講師(宗夜)ブログ
●でんじろう先生
うちは家族は揃ってサイエンス好きで、子どもが幼稚園児から小学生にかけて科学館や博物館に行きまくりました。
中でも北の丸公園にある科学技術館は大のお気に入り。
閉館ギリギリまで粘り最後はショップで科学おもちゃを買って帰るのがいつものコースでした。
私は文系ですが理系の科目に強い憧れがあります。
もしも中学時代か高校時代にタイムスリップ出来たら、ひとつの科目も怠らずに勉強するのになぁ、なんて思ったりします。
あの頃は勉強が嫌いでした。
実に勿体無いことをしたという思いで今はいっぱいです。
本当はあの勉強は面白かったんじゃないかと思うのです。
かなり面白かったんじゃないか、と。
そんな風に思うきっかけが『でんじろう先生』でした。
有名な空気砲はダンボールで何度も作りました。
子どもはサイエンスに見事にハマってピタゴラ装置を作ったり、基盤を買ってロボットを作ったりしました。
一緒に楽しみ始めたはずが、あっという間に子どもに抜かされて、何を言っているのか分からない会話をしています。
小学校の高学年になるとサイエンスの実験をさせてくれる教室に通い、高度な専科コースにも参加しました。
専科コースではお弁当と水筒を持ち、小さな白衣を着て、朝から夕方まで一日中研究室で実験とデータの収集をします。
小学生ながら顔はいっぱしの研究者で、先生の質問を真剣に聞き、実験を行い、データ収集の結果をみんなで共有して理論と実践のズレを実感。
最後はきちんとレポートにまとめて先生に提出します。
迎えに行くと
『今日の実験はああで、こうで…』
と一日の説明をしてくれましたが、私にはさっぱり理解できません。
えー、何それ。
そんなに楽しいの?
いいなぁ、そんなに楽しいのかぁ。
私も子ども時代にでんじろう先生に出会っていたらなぁーと羨ましい気持ちになりました。
ん?ところで、でんじろう先生ってどんな人?
気になっていた時にNHKの番組で、でんじろう先生のことが取り上げられていました。
元は高校で物理を教えていたそうです。
でも効率を重視する高校教師の仕事には向いておらず、周囲の方もご本人も苦労したようでした。
マネジメントが苦手で、スケジュールに沿って結果を上げるということが性に合わず、ご自身の大学受験に3浪されたとのこと。
高校教師になっても苦手意識は消えず、『誰も授業を聞いてくれなくてつらかった』と話されていました。
つらい日々を慰めてくれたのが、夜に楽しむ実験でした。
『自分がこんなに楽しいと思えるなら、他の人のことも楽しませることが出来るんじゃないか』
と、思い切って高校教師の職を辞したと語っておられました。
『好きなことを軸にすると、人間関係が苦手でもコミュニケーションが取れるんですよね。あ、自分はこんなに話せるんだ。人を笑わせられるんだって自信がつきました。』
悩んで、悩んで、ようやく自分の道を見つけたからでしょうか。
でんじろう先生の実験は、あったかい。優しくてほっとする。
たくさんの弟子を抱えているようで、科学技術館でのサイエンスショーでは
『僕はでんじろう先生の18代目の弟子です』
と講師の若者が誇らしそうに胸を張っておられました。
本当に頭の良い人って、でんじろう先生みたいな人のことを言うのだろうなぁ、と思いました。
●忘れる快
よし庵の生徒さまは皆さまとても優秀でいらっしゃいます。
学びに余念がなく、きちんとされておられるのでビジター会員さまからお褒め言葉を頂戴することもしばしばです。
素晴らしい生徒さまのうちのお一方が、先日ポロリと仰いました。
『ああ。私、次回のお稽古までに今日のご指導を覚えていられるかしら?忘れたくないわ。』
そのお気持ちよく分かります。
覚えるまでは本当に苦しいものです。
(おかしいなぁ、あんなに練習したのにな…。どうしてかなぁ。)
それでは覚えれば楽かというと…
今度は別の苦しみが生まれてきました。
飽きる
生意気な表現であります。
でも毎日同じことに向き合っていると、新鮮な気持ちが徐々に失われてしまうのが正直なところです。
飽きはプロにとっては深刻な悩み。
自分の仕事に情熱が薄れれば先が見えています。
手の動き、足の動き、全部覚えた。
アナウンスも滞りなくスラスラと出てくる。
でもなんだろう、この虚しさは。
600年も続いた茶道の文化。
覚えて終わりなんてことはないはず。
もっと重みがあるはず。
自分にはその重みや深みがどうしても感じ取れない。
芸術の域に近づくことができない。
そんな折に宗嘉先生が始めたお稽古が『奥秘伝』でした。
こちらは裏千家茶道のお稽古科目には含まれていません。
その為どなたにも指導は行っておりませんが、茶道の深い世界を味わっていただきたく、よし庵にてzoomでご視聴可能な科目となります。
奥秘伝のお稽古を始めてから、新たな意欲が芽生えてきました。
そのきっかけが『忘れる』でした。
奥秘伝には、奥伝と同じお道具を用いる科目が複数あります。
ついつい奥伝と同じ動きに手が流れますと、宗嘉先生から『そこ違う』と注意されます。
そしてその次、今度は奥秘伝を覚えてから奥伝に戻ろうとすると『それは奥秘伝』と注意されます。
(あれ?あれ?)
