講師(宗夜)ブログ
●永遠のおねえさん
ある時、宗嘉先生が少し悲しそうな顔でこう言いました。
『工藤さん、気をつけてね。時どき言動がおばちゃんになってるから😔』
『おばちゃん…、ですけど既に』
『ダメー‼️』
『え…?』
『認めちゃダメ!ダメダメダメダメ!絶対にダメー‼️自分のことは永遠にお姉さんだと思いなさい。』
『いやいやいやいや、そんな厚かましい👋😅』
『ほら、そういうところ。おばちゃん通り越してもうオッサンだから!』
(あ、ほんとだ。これはオッサンだ…)
『気を付けて。ホントに‼️』
また別の日にも、
『あぁ、眼が霞む…』
『ほら、そこ!』
『これもダメですか?』
『言われた方の気持ちになってごらん』
(うーん🤔)
体のちょっとした不調。
老化を認めるのは悲しいから笑い話にして、同世代でつい話してしまうのはよくある日常。
同年代だとこれが盛り上がるワケで…。
『そうそうそうそう!それ、私も!もーやんなっちゃうよねー!』
こんな風に笑いながら
(ああ、良かった。これ私だけじゃなかった…)
とそれぞれ胸を撫で下ろしているのです。
しかし確かに、若い世代の人が一緒にいらしたら、嫌な気持ちにしてしまうかも知れない。
そうかもしれない。
そうだった。
自分より上の世代の方々が、よく集まって健康談義をされていらっしゃる。
それが長い。声も大きい。
そばに居て確かに自分も嫌な気持ちになったのを思い出しました。
社交辞令で、『大変でしたねぇ』と相槌を打つと、毎回私のところに来て不調を訴えるようになりました。
それがエスカレートし、個人的に連絡をしてくるようになってしまいました。
自分の対応が良くなかったのだなと反省して、それ以来は相槌も打たないようにしています。
その時の方々と同じことを自分もしていたのだなと省みました。
それなのに、またやってしまった。
化粧品売り場で。
以前から気になっていた新しい化粧品売り場を訪ねた時のこと。
可愛らしい店員さんが愛想よく声をかけてくれました。
『お肌のお悩みがございましたらサンプルをお出ししますので😊』
『うーん、お悩みだらけなのよね』
『・・・』
3秒間の気まずい沈黙。
あ、しまった。これだ。
どうして出会ったばかりの若い店員さんにこんなことを言ってしまったのだろう。
自分なりに思いを巡らせました。
店員さんが若くて可愛らしかったからでした。
そして優しかったから。
この人なら聞いてくれそう、許してくれそう、と一瞬で判断したのでした。
若くて綺麗でも冷たい感じだったなら自分は言わなかっただろうと思うのです。
私は見ず知らずの若い人に甘えてしまったのでした。
『お悩みだらけなのよね』
の自分の一言。
嫌だなぁ。変なトゲがある。
(若いあなたにはまだ分からないでしょうけど)
という前置きがつく。
もっと詳しく言うと、
(だけどいずれ私みたいになるのよ)
という後書きもつく。
良くない。これは良くない。
悪気があろうが、なかろうが
嫌なものは嫌である。
相手が嫌がることはしてはいけないのである。
『女性はね、一生女性を捨ててはいけないんだ』
宗嘉先生は事あるごとにそう言います。
女性を捨ててはいけない。
年齢を重ねても女性として輝き続ける夢を持つ。
ガツガツしてもいけない。
男性化してしまうから。
では一体どんな女性が素敵でいられるの?
アンチエイジング、美魔女、キャリア組…。
雑誌をパラパラとめくっても自分にはどれもしっくり来ない。
現代のメディアでは、目標となる女性像がなかなか描けない…。
では、1000年前のメディアで理想の女性像を探してみてはどうかしら?
1000年前のメディア、巻物。
源氏物語。
光源氏を取り巻くあまたの美しき女性たち。
様々な性格を持ち、それゆえ様々な人生を送る。
物語を紐解きながら、人生を追体験すれば、今まで気付かなかった女性像が浮かび上がるのではないか…?
