栄月日記

2023 / 06 / 21
17:36

パンケーキ焼きたい

 パンケーキを焼いた。やむにやまれず。やむにやまれずパンケーキを焼くには、時間が必要になる。

 

 そう、時間だ。焼く時間と、焼かなければならないことを自分に納得させるための時間だ。

 

 そもそも僕はパンケーキが食べたかったわけではない。まして、パンケーキが焼きたかったわけでもない。

 パンケーキ・ミックスを貰ってきたのがことの始まり。

 

 パンケーキとホットケーキの違いとは何か。クイズ番組で出されているのを見たことがあるけれど、答えまでは覚えていない。

 ただ、食パンと違ってトースターで焼けば食べられるわけでもなく、白米と違って炊飯器にセットすれば炊けるわけでもない。

 知らない食べ物を調理するのはなかなかにハードルが高い。

 

 そのパンケーキ・ミックスは石和の賃貸の台所の、学生時代に買った英字がプリントされたグレーのバケツの中にいた。(モールにあるアメリカンな雑貨屋に置いてあるような用途不明のおしゃれバケツで、我が家では食材入れになっている。カレー・ルーや乾麺、貰い物の韓国のりなんかが雑多に入れられている)

 ある時は、そのパンケーキ・ミックスは大月の栄月の工場の、百均かごの中にいた。(姪が遊びに来るというので一緒に作ろうとしたが焼肉でおなかはいっぱい、それどころではなかった。思えば、あそこで消費できなかったのは痛い)

 

 そうこうしている間に、賞味期限が過ぎていてこの日、ついに、満を持して、万難を排して、パンケーキを焼くこととなった。

 

 パンケーキは、パンケーキ・ミックスの他に卵と牛乳、それからトッピングの果物やらシロップやらが必要でコストが高い。

 パンケーキはすべてにおいて、手間がかかる。一般家庭で一食に採用するにはやっぱりコストが高い。精神的なコストが。

 

 まず、全卵を二個ステンレス・ボールに割り入れ、白い泡が含まれるまで入念に攪拌する。混ぜに混ぜる。この作業は普段の煎餅を作る工程にはないので興味深い。厚焼木の実煎餅を仕込む際にやったらどうなるのだろうか?

 パンケーキ・ミックスを7割ほど、袋からボールに移す。300gを狙ったけれど、真相はわからない。石和の賃貸には計量できるものがなかった。

 少し卵と粉を併せてから牛乳を入れる。これも感覚だ。冬場の厚焼木の実煎餅の生地くらいの緩さの生地になるまで入れた、といえばわかるだろう。(いや、わかるわけなかろう)

 

 不思議なもので、このころには僕はこう思っていた。パンケーキ焼きたい、と。

 

 フライパンにオリーブオイルをたらし、キッチンペーパーで薄く広げる。はじめは強めにフライパンを熱し、かすかに白い煙が立ちだしたら弱めの中火にして生地を入れる。

 ほう、なるほど。厚焼木の実煎餅の焼き方と考え方は同じと言える。

 音もなく焼ける生地から甘い香りが立ち上がり、表面にぷくぷくと泡が出てくる。それははじめ小さく、しだいに大きなものになる。

 その間、一切触れない。焼き目にムラが出る。

 フライ返しを生地の下にすっと差し入れ、ひと思いにひっくり返す。良い焼き色がついている。

 弱火にしてから、表面よりもじっくりと火を通していく。生地が膨らもうとするのでフライ返しで軽く抑える。

 香りが部屋中に行きわたる。なるほど、いつだか作ったホットケーキより甘さが少ないような、そんな香りだ。

 そうこうして一枚焼きあがる。

 

 一枚焼くのに時間がかかる。ボールにはまだまだ生地があって、結局すべて焼き切るとフライパン大のパンケーキ六枚できあがったのだった。

 うち二枚、ケーキシロップと生クリームで食べた。甘い。

 二枚は、あらかじめ作っておいたツナ缶とマヨネーズをあえてブラック・ペッパーを振ったツナマヨと、水につけておいたレタスで食べた。立派な食事だ。

 残りの二枚はキッチンペーパーに挟んで乾燥を防ぎつつ熱を飛ばしてから、ラップに包んで冷凍した。後日食べよう。

 

