講師(宗夜)ブログ
●困った時の神頼み
宗嘉先生に聞いてみました。
🔴『困った時の神頼みってありますけど、効果あるんでしょうか?』
🟦『ないね!ダメだ、そんなの💢』
ややお怒りのご様子。
🟦『調子良すぎるでしょう。困った時だけ頼って。信頼関係というものがあるんだ、神様との間にも。人間に信頼されない人は神様にも信頼されないよ。』
🔴『では、神頼みに行く前に何かやることがあるとすれば…』
🟦『まずは部屋の掃除ですね。運気の上がらない人は住居が汚れていたり散らかっていることが多い。遠くの神様に拝む前に、自分の家の神様を大事にしなさいと言いたい。』
🔴『確かに掃除は大事ですよね。部屋が散らかっていると集中出来ないですものね。』
🟦『住居は常に綺麗にしておく。住居が綺麗ということは常に脳がアイドリング状態で居られるということ。そうすると情報に敏感になり、判断力も付き、すぐに行動できるんだ』
🔴『ところで…。子供の頃《バチが当たるよ》などの表現をよく耳にしましたが、《バチ》って本当にあるのですか?』
🟦『ある』
🔴『どんな時にバチが当たるのですか?』
🟦『怠けた時』
🔴『努力をしない人はダメですか』
🟦『ダメ。他力本願はダメ。中途半端もダメ。本来持っている力を出さないということは、時間やチャンスをムダにしているということだから。』
🔴『結局は生活習慣をきちんとせよ、ということなんですね。』
🟦『そう。近道はない』
🔴『では、掃除をきちんとして、生活習慣も見直して自分を修正していくと、具体的にどうなるのですか?』
🟦『綺麗になる』
🔴『綺麗になる?外見が?』
🟦『そう、外見が。住居の状態は外見に出る。家が綺麗なら自分も綺麗になる』
🔴『そのほかには?』
🟦『静かになる。無駄口が減る。空間のムダや、時間のムダ。それらが減ってくると言動のムダも少なくなる』
🔴『様々なムダを減らせるのですね。そうすると…』
🟦『人から好かれる』
🔴『人から好かれる、ということは…』
🟦『神様からも好かれる』
🔴『そこに落ち着きましたか。まずは掃除、掃除と😊』
春を迎えて暖かくなってきました🌸☘️
掃除をするにも良い季節ですね😊🧹
新たなチャレンジをするために、まずは住居などの環境を整えて参りましょう✨
●人のこころを掴む技術
奈良の東大寺南大門の金剛力士像を見ていた時、中学校の修学旅行生を引き連れていたガイドさんを見かけました。
反抗期真っ盛りの中学3年生ですが、ガイドさんは上手にコミュニケーションを取っていて感心しました。
南大門に生徒を集めて、金剛力士像の説明をしようとしていますが、生徒が三々五々に散らばり1箇所に集まりません。
生徒の方は集まらなきゃいけないことは、本当は分かっています。
でも普通に声を掛けられてもウザいだけ。
そこでガイドさん笑顔でこう言いました。
『はーい、そこの5名さん。いらっしゃーい😀』
そばにいた生徒たちも後に続きます。
👶👦👧『いらっしゃーい!』
『はーい、そこの8名さんもいらっしゃーい😄』
👶👦👧『いらっしゃーい!』
『みんな揃たね。ほな説明するよー😃。これが、かの有名な…』
👦『おっ、風神雷神』
『そ!風神雷神。てっ、ちゃうわ❗️』
👶👦👧『ガハハハ‼️』
上手いなぁ〜、ひとの心を掴むのが。
観察すると、ガイドさんの周りには味方となってくれそうな生徒たちが数名おりました。
ガイドさんの優しく朗らかな人柄に生徒たちは魅了されているようでした。
そして全体を動かすために、彼らの力を上手く借りている感じに見えました。
誰もが楽しそうな雰囲気でWin-Winの関係を築いていました。
集団を動かすには方程式が存在する。
そう言えば、世界的なマエストロ小澤征爾さんもそのようなことを仰っていました。
『8割を味方にするように努力する。まぁ、7割でも良いけどね』
何かの対談で仰っていました。
『100%は目指さないんですか?』
アナウンサーが問うと、
『100%はありえないでしょ。不自然だもん。7割から8割が良いんだよ。』
厳しそうな顔がふわっと緩んで笑顔になる。
最後の最後はガツガツしないで人間味がある。