そのような想いから、よし庵の源氏物語茶事と源氏物語教室が開催されることになりました。
皆さまより大きなご注目とご好評をいただき開催中でございます。
誰かが広告のために作った女性像ではなくて。
自分らしく輝き続けるイメージは、時間を掛けて自分の内側から築き上げるしかなさそうです。
一緒に育んでまいりましょう。
永遠に美しい理想の女性像を。
●リモートだけど心は近い
中級実践コースを2か月前よりzoomにて始めました。遠方のためよし庵に通うことが出来ない生徒さまが主にご受講くださっています。
工藤が担当しています。
一緒に手を動かしながら動きの全て解説し、お稽古が進みます。
これがなかなか楽しくて😆
ライブでの実践形式なので双方向のやり取りが出来て、心の距離がとても近いのです。
今月は茶通箱のお稽古。
とても複雑な科目なので、今月のほとんどを使って挑戦しています。
毎週水木の週2回が中級実践コースなのですが、そのうちの2回を炭手前に、残りの6回を茶通箱に設定しました。
生徒さまのお顔がアーカイブに録画されないよう、音声はミュートにさせていただいています。
先日、茶巾のたたみ替えの時に、生徒さまが大きく手を振って質問してきました。
ミュートですが、口パクで仰りたいことがハッキリ伝わってきました。
(先生、先生、はいはい質問!✋)
『はい、質問どうぞ』
(なんかどうしても先生と逆向きになってしまうんですよね。)
『ああ、逆向きになってしまう。なんでですかねぇ。ゆっくり一緒にやってみましょう。右手は上の角を取って、左手は下の角を取って。パッと広げると…』
(ああ、またダメだ。なんでかなぁ?)
『どうも途中でひねるみたいですね。もう一度チャレンジしましょう。こうやって、こうやって…』
(あ!できたー!やったーやったー😆🙌)
『良かった、良かった。』
この時すごく喜んでくれて、茶巾をぶるんぶるん振るもんだからまた裏返ってしまって。
『あはは😂。喜びすぎ!まーた裏返っちゃたじゃん!』
(ハハハハハ(*^◯^*))
『ハハハハハハ(*^◯^*)』
こんな時、リモートであることをすっかり忘れて、まるで生徒さまと目の前で直接お稽古しているような気持ちになります。
本日のお稽古でも…
『お箱からお棗を少し回転しながら出します』
ところが生徒さまのお棗が見当たりまりません。
『あれ?お棗どこ行っちゃったの?』
(あ、また箱にしまっちゃった(^◇^;))
『あはは(*^▽^*)。仕舞っちゃダメじゃん。今からお茶点てるのに😆』
(アハハ😆)
『アハハ😆』
お茶を一緒に喫めるわけではないけれど…
お菓子を一緒に味わえるわけではないけれど…
離れていてもこんな風に茶道を楽しめる道もあるのだなぁ、と技術の進歩に感謝しています。
週に2回。30分から40分のお稽古。
私にとっては心のオアシスのような時間。
皆さまにとっても心のオアシスになれたら…と思います。
●雛まつり茶事ご報告
3/26(日) 5名のお客様と雛まつり茶事を行いました。
稽古茶事なので、生徒さまお二方に『続きお薄のお点前』と『炭手前』をお願いしました。
当教室の生徒さまで、プロのフォトグラファーである太田真弓さまがお写真を提供してくださいました。
生徒さまの同意を得た上で掲載させていただきます。
お点前を披露してくださった生徒さま、本当にありがとうございました!
お陰様で素晴らしいお茶事となりました。
お点前担当の生徒さまは
『よし庵の名にかけて頑張ります💪』
と前日までお稽古に励んでくださいました。
炭手前担当の生徒さまも、毎日私どもの動画をご覧になり、手を動かしてくださっていたのこと。
そのお気持ちがとても嬉しく私の心に響きました。
そして迎えた当日🌸
日頃の練習が結実した美しいお点前であったと宗嘉先生から伺っております🍵
炭手前もお羽が流れるような美しい手捌きであったとのこと🪶
(工藤は半東のため水屋仕事をしておりました)
お客様のお作法も見事でいらして、茶室の空間が清々しい気で満たされていました。
茶事には独特の緊張感があります。
お稽古で常にお顔を合わせている間柄でも、茶事の場がお教室でも、いつもとは異なる空気が流れていました。
亭主役の真剣に茶道と向き合ってくださるそのお姿に、誰もが心を動かされました。
日々のお稽古の真髄は、この心持ちの中にあるのかなと思いました。
●小隠は陵薮に隠れ 大隠は朝市に隠る
しょういんはりょうそうにかくれ
だいいんはちょうしにかくる