と頭が混乱しました。
この一見無駄な時間が却って良かったのでした。
翻って、初級・中級などのいつものお稽古や奥伝の味わい方をより深く知ったのでした。
また、宗嘉先生ご自身も奥秘伝の研究で茶道の新たな側面を発見したそうです。
動きもご指導も、以前よりシャープになられました。
混乱を経て審美眼の精度が増したと言えるのかも知れません。
『忘れる』という現象は、脳の機能の一つだそうです。
進化の過程でむしろ積極的に行われてきたと聞きました。
刻々と変わる状況で即座に判断を下すには、既存の記憶が弊害となることもあるからだそうです。
『なぁんだ、じゃあ忘れて良いんだ!』
と思えたら気持ちが軽くなりました。
一旦忘れて組み直す
それをみんなで楽しく行うことが、一つのことを長く続ける秘訣かも知れません。
●諺(ことわざ)からの教訓
諺に『若いうちの苦労は買ってでもしなさい』というものがあります。
確かにその通りだなぁと思うようになりました。
しかし若い時分にはその意味は分かりません。
分からないどころか相手が悪いのだろうと思ったりもします。
それなのに上手く行かなかったことは、喉につかえた魚の骨のように時々チクチク痛み、忘れたくても忘れられません。
もしかしたら何かを自分に教えてくれているのかな、と思って自身を省みて行動を一つひとつ改めていくと、骨は自然に抜け、いつの間にか痛みも感じなくなるようです。
そうなるまでに数十年を要し、今ではすっかり良い大人。
そんな昨今、複数の新人生徒さまより、こんな風に声を掛けられました。
『悪いところがあったら、遠慮せずにビシビシ指摘してください。』
きちんとした作法を身につけたいのだ、という切実な思いがその言葉に込められていました。
お一方ではなく、複数の生徒さまより同様のメッセージを同時期にいただいたのでした。
人と人が向かい合うにはエネルギーが要ります。
そしてリスクも伴います。
ハラスメント意識の高い今日では尚更で、心の触れ合いを避ける傾向があるように見受けられます。
何となく平和に続く日々ではありますが、
『自分はこのままで本当に大丈夫なのだろうか?』
という漠然とした多少の不安を誰しも抱えているようです。
お稽古での注意。
茶室という擬似空間で、月に数回というお稽古回数だからこそ、気持ちが落ち着いて素直に聞けるという性質があると思います。
そしてもうひとつは適齢期。
若すぎると反発して身体に入りません。
年齢を重ねすぎると今度は諦めが入ってしまいます。
『実るほどに頭を垂れる稲穂かな🌾』
教えてくださいと頭を下げる姿から、実りの時期を迎えつつある青みの残る稲穂を連想しました。
お互いに精神を成長させるにちょうど良い年齢なのかもしれません。
いつか黄金色の実をたわわにつけ、気持ち良く風になびきたい。
みんなでそうなれたら素敵だと思います。
私どもがお稽古で一番大事にしていることが『集中力』です。
間違えても良い、スラスラと進まなくても良いから、ただひとつ集中してほしいと願っています。
集中力の低い方には『無駄口が多い』という共通点があります。
まずはこれを嗜めます。
また、他の生徒さまの間違いを講師に先駆けて指摘することも、控えていただいております。
お稽古をつけるのは簡単ではありません。
目の前に座る生徒さまの性格や、只今の精神状態なども加味してお稽古をしています。
敢えて間違いを見逃すことも多いのは、数年先の成長を見込んでのことです。
ご自身のお稽古に集中している方は、他の方に優しくて寛大でいらっしゃいます。
これこそが私たちが目指す集中力の極みであります。
過去に、講師のお稽古に度々に反発される生徒さまがおられました。
十分に人生の経験を積み、お許状も高いものを持っておられました。
宗嘉先生のご指導にも、他の教室との比較を交えて批判を繰り返されました。
足が痛いと怒ったり、お稽古代が遅れたり、お釣りを要求したりするので、注意すると『おお怖い』とおどけていました。
しかしある日
『どうして自分はこんなに孤独なのか。一体何をどうすれば良いのか?』
というメッセージが送られてきました。