こういうところに人はホロっとくるのかなと思いました。
●美のカタチは一つではない
こちらは書道の先生からよく掛けられるお言葉です。
最初は真意が分かりませんでした。
一つの文字の美しい形を真似するのがやっとでしたので、混乱の嵐が吹き荒れるばかり。
『色々あると言われましても…。どれか一つに決めてくださいよ💦』
と泣きたい気持ちになりました。
しかしお稽古を積むと、先生のお言葉が少しずつ霧の中から浮かび上がってきました。
『躍動せよ!』
そんな風に聞こえます。
美しい形にこだわるあまり、ガチガチに体を強張らせて、見本と睨めっこして一喜一憂していてはダメなんだ。
文字だって生きているんだよ。
例えば基本的なセオリーとしては、
・中心を揃えて
・漢字は大きく
・平仮名は小さく
というものがあります。
その中でも画数の多い漢字はより大きくします。
セオリーを守れば何となく全体的に美しく見えるのですが、魅力的な書にはなりません。
何となく綺麗なんだけど、物足りないのよね…、となります。
その裏に人格が見えてこないからでしょうか。
じゃあセオリーなんて無視して、好きなようにやってみようとすると、もうごちゃごちゃ🌀
やっぱり『型』は必要なんだな、と実感します。
この美的感覚は一朝一夕では身につかない。
ほんのちょっと傾けたり、字と字との隔たりをずらしたり、トライ&エラーを繰り返して数年掛けて築いていく技術なのでしょう。
この経験こそがゆくゆくは『自分らしさ』となるのかもしれません。
ところで…
●美のカタチは一つではない
この言葉を初めて聞いた時に、ふと頭に浮かんだのが奈良東大寺南大門の『金剛力士像』でした。
運慶・快慶で有名な慶派が作り上げた奈良の金剛力士像は、当初はセンセーショナルな存在であったようです。
筋肉ムキムキであまりにも写実的すぎると。
当初は院派や円派が主流で、この両派は京都の朝廷と関わりが深かったとのこと。
それに対し、慶派は奈良仏師の小さな集団であったそうです。
しかしこの筋肉ムキムキが武士のwantsと合致。
『力こそ全て』を象徴するような美のカタチが、武士の台頭と共に、慶派の地位をも上げていったとのことでした。
そしてまた、納期が異常に早かったとのこと。
この巨大な像を69日で作り上げたそう。
寄木造(よせぎづくり)で3000パーツにも分かれるそうですが、一体どうやって作成を可能にしたのか…。
木は筋目に沿って膨張と収縮を繰り返すと聞きますので、木を知り尽くし、技術を極め、何代にも渡って準備を進めていたのでしょう。
『んまっ、お下品な!』
と最初は難色を示した人々も、
『でもカッコいいかも…』
と、徐々にファンを増やしていったそうです。
この躍動感。
私も奈良で実際に目にした時には驚きました。
美のヒントをひとつ示してくれているように思いました。
●ミヒャエル・エンデと禅
先日は、よし庵の花月会にて
『東貴人且座・茶箱付き花月』
を行いました。
ご予約の会員さま2名が、どうしても都合がつかなくなり宗嘉先生と工藤も中に入ってのお稽古となりました。
東黄人且座にて、宗嘉先生が半東役を引き受けられ、黄人茶碗にて薄茶を点てられたのですが…
この時のお点前の美しさには息を呑みました。
実際に炭で沸かした湯は、湯気の立ち方が電気の時とはまるで違います。
湯気の白さが増すのです。
そして滞空時間が長くなります。
柄杓にも茶碗にもしばらく濃い湯気が留まり、ふわりゆらりと空に漂います。
その湯気が、窓からの光を受けて一層に輝き、宗嘉先生の白い着物と袴と相まって、一つの風景となって目に入ってきたのでございます。
工藤は毎日毎日、宗嘉先生のお点前を目にしていますが、この日はいつも以上に先生のお点前の美しさに目を奪われました。
カメラワークや解説に気を取られずにお稽古に集中できたからでしょう。
先生のお点前から大自然を感じます。
まるで自分がその白い湯気になってしまって、宙を漂っているような気分になります。
見ている間は何もかも忘れて、自分が細胞レベル、分子レベル、素粒子レベルにまで分解されて、もう一度新たな気持ちで身体を組み立てているような、清々しい気分になります。
