講師(宗夜)ブログ
●ミヒャエル・エンデと禅
先日は、よし庵の花月会にて
『東貴人且座・茶箱付き花月』
を行いました。
ご予約の会員さま2名が、どうしても都合がつかなくなり宗嘉先生と工藤も中に入ってのお稽古となりました。
東黄人且座にて、宗嘉先生が半東役を引き受けられ、黄人茶碗にて薄茶を点てられたのですが…
この時のお点前の美しさには息を呑みました。
実際に炭で沸かした湯は、湯気の立ち方が電気の時とはまるで違います。
湯気の白さが増すのです。
そして滞空時間が長くなります。
柄杓にも茶碗にもしばらく濃い湯気が留まり、ふわりゆらりと空に漂います。
その湯気が、窓からの光を受けて一層に輝き、宗嘉先生の白い着物と袴と相まって、一つの風景となって目に入ってきたのでございます。
工藤は毎日毎日、宗嘉先生のお点前を目にしていますが、この日はいつも以上に先生のお点前の美しさに目を奪われました。
カメラワークや解説に気を取られずにお稽古に集中できたからでしょう。
先生のお点前から大自然を感じます。
まるで自分がその白い湯気になってしまって、宙を漂っているような気分になります。
見ている間は何もかも忘れて、自分が細胞レベル、分子レベル、素粒子レベルにまで分解されて、もう一度新たな気持ちで身体を組み立てているような、清々しい気分になります。
分解されて綺麗さっぱり洗われてから、もう一度身体を取り戻すような感じ。
自分が湯気になったような…
湯気の気持ちが分かるような…
分子レベル、素粒子レベルで見れば、私と湯気は共通点が多い。私の体の半分は水分です。
『私の体の中にはあなた(湯気)がいるのね』
と会話したような気持ちになるのです。
お稽古の後で、皆さまと歓談する時間が少しあり、宗嘉先生のお話がありました。
『奥秘十二段を行うようになって利休居士の隠された気持ちに気付くようになったのだ、』
とのことでした。
色々な深い意味が自分の身体に入ってきたとのことでした。
この時に、なぜだかミヒャエル・エンデの『はてしない物語』が工藤の脳裏に浮かんだのでした。
何の前触れもなく突然に。
宗嘉先生はこの本をご存知ありません。
工藤が13歳の時に読んだ童話です。
この本も茶道には全く触れていないのに、ふと多くの共通点を感じたのでした。
童話ですが、百科事典かと思われるほどに分厚い本。
紅色の背表紙に『はてしない物語』と黄金色に印字されているのでした。
こんな分厚い本読めるかな…と不安に思いつつも図書室で手に取りました。
その頃、クラスに馴染めずにいました。
読書の時間が自分の心の拠り所でした。
読み出すと、私と同じく友達に馴染めない弱気な少年が出てきました。気持ちがよくわかります。
そして、面白くて面白くて夢中になりました。
授業の合間の休み時間はすべて読書に充てました。
毎日少しずつ読み、読み切るのに数ヶ月かかったように記憶しています。
現実の世界と、もう一つの世界とのパラレルワールドの話でした。
もう一つの世界では『無』が広がっていきます。
何もかも呑み込んでしまう『無』
その世界の住人の脅威です。
交わらないはずの二つの世界が、一つの本『はてしない物語』で繋がっていき、弱気な少年がそれらの世界と深く関わっていく物語です。
詳しいことはもう忘れてしまいました。
何しろ13歳の時に読んだきりです。
ですが、あの時の瑞々しい感動。
それだけはよく覚えています。
ページをめくる動きももどかしいほどの臨場感。
読んでいる間は、周りの声は全く聞こえなくなり、たった10分の休み時間に永遠を感じました。
あんな感動はあの本だけでした。
あの時の感動の仕方が、宗嘉先生の感動の仕方とリンクしたようです。
しかし…
なぜエンデは『無』に着目したのだろう。
大変な親日家で、2番目の奥さまは日本人女性であったという。『はてしない物語』の翻訳家。
『無』って、そう言えば…
般若心経に何度も出てくるなぁ。
調べてみると、エンデは48歳から度々日本に滞在し、禅に触れ、弓道を嗜んだそう。
日本文化の奥深さに深く触れて物語の構想を練ったとのこと。
禅寺のご住職と禅問答を繰り返したそうです。
その後3年掛かりで50歳の時に『はてしない物語』を書き上げたと言う。
いまの私と同じ50歳の時に。
40代後半あたりから、エンデもきっと人生について深く考えるようになったのだろうと思います。
少しずつ体の不調が見え始めるころです。
生老病死という四つの苦に実感が込もります。
この辺りで一度深く自分の人生を振り返り、色々なことをリセットし直さないといけないんじゃないかな…と考える時期なのかもしれません。
そして突き当たったのが『無』だと思われます。
切なくなったり虚しくなったりすることもあるかも知れないけれども、あんまり考えなさんな。
だって、そんなもの無いんだから。
今見ている世界は、そもそも無いんだから。
物語の中でも、向こう側の世界の『無』が広がって色々なものを呑み込んで膨らんでいきます。
確か最後は全部無くなってしまったような…
そして無から新たなものが生まれたような…
結局、日常がいつも通りに繰り返されていったと思います。
『あれ?夢だったの?』
と少年は思うけれどもやっぱり実際に起こったことで、彼は何かを少し得て、すこし逞しくなったように思います。
これだけ瑞々しい文章が書けるということは、エンデ自身が禅に対して純粋に感銘を受けたからだろうと想像します。
この少年はエンデその人です。
ところで物語にも出てくるパラレルワールド。
本当に存在するようで、世界中の物理学者が懸命になって研究を続けているそうです。
いま現在見つかっている素粒子17個の他に、多数の未知の素粒子が存在するというのです。
超対称性素粒子と呼ばれていて、今の素粒子にそっくりの性質を持つのですが、ほんの少し構造がズレているのだとか。
それらが作り出す次元が余剰次元というものらしく、実は私たちの身近に存在しているそうです。
それがパラレルワールド。
私たちには見えないけれども。
見えないし、聞こえないし、触れられないし、嗅げない。
これは私の勝手な想像ですが…
ものすごく集中している状態の時には、実は私たちはその余剰次元に足を踏み入れているのではないかと思うのです。
この研究を行っている物理学者や数学者が、たくさんの数式を並べて嬉しそうに語る姿。
彼らもその時間には足を踏み入れているように見えます。
または、音楽家が素晴らしい演奏を奏でている最中。それをうっとりと聞いている観客。
アスリートが信じられないほどの素晴らしいパフォーマンスを遂げた瞬間。
それを応援している観客。
本を夢中になって読んでいた13歳の時の私。
宗嘉先生の絵画のように美しいお点前。
それを見て感動している生徒さま。
その瞬間、自分を忘れています。
無我の境地。
とても心地よい時間です。
自分を忘れて、一旦自分から離れて、
その後にもう一度自分に入り直す。
この行程により、自分をより意識するような取り戻すような気持ちになります。
これが大事なのかなと思いました。
37年の時を経て、エンデの気持ちが分かるような気がします。
私もいま、パラレルワールドを感じているのかも知れません。