『ふざけているように見えるかも知れませんが、私は真面目に努力しています。』
とメッセージが続いていました。
ご本人が仰るのだから間違いはなく、きっとその通りだと思います。
その方は性格が意地悪なわけではありません。親切で優しいところもたくさんおありでした。
お稽古代も支払わないわけではなく、問題にはなりません。
ご本人としては毎回一生懸命にお稽古をしているつもりでした。
でもこの文面の『ふざけているように見えるかも知れませんが…』というところに、全ての答えが表れていました。
ふざけているように見えてはいけないのです。
わざとじゃないから許してよ、というのは通用しないのです。
もう子供ではないから。
私たちも他の生徒さまたちも拒否はしませんでしたが、どうしても馴染むことが出来ませんでした。
学びには時期がある。
もう少し前に、ご自身の内面に目を向けて修正を加えていたなら、今とは違った生活を送られていたかも知れません。
諺(ことわざ)からの教訓が身に染みた出来事でした。
●最後は霊感
よし庵でのお仕事はとても楽しくて、生徒さまとの温かで穏やかな交流の日々をずっと続けていきたいと思っております。
そのためには心と身体の健康が何より大切。
健康を保つ秘訣は…
『霊感』なのではないかと最近思うようになりました。
宗嘉先生の持つ先天的な霊感とはまた種類の違う、感覚器官としての霊感があるように思います。
視覚、聴覚、触覚を補うための『感覚』としての霊感は、後天的に訓練していくことも出来るのではないかと思うようになりました。
そしてこの感覚を鍛えている人だけが、長く自分の道を極めていけるのではないかと。
そう考えるきっかけが、自分の好きなクラシック音楽でした。
15年くらい前に『のだめカンタービレ』というドラマが流行っていました。
私も見事にこれにハマってドラマを全部見て、DVDを買って、漫画も全部買って、映画を見に行って、玉木宏に恋をして…、
気分はすっかり『のだめ』でした。
のだめを世界的に有名にした曲が、ショパンの協奏曲第1番ホ短調。
私はこの曲を漫画で知り、またまたハマってYouTubeで聴きまくりました。
色々聴いているうちに大好きなピアニストを見つけました。
アルトゥール・ルービンシュタイン
この方の音色は静かで心にひたひたと染み入るような美しさ。穏やかな気持ちで湖の水面を眺めているよう。
写真を見ると素敵な老年の男性。
『素晴らしいピアニスト』
当時35歳だった私はただ単にそう思いました。
今の気持ちは、もっと深いところにあります。
技術的なもの以外の力を磨いていらしたのではないかと想像しています。
『心の感覚』も大切にして鍛えていたのではないかと感じています。
35歳の時は、自分の健康に何の不安もありませんでした。
皮膚が弱かったけれど、それ以外は目も耳も触覚も何の不安もなく、胃腸も丈夫で何でも美味しく食べていたし、健康や不健康といった話題自体に全く無頓着でした。
今は当時とは違って、食べる物によっては一日胃がもたれるし、手が痺れたり、細かい字が見えなくなったりしてきました。
これは…
欲に駆られて動いていたら命を縮めてしまうのだなと気付きました。
不安とか不満を口にするのではなく、意識を高いところに持っていって、自分を正しい方向に細胞レベルで組み直していかなくてはいけないと思いました。
ルービンシュタインはどうしていたのだろう。
ピアニストとしてのキャリアは80年にも及んだと書かれていました。
写真を見る限りでは、キリッとした小柄な方で、やや筋肉質。お顔立ちにどことなく東洋人のルーツを感じます。
協奏曲でピアニストとして、オーケストラの多数派のエネルギーの圧に押されずに音を奏でるには、何か特別な力が必要に思います。しかも老年においては、技術を超えた力を借りなければ不可能に思われます。
宗嘉先生にルービンシュタインの話をすると、『雑念を取り除き、余計な力を使わなかったのだろう』という言葉が返ってきました。
🔴こんな風に長くプロとして活躍する人には霊感があるように思うんですが、その点はどうですか?
