講師(宗夜)ブログ
●雅な語り口 ①
先日、宗嘉先生が今日庵にて坐忘斎御家元へのお目通りを叶えられました。
静かで
ゆったりとした
穏やかな語り口
御家元のお声を直接耳にされ、
感銘を受けられたとのことでした。
その日以降、宗嘉先生の語り口も佇まいも深みを増されました。
。。。。。。。。。。
その時の出逢いが
人生を根底から
変えることがある
よき出逢いを
(相田みつを)
。。。。。。。。。。
御家を継ぐとはそのような力をも継ぐことなのかも知れません。
裏千家門下生の私たちも、師匠の宗嘉先生を通じて御家元の志を知り、自らのなかで深めていくということが人生の目当ての一つになりそうです。
静かで
ゆったりとした
穏やかな語り口
これを茶道お稽古の問答の中で繰り返し行っていけば、一人一人の佇まいも語り口に引かれるように変わってくるだろう、と宗嘉先生が話されました。
しかし、
静かに・ゆったりと・穏やかに…
という抽象的な言葉が並んでも、
イメージがすぐに掴めるものではありません。
ここにお教室ごとの個性が現れ、講師陣の美意識が試されるように感じます。
よし庵では、声の出し方のヒントを『仮名の筆遣い』に求めることにしました。
静かに入って
静かに抜ける筆です。
仮名(和様の書)では
遠くから筆を入れて、遠くに抜けて行くように書きます。
よし庵では声の出し方・話し方もこのように行います。
問答に例えてみます。
。。。。。。。。。。
お練りのほど良い
香り高いお茶を
ありがとうございました。
。。。。。。。。。。
●お練りのほど良い
→声を落として・ややゆっくり目
●香り高い
→声を少し張って、少しスピードを上げる
●お茶を
→上げた分を元に戻す
●ありがとう
→また声を少し張って、少しスピードを上げる
●ございました
→ 声を落として・ややゆっくり目
最後の『た』でフェイドアウト
茶室の空気に自分の声を馴染ませて溶け込ませるような感じ。
細かく解説するとこのようになります。
ただ考え過ぎると不自然になりますので…
心を静かにして茶室の空気を感じとり、その空気が清らかに流れるように声を乗せていく
そのようなイメージを持っていただければ十分に思います。
今週のお稽古で早速実践し、生徒さんの語り口が大きく変わりました。
言葉が変われば細胞も変わる
大人としての目覚めを茶室が教えてくれるように思います。
お点前を覚えるだけではない
所作を身につけるだけではない
声と語りの大切さ
茶道の新たな魅力によし庵全体が目覚めたのでした。
●千年前のラブレター
2026年🐎午年になってから
本腰を入れて和歌と仮名に向き合っています。
きっかけは、本が手に入りにくい現状を知ったことでした。
書の勉強には古典のテキストが欠かせません。
数年前から二玄社という書道の出版社の本を集めていました。
最初のうちは気の向いた時に一冊ずつぼちぼちと買っていました。
そのうちに仮名の面白さに気付き、数冊まとめて購入するようになりました。
ところが…
たった数年のうちでも、本が減ってきて買いづらくなりました。
新品が出回っていない様子。
もともとの発行部数も少ないようですが、どうやら新規発行が止まったようです。
値段も高くなり中古でさえ貴重な存在になりました。
古典文学の本も減ってきました。
仮名の勉強を進めるには、古典の学びも必要なため、大学受験用の三省堂の古典参考書も買い進めていたのですが、こちらも手に入れるのに大変苦労しました。
昔、中学生のころ…
本屋さんの参考書の棚にズラ〜っと並んでいた三省堂の古典の参考書。
これらを見た時
うわぁ〜。
勉強いやだぁー!