 そしてまだ袋に三割ほどのパンケーキ・ミックスが冷蔵庫にある。また、パンケーキ焼きたい。了)

2023 / 06 / 14
20:00

首がチクチクするから、今日もかく

 大学時代のゼミが小説を書くことを目的としたゼミで、毎週水曜日、その日までの7日間で起こったことを自分自身を主人公として、レポート用紙一枚分にまとめて提出した。

 

 そのゼミには十数人在籍していたけど、本当に小説家として飯を食っていこうと思っている人はいなかったように思う。それでも本当に実力があって、書くことも好きで、課題に出されずとも物語を書いては数人で回し読みや批評なんかをしているようだった。その数人は文芸サークルに所属していて、定期的に同人誌即売会にも参加しているようだった。コミケではなく、だ。

 他にも映画の脚本が書きたい、ゲームのシナリオが書きたい、といった人たちが集まったゼミだった。

 月に一度出席して例の自分物語を提出すれば単位はもらえたので、滅多に顔を見ない人も多いゼミだった。

 

 僕はといえば、小説を書きたくてそのゼミに入ったものの、学期末の提出課題のために物語をなんとか捻り出すくらいだった。文芸サークルは一度説明会に行ったきり、名簿に名前があったらしいから在籍はしていたようだったけれど、そんなことは忘れていたくらいだった。

 

 それでも毎週ゼミには出席した。そしてレポート用紙を提出した。そうしなければ、自分は何かしらの理由をつけて何も描かなくなると思ったからだ。

 

 いまこうして書いているのも同じ理由だ。書かないと書かなくるし、書けなくなる。

 でも、書くことを見つけるのは、なかなか難しい。

 毎週、「今週は提出できないかも」と思いながら水曜日が近づいてくる。大学時代も、いまも。

 そうまでして書かなくていいのに。

 

 オードリーの若林正恭さんのエッセイ『ナナメの夕暮れ』夕暮れ』のまえがきを読んで、自分の書くことの理由を思い出した気がする。

 

  冬のセーターの毛が、首と手首部分の素肌に触れることが我慢できない。

  セーターの袖を捲って下のシャツの生地の上に持ってきて、素肌に触れないようにする。

  丸首の部分を両手で掴んで首元に向かって引っ張り、ずっとそのままにしていた。

  母親に「伸びるからやめなさい!」と怒られる。

 「毛がチクチクして嫌だ」と、言うと「チクチクしない!」と怒鳴られる。

 「チクチクして嫌だ」という気持ちが、なぜ伝わらないのだろう。

  幼稚園の同級生はセーターを着て元気に走り回っている。

 「みんなはチクチクするなんて言ってないでしょ!」

  なんでみんなはチクチクしないのだろう? 

 

 僕もセーターが嫌いだった。チクチクするし、ムズムズする。他人が来ていても、ムズムズしてくる。タートルネックはもってのほか、ニットもサマーニットもダメ、少し首の縫製がしっかりしていたり首が窮屈だったりしてもダメだ。

 野球は好きだけど、野球のアンダーシャツがタートルネックなのが本当に嫌で、高校時代、少しでも着たくないからと練習が始まるギリギリまで上裸で部室に待機していた。

 でも他のみんなは違う。

 なんでみんなはチクチクしないのだろう?

 

 この疑問を解決したいわけでもないし、この悩みを解消して欲しいわけでもない。

 ただ、自分はこう思っているのだと、「首が変で嫌だ」と思っているのだと、伝えたいから書いているのだと改めて気付かされた。

 

 そんなこんなをここで書くことに意味があるかは、ちょっとわからないけど。了)

2023 / 06 / 07
22:00

ヤモリとウグイス、それからカッコウ

 冬のある時期、すっかり外が暗くなった17時から18時のころに決まってやってくるヤモリがいた。そのヤモリは道路に面した窓ガラスの網戸にしがみついていて、街頭の明かりがぼんやりと光るガラス越しに体のシルエットが浮かんでいて、ちょっと気味が悪い。

