栄月日記
『BLUE GIANT』
3月7日火曜日、TOHOシネマズ甲府にて21:30から『BLUE GIANT』を観てきました。
平日のレイトショーには私のほかに、7組ほどいたかと思います。公開から3週目に入っていることもあってあまり大きくないスクリーンでしたがまあまあの入りです。私と同様、方々で評判を聞いているのかもしれません。
もともと原作者・石塚真一の『岳』を読んでおり新連載となった『BLUE GIANT』も読みはじめました。これが大変面白い。作品に関連するジャズのアルバムを買って聴き込みました。ジャズを題材にした漫画作品ですが、その表現力は凄まじいものがあります。音圧が伝わってくる、唯一無二の漫画です。
その作品が映像化したとなれば一も二もなく駆け付けなければならないのですが、しかし、仕事が立て込んでしまい映画館に足が向きませんでした。なんとかすれば映画に行く時間も作れたのですがこう疲れていると「心の柔軟性」とでもいうべきものが失われていき、上手くエンタメを享受できなくなります。そんなおり、普段から試聴している『佐久間信行のオールナイトニッポン0』と『アフター6ジャンクション』で立て続けに話題にのぼり、これはいますぐに行かなければ後悔すると気づき、先日観に行けたわけです。
異なる人物から計3回キュレーションされたら摂取する。
これは私が26年のうちに学んだことです。佐久間さん、ライムスター宇多丸さん、3回目のキュレーションを必要とするまでもなく、過去に漫画を読んで自分が好きになった作品です、それで十分観に行く理由になるのです。
以下は作品内容に触れます。
【ストーリー】
ジャズの世界に魅了され、テナーサックスを始めた仙台の高校生・宮本大。
雨の日も風の日も、毎日たったひとりで何年も、河原でテナーサックスを吹き続けてきた。
卒業を機にジャズのため、上京。高校の同級生・玉田俊二のアパートに転がり込んだ大は、ある日訪れたライブハウスで同世代の凄腕ピアニスト。沢辺雪祈と出会う。
https://bluegiant-movie.jp/story.html より引用
【作品についての感想】
この物語は宮本大という一人の天才が世界に羽ばたいていく過程を追った青春ジャズドラマを描いたアニメーション映画です。
物語の大枠として、作品世界から時間軸が飛んだ数年後、関係者が当時を思い浮かべて語るシーンがあります。大がサックス・プレイヤーとして大成し、そのルーツに迫る上でインタヴューに答えているという、ドキュメンタリー番組の体がとられているのです。映画では要所でそれと判るようにシーンが差し込まれ、漫画では巻末のおまけのように掲載されていました。
つまり、「宮本大が成功した現在」という大枠の中で「宮本大のサクセスストーリー」を描いているフレームストーリーなのです。この物語構成としての枠組み(フレーム)によって、この作品独特の感動が得られます。
大は圧倒的な天才です。周囲の観客を惹きつけるだけでなく、自身が所属するバンド内にも影響を与えます。それは全くの門外漢であった友人・玉田をジャズ世界に引き込みますし(大のバンド ‘JASS’ のドラマーになります)、腕の立つピアニスト・雪祈の自尊心を脅かすほどです。大を中心とした引力が、物語を推し進めます。
『BLUE GIANT』は上映時間の(私の体感で)2/3が演奏シーンで構成されている、音・演奏技術をどのようにアニメーションとして表現するのか真摯に向き合った意欲作です。正直に言って、アニメしては昨今の作画や3DCG技術の向上を鑑みると物足りないです。これは上映開始から第一印象として拭えないものではあります。が、その一点のみで作品の評価を落とすのは野暮でしょう。作品全体の良質さの前には、私としては、瑣末なことであると断言できます。これは間違いなく良い映画です。