分解されて綺麗さっぱり洗われてから、もう一度身体を取り戻すような感じ。
自分が湯気になったような…
湯気の気持ちが分かるような…
分子レベル、素粒子レベルで見れば、私と湯気は共通点が多い。私の体の半分は水分です。
『私の体の中にはあなた(湯気)がいるのね』
と会話したような気持ちになるのです。
お稽古の後で、皆さまと歓談する時間が少しあり、宗嘉先生のお話がありました。
『奥秘十二段を行うようになって利休居士の隠された気持ちに気付くようになったのだ、』
とのことでした。
色々な深い意味が自分の身体に入ってきたとのことでした。
この時に、なぜだかミヒャエル・エンデの『はてしない物語』が工藤の脳裏に浮かんだのでした。
何の前触れもなく突然に。
宗嘉先生はこの本をご存知ありません。
工藤が13歳の時に読んだ童話です。
この本も茶道には全く触れていないのに、ふと多くの共通点を感じたのでした。
童話ですが、百科事典かと思われるほどに分厚い本。
紅色の背表紙に『はてしない物語』と黄金色に印字されているのでした。
こんな分厚い本読めるかな…と不安に思いつつも図書室で手に取りました。
その頃、クラスに馴染めずにいました。
読書の時間が自分の心の拠り所でした。
読み出すと、私と同じく友達に馴染めない弱気な少年が出てきました。気持ちがよくわかります。
そして、面白くて面白くて夢中になりました。
授業の合間の休み時間はすべて読書に充てました。
毎日少しずつ読み、読み切るのに数ヶ月かかったように記憶しています。
現実の世界と、もう一つの世界とのパラレルワールドの話でした。
もう一つの世界では『無』が広がっていきます。
何もかも呑み込んでしまう『無』
その世界の住人の脅威です。
交わらないはずの二つの世界が、一つの本『はてしない物語』で繋がっていき、弱気な少年がそれらの世界と深く関わっていく物語です。
詳しいことはもう忘れてしまいました。
何しろ13歳の時に読んだきりです。
ですが、あの時の瑞々しい感動。
それだけはよく覚えています。
ページをめくる動きももどかしいほどの臨場感。
読んでいる間は、周りの声は全く聞こえなくなり、たった10分の休み時間に永遠を感じました。
あんな感動はあの本だけでした。
あの時の感動の仕方が、宗嘉先生の感動の仕方とリンクしたようです。
しかし…
なぜエンデは『無』に着目したのだろう。
大変な親日家で、2番目の奥さまは日本人女性であったという。『はてしない物語』の翻訳家。
『無』って、そう言えば…
般若心経に何度も出てくるなぁ。
調べてみると、エンデは48歳から度々日本に滞在し、禅に触れ、弓道を嗜んだそう。
日本文化の奥深さに深く触れて物語の構想を練ったとのこと。
禅寺のご住職と禅問答を繰り返したそうです。
その後3年掛かりで50歳の時に『はてしない物語』を書き上げたと言う。
いまの私と同じ50歳の時に。
40代後半あたりから、エンデもきっと人生について深く考えるようになったのだろうと思います。
少しずつ体の不調が見え始めるころです。
生老病死という四つの苦に実感が込もります。
この辺りで一度深く自分の人生を振り返り、色々なことをリセットし直さないといけないんじゃないかな…と考える時期なのかもしれません。
そして突き当たったのが『無』だと思われます。
切なくなったり虚しくなったりすることもあるかも知れないけれども、あんまり考えなさんな。
だって、そんなもの無いんだから。
今見ている世界は、そもそも無いんだから。
物語の中でも、向こう側の世界の『無』が広がって色々なものを呑み込んで膨らんでいきます。
確か最後は全部無くなってしまったような…
そして無から新たなものが生まれたような…
結局、日常がいつも通りに繰り返されていったと思います。
『あれ?夢だったの?』
と少年は思うけれどもやっぱり実際に起こったことで、彼は何かを少し得て、すこし逞しくなったように思います。
これだけ瑞々しい文章が書けるということは、エンデ自身が禅に対して純粋に感銘を受けたからだろうと想像します。