中途半端な者は、山野に隠れ住んで悟りを開こうとするが、本物は市中で超然と暮らしているものだ。
いつも会う人
いつも通う場所
いつも手にするお道具たち
『いつも』の中の特別なひと時。
これが本当の創造性なのかも知れないと気付いたのでした。
宗嘉先生の茶懐石料理も、心を満たす素晴らしいお膳でございました。
締めくくりは『源氏物語』
平安期のお茶と和菓子を一緒に味わいました。
とても楽しい時間でございました。
ご参加いただきまして誠にありがとうございました😊🤲
銅鑼を鳴らしてお客様にお時間をお知らせします。
炭手前で茶室を暖めてお釜の準びを整えます。
●帯が結ぶ人の縁
つい先日までお洋服でお稽古にいらしていた生徒さまが、着付け技術を身に付けてお着物で通ってくださるようになりました。
『わー!〇〇さん、お着物ステキ!』
『あらー!』
もう注目の的。
『見ないで、見ないで、恥ずかしいから』
と照れながらも嬉しそうな笑顔が溢れていました。
どれほど努力してきたか、みんな我が事のように分かるから『頑張ったねー!』と笑顔で誰もが迎えました。
ある日、茶道お稽古前に
『あら?帯が解けそうよ』
着付け経験豊富な生徒さまが気付いて声を掛けました。
『そう?なんとなくそうかなぁーと思ったけど直し方が分からなくて…』
『直してあげる…。ん?ここかな?ねぇどう思う?』
その生徒さまがまた別の生徒さまに声をかけて、
『こっちじゃないの?』
着付け初心者の生徒さまを挟んで、2人の先輩生徒さまが両端から、
『えぇっと、こうかな?これで良いのかな?』
と声をかけながら帯を直してあげていました。
私はお稽古直前のため、炭火を炉に焼べている最中で、3名のやり取りを横目で見ていました。
(手が空いていたらやってあげたいんだけど…)
と心の中で言いながらも、3名のやり取りがあまりにも楽しそうで、私の出る幕はなさそう…と微笑ましく思いました。
そしてつくづく
《あぁ〜、いい教室だなぁ〜😭》
と思ったのでした。
みんなで助け合えて、とっても居心地が良い。
3名から温かい空気が流れ込んできて、お稽古前にみんなみんなが優しい気持ちになりました。
別の曜日でも同じようなことがありました。
お稽古後に水屋で井戸端会議をしていたら、生徒さまの1人が
『あれ?なんか急に帯が緩んできた…』
と心配そうに自分の帯を見渡し、その途端アレよアレよと言う間に本当に解けてきてしまいました。
『ああ、どうしよう』
『大丈夫、私が手先を持ってるから』
『私はこっちを持つね』
『じゃあ先生、私たち控室で直してます』
『では』
『では』
その後楽しそうな笑い声が控室から豪快に響いてきて、私もつられて一緒に笑っていました。
やっぱりその日も
『あぁ〜、いいなぁ〜』
とつくづく思ったのでした。
そりゃあ格好良く着物を着られれば、それに越したことはないんだけど、
失敗したってそれも良いじゃない。
そんな風に思います。
一生懸命やってみて、それでも失敗もあるから、それはそれで。
『ふふふ』『ははは』と笑い合えたら、その瞬間はとても幸せ😊
着付けの生徒さまから
『こんなに着付けが難しいとは思いませんでいた』
と声を掛けられます。
『茶道と着付けとどちらが難しく感じますか?』
と聞かれ、
『両方とも』
と答えました。
覚えることは茶道の方が圧倒的に多いのですが、茶道は時間藝術なので、お点前が終わればお客様からその記憶が薄れます。
ところが着物は着ている間中ずっと着付けの点数が付いたまま過ごさなくてはなりません。
『あぁ、今日は全然ダメだなぁ』
と思っても脱ぐことは出来ません。
『しんどいなぁ、着物って』
と思うこともあったけれど、この厳しさがあるから、謙虚さが養われるように思います。
『先生くらいの腕がついたら、毎日の着つけも楽になりますか?』
と聞かれたこともあります。
『楽にはなりませんよ。』
とお答えすると、目に『マジで‼️』という気持ちが溢れていました。
そう、マジで。
ならないんだぁ、これが。
全然、楽にならないんだぁ。
『毎朝、毎朝が真剣勝負です』
毎回が真剣勝負なんだけれども、勝負だから真剣にやっても敗れることもあるんだけれども、
でも負けたら負けたで何だか清々しい。
だって真剣だから。
100年前、欧米諸国の人々が驚いたという日本人の武士道精神。
新渡戸稲造がその名も『武士道』という書籍を英語で著しています。
身分の高低に関わらず、なぜ日本人はこんなに礼儀正しいのかと、自身のドイツ人妻や、その岳父から問われ、それに答えるつもりで書いたとのことでした。