と思ったのですが…
今は同じ棚に漫画がズラ〜っと並んでいます。
漫画が悪いわけではないです。
でも…
何か掛け替えのない、とても大事なものを失ったような、焦りに似た感情が湧いてくるのでした。
あの頃は古典が嫌いだったけれど
逃げ回っていたけれど
ずっと同じところに居続けてくれると思っていたのでした。
いつ見てもずっと同じところに居てくれると思って安心していたから嫌がって逃げていたのに…
もう居ないのかぁ…
仮名にしろ古典にしろ
かつてはこの国の柱となり光り輝いていた文化が、音も立てずにひっそりと消えようとしている姿に、熟年期を迎えたいまは心が締め付けられる思いです。
仮名と古典の素晴らしさ。
ぐるりと一周まわって帰ってきてようやく気付きました。
この出会いを今こそ大切に。
何とか習得していきたい。
そんな気持ちに応えてくれるかのような文言を古今和歌集に見つけました。
。。。。。。。。。。
あたらしき
としのはじめに
かくしこそ
ちとせをかねて
たのしきをつめ
(高野切第一種より)
新しい年の初めに
このようにして
千年もの未来を先取りして
楽しみを積み重ねるのだ
。。。。。。。。。。
ふんわりとした優しい和歌の響き。
『たのしきをつめ』
に参ってしまいました💘
千年後も、我々の子孫は当然のように楽しんでいるのだ。
私たちはそれを確信していて、先取りして愉しむのだ。
千年後を生きる人々よ。
あなた方も飽かずに愉しみを積むのだよ。
いいね、いいね。
まるで千年前からのラブレターのよう。
教養とか学びとか価値とか
そういうものとはちょっと違う。
仮名や古典から私が得ているのは
生きる勇気です。
見守ってくれているみたい。
肉筆からは確かに過去に存在した、人物の気配が立ち上がります。
宝とは、本当はこういうものかもしれません。
●視点が近い
先日、宗嘉先生に奥伝のお稽古を見ていただいた時のご指導でいただいたお言葉
。。。。。。。。
視点が近い。
もっと全体をふわぁ〜っと見て。
。。。。。。。。
視点…
その時の自分は、少し考え事をしていました。
集中しようと試みていたものの、何かに気を取られて
(これではいけない)
と自分を律しようとしていたようです。
体調が悪いというほど悪くはないけれど、万全というわけでもなく、なんとなく集中できない。
仕方がない。
こういう時もあるからなぁ…
茶道のお稽古の良さは、
『いまの自分を知れる』
ところにあるように思います。
本当に茶道とは不思議なもので。
覚えているには一応全部覚えているのだけど、
日によってするすると手が動いたり動かなかったり。
動いていても速すぎて趣がなかったり。
逆に意識し過ぎて間伸びしたり。
何もかも
『いまの自分』
そして数名でのお稽古は、他者の中にも『いまの自分』を見つけることができます。
これはとても貴重なひと時かも知れません。
AIが何もかも答えてしまう時代。
嘘か本当か知らないけれど、とりあえず答えが出る時代。
それでも答えが出せないのが
『いまの自分』
安易に知ることはできない。
向き合うしかない。
向き合わせてくれるのが、
『道』がつくお稽古のように思います。
ご指導を受けて次の課題があっても何となく心地いいのは、自分に向き合えたからでしょうか。
こういう時間が人生のご褒美のように思います。
●灯りと集中力
よし庵のメインの茶室がペンダントタイプの直接照明から、天井などを照らす間接照明に変わりました。
・パネルの和紙の後ろからの灯り
・床の間の天井裏から軸荘を照らす灯り
・欄間下から欄間と天井を照らす灯り
今はこの三つが私たちの目を助けてくれています。
また、それぞれの照明は暗い空間を挟んで設置されています。
明るい→暗い→明るい→暗い…
灯りにも『間』があります。
一つ一つの明度は高くありません。
蝋燭🕯️の燈(ともしび)ほどなのですが、闇の存在のおかげであかりが際立ちます。
この照明に変わってから、講師の私共も、生徒さんも集中力が上がったように感じています。
光の色も変わりました。
蛍光灯の人工的な青白い光から、LEDの調光器の暖色に変わり、ホッとしている自分に気が付きました。
私たちは、本当は自然の燈(ともしび)を求めているのだなぁ、と思いました。
まさか本当に蝋燭で生活することは出来ないけれども、色を似せるだけでも気持ちは変わると知って少し驚いたのでした。