 仕事の後片付けをしていて、床をほうきで履いているとき、ふと顔を上げると爬虫類独特のしっぽの長いシルエットが窓に張り付いている。

 窓を開けている日なんかは、腹の面が見えて、やっぱり気味が悪い。

 体をくねらせ、短い四本足でふんばり、指先がぷっくりとふくらんでいて、いかにも「掴んでいる」といった様子で、じっと動かない。

 

 その窓はちょうど焼き場の上にあって、仕事が立て込んだときなんかはヤモリのシルエットが表れて時間を知ることもあった。

 決まった時間に同じ窓にそのヤモリは来る。家を守る、縁起のいい生き物。招き猫のようなその存在は2週間ほど毎日表れて、いつのまにか来なくなっていた。

 

 春になると裏の木に必ずウグイスがやってくる。子どもウグイスは泣くのがへたっぴだ。親のきれいな、ともすれば遊びがないほどに額面通りの「ホーホケキョ」に続いて、調子はずれの鳴き声で啼く。

 毎日聞いているとその上達度合がわかる。「ホーケ」とか「ホーケッキョ」とかいうのはなくなり、そしていつのまにか一羽で啼いている。遠くで共鳴するように鳴く声もあるが。

 栄月の裏の木を拠点にしているのは、巣立ったわが子を見送った親なのか、はたまた親から家を引き継いだ子なのか、そんなことはわからないけれど、来年もまた聴けるといいなと思う。

 

 今日の朝、早く起きなくてもいいのになんとなく意識が覚醒してしまった。目はつぶっているけれど自分はもう起きてしまっていると気づいている、あの感覚。休日に思う存分寝坊もできない悲しさに対する、悪あがき。それでもなんとか眠気を手繰り寄せて一時間ほど睡眠を延長させてから起きたときに、そういえばさっきまで外でカッコウが「カッコウカッコウ」と啼いていたな、と思い出した。

 一度目は鳥のさえずりで目覚めていたのだろう。なかなかに耳に張り付いている。

 カッコウ。なんて名前をつけられたものか。ニワトリだってコケコッコーとは名づけられてない。うぐいすだってホーホケキョではない。ホーホケキョはとなりの山田くんだけだろうに。了)

2023 / 05 / 25
17:33

【自問自答】後出しジャンケン戦法(仮) ver1.0.2

 前回のあらすじ。

 理屈と膏薬はどこにでもつく。私の好きな言葉です。

 

  さて。

 栄月製菓は今年で創業から58年となり、私は幸運にも100年目に立ち会えるかもしれないのです。創業100年ということは今から新規事業を立ち上げても100年経たなければ100周年には立ち会えないわけですから。

 100年目を迎えるにはあと42年は存続しなければなりません。

 そのためにも栄月製菓の強みを見出したいと思います。

 

 ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの収益を回復させたことで有名な株式会社 刀の森岡毅さんは著書『苦しかったときの話をしようか』で自分の強みを活かすことを説いています。ここでは森岡さんがご自身の娘さんに対して、就活に際してのアドバイスのテイをとっているわけですが、これはそのまま私にも活かせそうです。

 

 曰く、「TCL」に自分の特徴を区分し、その傾向を可視化することで強みを見出す方法を説いています。「TCL」は、Thinking Communication Leadership の頭文字。このエクササイズの方法は著書を読んでいただくとして、私なりに区分していくとどうやら「T」に傾向が現れるようです。まあ、どうやらもなにも、こうして誰にも頼まれていないのに文章を書き留めているわけですし、なんなら創造性を小説として表現したかったから文学部に進学したのですからむべなるかな。

 自己認識と分析結果が同じなのは、なんとなしに強みを把握しているとも捉えられそうです。

 

 さらに細分化して武器にできそうなものを言語化してみたいと思います。

 前回のハイライトのすべて、「理屈と膏薬はどこにでもつく」はまさに私の"Thinking"の根幹です。私が標榜するそれには私なりの味付けをした解釈があります。

 

「物事はいくらでも良いように考えられる」ということ。前回も書いたように、これは最強の後出しジャンケンです。

 ……。

 ふと思いましたが、そもそも負けるわけがない「後出しジャンケン」に最も強い「最強」を冠すのは、「腹痛が痛い」のような意味の重複がありますね。

 概念としての後出しジャンケン、というのを思いつきましたがそれもなんだかしっくりこない。後出しジャンケン理論、というのも大仰すぎる。後出しジャンケン戦法、くらいがちょうど良いでしょうか。ズルそうで弱そうで、でもそれなら確かに勝てるわなぁ、という感じがしていいですね。