なぜ日本人が丁寧で、礼儀正しいのか。
私は着付けの難しさと無関係ではないのではないか、と考えています。
そしてもう一つ。
真剣勝負をしている人同士は、
苦労を知っている人同士は、
優しく励まし合うことができるのです。
帯が本当に結んでいるのは、人との縁かもしれませんね。
●着付けの心得
着付けの準備はしっかりと整えましょう。
準備が出来てから、着付けを開始します。
世の中には沢山の着付け教室がありますが、どのお教室でもこの作法だけは変わりません。
必要なものを必要な順に取りやすく。
きちんと並べてから着付けを開始します。
着付けの途中で『アレがない、コレがない』と動き回らないようにいたしましょう。
動き回るとせっかくの着付けが崩れてしまいます💦
着物をきちんと身に纏っている方は、着ている途中も美しいのです。
『一畳で着て、一畳で脱ぎなさい』
と着付け教室では厳しく躾けられます。
『一畳では広すぎる、半畳で十分』というお教室もあります。
最初は厳しく思われるかもしれません。
ですが、ぜひ実践していただきたいです。
自分が教える立場となってみると、この躾は大人の女性が素敵に存在し続けるためにとても大切なことを教えてくれていると思うからです。
着姿にその方の精神性が表れます。
着姿がきちんとされている方は、全てにおいてきちんとされている印象を周りに与えます。
言葉遣い、所作、時間やお金の管理など。
そして実際にお付き合いを重ねてみると、やはり最初の印象通りのお人柄ということが多いのです。
着付けの技術は訓練を積み重ねてようやく身につけられるもの。それが分かっている人同士は、一目見ただけで相手に信頼を持つことが出来ます。
着物を日常的に身につけていた時代は、このような躾は母親の仕事であったことでしょう。
子どもと大人の着付けは異なります。
その節目となるのが『十三詣り』に当たると思われます。
数え十三歳になった男女のお祝いの儀式で、子供用の着物から大人用の着物へと身につけるものを変えていきます。
18世紀の後半(江戸時代中後期)から行われた儀式とのことです。
十三歳というと、ほぼ初潮の時期と重なります。
ここで肩上げしていた子供用の着物を、大人用のものにして、衣紋も抜くようになります。
娘を持つ母親ならではの心配が、この時期にはあるように思います。
初潮を迎える年頃の娘さんは、野生的な色気のようなものが所々で表れてくるものだと思います。
まだまだ子どもだと思っていたのに…
母親から見てもドキリとするのではないのでしょうか。
腕や脚がほっそりとしてきて、首も長くなって綺麗になって。
色気があっても心配。なくてもまた心配。
どちらにせよ、素敵な女性に育ててあげたい。
野生的な色気を淑女の美しさに整えてあげたい。
そして大人の女性の着付けを娘に手取り足取り教えたことでしょう。
そのためなのか、着付けは難しいです。
十三歳というとまだまだ遊びたいお年頃。
幼さ残るその年頃には、余計に難しく感じられることでしょう。
『でもね、いつまでも甘えていてはいけないの。
もう大人なのよ。』
着付けは、そのように教えてくれているようです。
江戸時代中後期というと、文治政治や貨幣経済が整っていた頃です。
身分制度はあったにせよ、自らの才覚によって経済力を付けられる世の中でした。
シンデレラストーリーも夢ではなく、実際その時代の女の子達は、幼い頃から諸芸のお稽古に励んでいたという記録が残っています。
諸芸をするにもまず見た目(着物)ありき。
当時の母親も現代に負けない教育ママ振りを発揮していたのではないでしょうか。
大人になる年齢が、現代よりもずっと早かった時代。私にはその頃の考え方の方が、自然に思えます。私たちは余りにも甘やかされてしまった。
そんな風に思えます。
甘やかされているようで、誰からもハッキリと注意されないようで、でも最後は厳しい現実が待っている。
その現実に直面すると誰もが困惑する。
『え?なんで?なんでいけないの?』
誰からもハッキリ注意されたことがないから、許されることと許されないことの判断がつかなくなってしまった。これはつらい。
周りも迷惑するけど、本人が一番つらい。
着物を着られるようになったからといって、全てが解決するわけでもないけれど…
すぐに淑女になれるわけではないけれど…
それでも確実な一助になると私は思っています。
大人の女性には、ぜひ着物と向き合う時間を持っていただきたいです。