燈が明るくできるのは半径1m〜1.5mほど。
あとは闇。
昔からその闇が私たちをホッとさせてくれたのかも知れません。
ほの暗く
ほの明るく
心地よいお稽古時間
大人にふさわしい空間
若い頃みたいに
パァ〜ッと弾けることはない
ドーンと落ち込むこともない
あれはあれで良かった。
良い経験だった。
だけど大人になったら静かな落ち着きが欲しい。
何もかも知らなくていい
何もかも見なくていい
良いことも悪いことも少しずつ混じっているから。
光と闇があって
その境が曖昧で
そんな茶室で右に行ったり左に行ったりしながらお稽古していると、ふわぁ〜っと羽が生えたみたいな軽い気分になることがあります。
和紙を貼った透かし窓を拵えたかつての茶室も、先人がそのような心地よさを追い求めた証なのでは…と思いました。
心がほぐれたら、自然と集中して、美味しいお茶が点てられるようになっていました。
そんなひと時を持てる場に出来たら…
よし庵の願いです。
●仮名から感じる音
仮名の練習をしていると、文字を追っているのに音が聞こえてくるような不思議な気分になることがあります。
文字と音が一体化しているような感じです。
さらさらとした速めの筆
ぬるぬるとしたゆっくりめの筆
シュッシュッとしたスピード感に溢れた筆
など様々あり、筆に乗る音も様々です。
それにしても和様の書も個性豊か。
これが本当に同じ和歌なのかと思うほど。
・漢字の用い方
・仮名文字の選び方
・字軸のずらし方
・連綿(れんめん)・太細(たさい)の付け方
・行全体の揺らし方
・墨の濃淡や潤渇の付け方
などなど。
書き手によってかなり異なります。
書かれた時代が異なるので、美意識が異なるのは無理もないかもしれません。
手元にある歌集で比べてみると…
・関戸本古今集
・元永本古今集
どちらも古今和歌集の198首め
(巻第四 秋歌上 詠み人知らず)
。。。。。。。。。。。
あきはぎも
いろづきぬれば
きりぎりす
わがねぬごとや
よるはかなしき
(秋萩も色付きコオロギが鳴いている。我が身と同じように悲しくてねむれないのだろうか)
。。。。。。。。。。。
・関戸本の選字
あきはぎ(支)も(裳)
いろづきぬれば(者)
き(支)り(利)ゞゞす(春)
わが(可)ねぬごとや
よるはか(可)な(那)しき(支)
・元永本の選字
あ(悪)き(支)はきも
いろつきぬれば(者)
きり(利)〜す(須)
わが(可)ねぬごとや
よるはか(可)なしき(支)
関戸本は藤原行成の筆と伝わり、その通りだとすると1000年ごろになるようです。ただし確証はなく、いまも研究が進められているとのこと。
元永本は源俊頼の筆と伝わり、年号から名付けられていて中には編纂年も明記されているので1120年とされています。
それぞれに趣があって、
それぞれの薫りがあって、
とても素敵。
この違いはどこから生まれてくるのだろう。
『音』なのではないだろうか。
筆を滑らせている書き手も、音を感じて、その人物が捕らえた音を書に表したのではないだろうか?
一つ一つの作品が楽譜だったりしないだろうか。
それはどんな音だったのだろう。
想像を巡らせ…
訡詠かな?
最初はそう思って動画を覗いてみました。
張りのある声で詠んでおられる。
修練を必要とする素晴らしい技であります。
しかし仮名の趣とはどうも違うような…
種類の異なる美しさに思えました。
訡詠には仮名から離れた、訡詠ならではの一つの独立した世界観が形成されている。
そんな風に感じました。
では人の声でないとしたら…
雅楽…?
古今和歌集編纂の勅命が下されたのが延喜五年(905年)醍醐天皇の時代。
同じくこの時代に雅楽も盛んになり、醍醐天皇ご自身も和楽器の名手だったとか。
雅楽の楽曲も楽器も、作られた当時から変わっていないという。
この時代の薫りを何とかして後世に伝えたい。
物は腐る。人も死ぬ。
ではどうしたら伝えられるか。
書に込めてみよう。
雅楽に込めてみよう。
そんな想いがあったのではないかなぁ。
私の勝手な思い込みですけれども、仮名の雰囲気と雅楽の雰囲気は響き合うように感じました。
最近は雅楽を流しながら書の練習を行っています。
書き手によって好きな楽曲が違うので、同じ和歌であっても違いが生まれたのかなぁ、などと想像しています。
和歌も仮名も雅楽も、独特で神秘的。
よくぞ21世紀まで守ってくださった。
携わる全ての方々に感謝の気持ちが湧いてきます。