 

 閑話休題。

 私は、理屈と膏薬はどこにでもつく、をマイナスな結果や気持ちをプラスに転換するためのおまじないにしています。

 

 スマホスタンドのサイズを間違えて買ってしまった、自分のバントミスで決定機を逃した、肉に塩をかけすぎてしょっぱくなってしまった。そんないくらでもある失敗を素早く反省に切り替える力。メンタル・リセットの方法。

 そんなふうに、もともとは思い悩みすぎないよう緊急回避として使っていました。

 

 ここで「理屈と膏薬はどこにでもつく」に対して再度、理屈をくっつけてみます。

 そんなこと考えていなかったけどそう解釈しても良さそうだ、という思考の柔軟性です。

 

 具体的にします。キッチンの引き出しにカトラリー類を整理して入れるために百均で平たい箸入れを買ったのですが、引き出しに入らないサイズを買ってしまいました。この無用の長物になってしまった箸入れが国民年金や自動車保険なんかの封筒を入れるのにちょうどよかったのです。そんなこと(封筒入れになるのは)考えていなかったけどそう解釈しても(ぴったりサイズだからこうやって使っていけば)良さそうだ、という思考の柔軟性。センスメイキングというか終わりよければすべてよしというか、そんな後出しジャンケン戦法です。

 

 この後出しジャンケン戦法、栄月製菓にも使えそうです。

 すでにあるお店、すでにある業務、すでにある需要、それらをふんわりと包み込むことができる「栄月製菓の強み」を後出しジャンケン戦法を使って少しずつでも言語化していきたいと思います。

 

 

 まさか自分が持っている経営者としての強みが後出しジャンケン戦法のみ、といことはないです。ええ。きっと。たぶん。(続

 

2023 / 05 / 08
21:00

【自問自答】考えることについて考える Ver.1.0.1

 そもそも何を考えればお店のためになるのか、ということからして難しいなと思う今日この頃。

「考えることについて考える」と銘打ってみると、哲学的というかニワトリが先かタマゴが先かというか、頭が混乱しますが、ここでは「何について考えることが栄月製菓にとってプラスになるか」と考えてみたいと思います。

 

 

 栄月は祖父が始めたお店であり、従業員も祖父と祖母の二人。小さなまちの小さなお店ですから、そこに大層な経営理念はありません。起業するきっかけはあったでしょうし、お店を続けていく上での矜持はあったでしょうが、言語化された栄月製菓の存在意義というものはないと思われます。少なくとも、私は知りません。個人商店というのはそういうものなのかもです。おしゃべり好きの祖父でしたが、孫に言うようなことではない、言うような場面がなかった、ということもあるかもしれません。

 

 いずれにしてもわかりません。

 であれば、お店を継いだ私としては栄月製菓の存在意義を考えてみるのもいいかもしれないと思ったのです。

 お店の在り方を「ビジョン」や「ミッション」というのであれば、それを考えてみると自ずとお店として進みたい方向、あるいは進めていきたい方向が見えてくるのではないでしょうか。

 そういうアプローチ、結構好きなのです。

 

「理屈と膏薬はどこにでもつく」という言葉があります。私がモノを考える時に頼りにしている言葉です。

 膏薬(湿布のようなもの)が体のどこにでもつけられるように、理屈をつけようと思えば、どんなことももっともらしい理屈がつけられる。というような意味です。

 意味からするとなんだかマイナスに聞こえるのですが、そこはあえて「理屈と膏薬はどこにでもつく」と言わせてもらいましょう。「マイナスな言葉もプラスの意味に置き換えられる」という魔法の言葉に、私には聞こえるのです。最強の後出しジャンケンです。

 米澤穂信『氷菓』で使われていた諺で、京都アニメーション制作のアニメ版の「心当たりのあるものは」で印象的に使われます。この言葉に出会った時の衝撃と言ったら。小説やアニメ、漫画から学べることはたくさんありますね。閑話休題。

 

 祖父が作った栄月製菓に、祖父から引き継いだ私がもっともらしく「理屈」をつけていこうと言うことです。続)

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