の墨蹟へと人々の関心が移ります。
鎌倉時代以後の新興仏教の広まりもあって理解しやすい念仏が庶民に浸透していました。
『もののあはれ』に代表される大和言葉では時代の流れに対応できなくなりました。
和歌集の勅命も1439年の新続古今和歌集が最後です。
『道徳』の概念を持つ文化の中心に『茶道』
戦国時代に侘び茶となり、五感をフルに刺激します。
味覚:懐石料理、菓子、茶
嗅覚:香木、練香、炭
視覚:墨蹟、茶道具、建築
聴覚:静けさ(禅に由来)
触覚:茶道具拝見
身分を問わずに開かれたサロン
・茶室は人々を魅了します。
時代の担い手は我ら武士である!
武の力だけではない。
財の力だけでもない。
武士独自の文化『茶道』を価値あるものに仕上げてゆくのだ。
我々の手で!
動乱の時代だったからこそ尊ばれた『静寂』
21世紀の今も相変わらず動乱の時代です。
お茶碗を手にするとき、静寂と共に武士の逞しさも感じるのは、このような時代背景を持つからかも知れません。