🟦うーん🤔
🔴例えば、合気道の先生とかどうですか?
🟦普段はとても穏やか。街中で歩いていたらこんなに強いと思わないよ。強そうなオーラは発していない。だけど道場に来て稽古が始まると顔が変わるね。
🔴私は武道は何もわからないんですが、例えば合気道の先生だって老化はあると思うんですよね。それでも強さを日々進化させているという裏には、努力や技術だけではない『霊的な力』も鍛えているように感じるんですよね。
🟦そう言えば『観える』って言ってたね。
次にどの手で来るのか、相手の0.1秒くらい先の動きが観えるらしいんだよね。それを『霊感』と呼ぶならそうかもしれないね。
茶道でも霊感は鍛えられるけどね。
🔴そうですね。お道具への心のこもった扱いやお客様との交流は霊感を鍛える良い機会になりますね。
私どもが大事にしたいのは、感覚器官の先に存在する霊感です。
心も体も訓練して自分の道を見つける。
波打つ気持ちを鎮めていくうちに、道の方から浮かび上がって来る。それを待つ。
ここに健やかなる明日があるように感じます。
●逆勝手濃茶・茶筅荘
本日の生徒さまのお稽古は、まず全員で貴人濃茶を行い、その後に宗嘉先生組と工藤組の二手に別れて行いました。
工藤組は、上級生徒さまによる逆勝手濃茶と、初級生徒さまによる茶筅荘でした。
逆勝手のお稽古、楽しいですよねー。
ややこしいけれども。
こういうちょっと複雑なお稽古をも心から楽しんでくださって本当に嬉しいです。
『あれ?あれ?』
と言いながら、お客様も巻き込んで笑顔になり、ほっこりします。
『逆勝手だから全部が逆かと思っていたら、そういう訳でもないんですね。』
大抵の方がこのように仰います。
私自身も同じことを思いました。
きっとお点前が考案された当初も、このような会話が交わされたのだろうなぁと思います。
亭主もお客様も共に同じ気持ちになって、ほっこりするために複雑にしたように思うのです。
子どもが小学生のころ、ゲームをしに友達がよく集まりました。
スーパーマリオ、マリオカート、Wiiなど、ワイワイと楽しんでいました。
大いに盛り上がる瞬間が、もうちょっとクリアできそうなところで惜しくも失敗した時。
『あ゛ーーー!』
『Oh!Noooooo!』
ドッと笑いが起き、みんなで転げ回って喜び、ゲームの当事者も残念がって、それでも笑顔でお菓子を掻き込みます。
あの瞬間の空気は、側で見ていても羨ましいほど温かくて楽しそうでした。
失敗してもムキになったり、ヤケになったりしないし、それを責めないし、ただただ皆んなで心から笑っていました。
当時の子供たちと同じ温かさを本日も感じました。
その後に、初級生徒さまによる茶筅荘。
このお点前も、いつもと違うちょっと面白いところがあります。
総礼の後に、お客様から亭主に問い掛けがあります。
『お茶筅荘とお見受けいたしましたが、どちらに御由緒が?』
『水指に由緒がございます。』
『それでは後ほど拝見しとうございます。』
『かしこまりました。』
そしてお道具拝見の時に、水指を水屋に一旦引き、清めて晒しに巻いてお客様にお持ちします。
『あー、ここで出てくるんですかぁ。一体いつ出すのかと思いましたよ。』
と、お客様。
初級の生徒さまも初めての作法にびっくり😳
そしてお客様役も体験していただきました。
水指をコロコロと回して360度見ていただきました。
『そうだった、そうだった😀』
上級生徒さまも懐かしがりながら楽しんでくださいました。
よし庵では、さまざまな階級の生徒さまが一緒の空間でお稽古をいたします。
そうすることで新しい発見があったり、心の交流が深まったりしていき、人としての成長に繋がると考えています。
人としての成長の一つに『競わない強さ』があるように思います。
この強さを持つ生徒さまは天井知らずで、どこまでも上手になられます。
『道』がつく文化では、目の前の相手と競っても意味がありません。
競う相手を必要としないから強いのです。
上手な人同士は競いません。
その代わりに認め合います。
認め合えた時に、また新しい扉が開き、才能が開花していきます。
あなたのお花、とても綺麗ね。
ありがとう、あなたのお花も綺麗よ。
そんな空気に包まれた、春爛漫を感じたお稽古でした🌸🌸