栄月日記
6月のある曇りの夜に100パーセントのゆで卵を食べることについて

6月のある曇りの夜、私は100パーセントのゆで卵を食べました。
それは100パーセントのゆで卵であり、世界で一番悲しいゆで卵でした。
世の中の多くの人がそうであるように、私自身もまた、仕事での立居振る舞いと家なんかでの立ち居振る舞いで違うことが往々にしてあり、例えば、仕事相手との電話と家族・友人との電話での声音であるとか、仕事に行くときは襟付きだけれど休日にはステテコで出かけるだとか、いわば「オンとオフ」での違いであり、挙げだせばキリがないです。
なかでも特に振る舞いが変わってしまうのが卵に対してなのです。
仕事においての私は煎餅の製造量に合わせて仕入れて厳密に在庫管理する訳ですが、プラベートとなると1人で食べ切れもしないのに10個パックを買ってきてしまいます。
それをまあ、なんとかして食べ切ればいいのです。食べ切れない量でも食べていればいつかは食べ切れるのですから。
ですが、プライベートの私は厳密に在庫管理するどころか消費期限も厭わないから手に負えません。私は消費期限が切れたとて、火を通せばいいと思っているのです。もちろん、それは一面の真実ではありますが、消費期限のうちに消費できないことが前提になってしまうと、10個中4個くらいしか生で食さないことになります。
そしてたいてい、ゆで卵になります。
10個パックを買ったときには、そうしようと計画していないのに、6個のゆで卵ができるようになっているのです。
消費期限が過ぎた卵たちは小さな鍋に入れて水を張り、蓋をして火にかけて沸騰させ10分ほど放置します。
放置してできる料理が好きで、よく鶏むね肉やささみを一口大に切って沸騰した湯に入れ蓋をし、火を止めて同じく10分ほど放置する、というのをよくやります。こうするとむね肉やささみでもしっとり柔らかで美味しいのです。火もしっかり通ります。焼くとどうしても中に火が通ったかわかりにくく、焼き過ぎればどうしても堅く筋張ったような仕上がりになってしまいますので茹でるのがおすすめです。茹で肉の味付けは塩コショウと香りづけのごま油、ポン酢で。これが美味しい。目につくところに置いてあるものをかけているだけですが。
ゆで卵の一番の問題は、殻にあります。殻を剥くという作業はゆで卵を食べる上で唯一の重労働です。
食べる段階では、食べることだけに集中したい私は必ず殻を先に剥いてしまいます。茹で上がった卵をステンレス・ボールに移して冷水を入れ、その中で殻を剥いていきます。大きなピースで殻がつるりと剥がれたときの快感といったらないです。お風呂に入るまでは面倒だけれど入ってしまえばとてもスッキリ絶対損しない、というような感覚。億劫の先にある幸福。
ただ、ゆで卵は殻を剥いてしまうと(実際のところはわからないですが)足が速くなってしまうように思いますので、めんつゆを使って「づけ卵」にします。
この「づけ卵」がとても美味しい。
タッパで一晩寝かせた卵は半身がつゆの色が染み込んでオメカシします。ラーメンのトッピングや酒のつまみ、なんでもありです。私はその日、カットキャベツの上にまるまるとした「づけ卵」をのせ、づけのつゆを軽く回しかけ、マヨネーズをイタづらにかけるという、健康的なのかそうでないのか判断し難い方法で食べることにしました。
「づけ卵」は箸で持とうとすると跳ね返してくるような、潰れてしまうような危さで、なかなかうまく掴めません。箸を突き刺したり、半分に切り分けるなんてもったいないことはしません。この危うい卵にかじりつきたいのです。
割れるか割れないかの強さで箸で挟み込むと、箸によって白身部分がくびれ、なんとか持ち上げられます。カラダ半分をつゆ色に変え、勢い余ったマヨネーズがかかったお手製「づけ卵」。
思わずにやけてしまう、そんな美味しさでした。
卵の弾力の中に黄身のとろんがめんつゆの味わいと合い、これこそ100パーセントのゆで卵だと感動しました。
かじりついた途端にもう半分の卵は端から滑り落ちてカットキャベツにダイブしていましたが、その行方も気にせず、今回もうまく茹で上がったと自分の才能に感心。濃縮タイプのめんつゆの割り方もベスト。ゆで加減も程よい半熟。半熟。
消費期限切れであるというのに100パーセントの半熟ゆで卵を作ってしまっていました。
火が通っていないのです、「危うい卵にかじりつきたい」どころか「危ない卵にかじりついていた」のです。
昔々、あるところに固茹でのゆで卵を作ろうと思っていたのに100パーセントの半熟ゆで卵を作ってしまい、そうとは知らずに一口頬張って慌てて正露丸を飲み、もう一度茹で直すわけにもいかないとレンジで火を通そうと試みるのも虚しくなかなか黄身に火が通らず、爆発寸前までチンしたら目玉焼きのように表面がパリパリで香ばしい不思議なゆで卵を食べることになった男の子がおりました。
悲しい話だと思いませんか。了)