この少年はエンデその人です。
ところで物語にも出てくるパラレルワールド。
本当に存在するようで、世界中の物理学者が懸命になって研究を続けているそうです。
いま現在見つかっている素粒子17個の他に、多数の未知の素粒子が存在するというのです。
超対称性素粒子と呼ばれていて、今の素粒子にそっくりの性質を持つのですが、ほんの少し構造がズレているのだとか。
それらが作り出す次元が余剰次元というものらしく、実は私たちの身近に存在しているそうです。
それがパラレルワールド。
私たちには見えないけれども。
見えないし、聞こえないし、触れられないし、嗅げない。
これは私の勝手な想像ですが…
ものすごく集中している状態の時には、実は私たちはその余剰次元に足を踏み入れているのではないかと思うのです。
この研究を行っている物理学者や数学者が、たくさんの数式を並べて嬉しそうに語る姿。
彼らもその時間には足を踏み入れているように見えます。
または、音楽家が素晴らしい演奏を奏でている最中。それをうっとりと聞いている観客。
アスリートが信じられないほどの素晴らしいパフォーマンスを遂げた瞬間。
それを応援している観客。
本を夢中になって読んでいた13歳の時の私。
宗嘉先生の絵画のように美しいお点前。
それを見て感動している生徒さま。
その瞬間、自分を忘れています。
無我の境地。
とても心地よい時間です。
自分を忘れて、一旦自分から離れて、
その後にもう一度自分に入り直す。
この行程により、自分をより意識するような取り戻すような気持ちになります。
これが大事なのかなと思いました。
37年の時を経て、エンデの気持ちが分かるような気がします。
私もいま、パラレルワールドを感じているのかも知れません。
●畳の縁内16目にピタッと座る方法
畳の縁内16目に、一度でピタッと座る方法があります。
茶道口から左足で退出する時の足の進みをご覧ください。写真は左側を建付としています。
。。。。。。。。。。。。
一足幅(ひとあしはば)で進みます。
❶左足
❷右足
❸左足のかかとを右足の親指に直角に交わらせる
❹右足の親指を軸にしてかかとを反転させる
❺左足のかかとを右足のかかとにスライドするように合わせる
。。。。。。。。。。。
一足幅(ひとあしはば)の何が良いかというと…
・歩数をピタリと揃えることが出来る
・摺り足のリズムも揃う
・歩く速度が一定となる
この3つの長所を得られることです。
これらが整うと全ての所作が美しく見えます。
茶道のお稽古はあまりにも難しすぎて、いったい何から身につけて良いのか分からない時には、このターンだけを毎日繰り返してみてください。
一足幅(ひとあしはば)で進むことにより、自分の体のサイズを把握することが出来ます。
ひとつの方法がしっかりと身につけば、お部屋が変わっても、逆勝手などで右足から出る方法に変わっても、それほど混乱せずに調整できるようになります。
着付けでも一手幅(ひとてはば)という表現があります。
通じにくいので私は約15cmと言い換えていますが、自分の体のサイズを表現に生かす文化は素晴らしいと思います。
他にも《身の丈を知る》などがあります。
実践を重んじる武士らしい文化。
自分の体を知り、自分の体から安定感を生み出すことは、オトナ世代の美と健康を保つ秘訣となりましょう。
もう一つ、
一足幅(ひとあしはば)に私がこだわる理由があります。
●着物の裾から足をぬぅっと出したくない
白足袋とは言え下着のイメージがあります。
平安期の女性が足を見せないのはそういった理由からではないでしょうか?
武士の時代でも位が高くなるにつれ、足を隠していきます。
私は着物の裾から見える白足袋の面積を、常に5cm四方にとどめたいと勝手に思っています。
一足幅(ひとあしはば)で動くと、足の面積を5cm四方を保つことが出来るのです。
また、着物の裾が大きく翻ることもありません。
着物にシワがつきにくくなり、歩いている姿も、立ち姿も美しくなります。
是非ぜひ試してみてくださいませ😊🤲