劇場の音響設備から奏でられるテナーサックスやピアノ、ドラムスは圧巻で、演奏技術の良し悪しがわからない我々観る側に優れた映像演出で明瞭に表現してくれます。画面内でキャラたちが、時に荒々しく、乱れ、発光し、燃え上がる。色を変え、作画タッチを変え、幾何学でサイケデリックな世界を行き来できるアニメーションならではの表現が作品世界とマッチし、実写ではできない演出が成功しています。入れるべきところに力を入れた結果、みごとに成し遂げられたのでしょう。あまりに高温となった恒星は青く光るとは、作品内でも語られることですが、まさに、それが表現されていると感じることができるのです。
ここに物語の要素として描かれるのが観客です。大の活躍を見守る観客にこそスポットライトを当てるのが『BLUE GIANT』の特徴であり、最も心揺さぶられる独自性であると私は考えます。
先に述べたように、玉田はまったくの門外漢でした。初ライブでは大と雪祈についていけずにスティックを持つ手を止めてしまいます。才能ある二人と同じ舞台に立つのはあまりに酷であると思えますが、玉田は己の技術を磨き続け、何度もステージに立ちます。その姿を、観客のうちのひとり、白髪の老人が見ているのです。ずっと、ずっと。彼はあるライブの後、玉田に声をかけます。上手くなった、と。彼の歩みを、成長を、ライブの演奏姿を通して見てきていた老人は玉田の上達をぶりを知っているのです。それはまさに我々観る側と重なり合わさる部分です。私は、主人公に感情移入するのではなく観客の老人と感情共有してしまいました。そしてその他にも多くの観客がJASSの姿を見、揺さぶられ、そこに感情を乗っけてしまうのです。天才の感情はおよそ想像できませんが、それを眺める人の感情は等身大ということかもしれません。
映画を観終わって感想をつらつら綴っている私もまたフレームに組み込まれているかもしれないです。まさに、当時を振り返る観客そのものですね。
【評価】
☆☆☆☆☆(星5)
【余談】
作品単体の評価とは関係なく、この映画は原作漫画の再解釈が行われた上で、大胆に再構成されたストーリーとなっており、ある要素がなかったりなかった要素が現れたりしていますが、この効果によって漫画原作が映画作品としてまとまりあるものになったと、私は大変好意的に捉えています。漫画をそのままやっていれば、要素としては作品に厚みをもたらすでしょうけれども、120分の上映時間においてはノイズとなっていたでしょう。物語は表現媒体によって最適な形があると私は思っていて、例えば大友克洋『AKIRA』の漫画と映画ではストーリーが異なるけれどそれぞれが疑いようのない名作であるように、『BLUE GIANT』もまた、異なる媒体に適した変化を遂げることで作品の純度を高めることに成功させたと思います。なので漫画も映画も、どちらも体感してほしいと思っております。
デイミアン・チャゼル監督『セッション』を彷彿とさせるエンドロールの入りと余韻の耳鳴りが忘れられません。了)
インプットとアウトプット
煎餅を焼くことはインプットとアウトプットを絶え間なく交互に繰り返す行為だと感じます。
バーナーの上に並べられた十二丁の金型を動かし、匙で生地を盛り付け、カン(留め具)を閉じてまたバーナーに並べる。
3時間から4時間の間に同じ作業を繰り返し繰り返し、繰り返す。何度も何度も。
その中では、型を返す速度や匙を盛る量、挟みこむときの力加減によって煎餅の焼き上がりが変わってしまいます。
一度の動きに「(型を送る)手が早くなっているな」「少し生地の量が多いな」「生地が広がりすぎたな」という反省をしていて、そうしている間に型を返す作業をすることになります。
インプットの直後にアウトプットがあり、それそのものがインプットの機会であり、アウトプットの成果が試される。
文字に起こすのはなかなか難しいのですが、ようはキャッチボールのようなものだと思えます。
ボールをどう握り、腕をどう動かして、どの位置でスナップし、フォロースルーを行えば相手の構えたミットに投げることができるか。足のあげ方に開き具合、腰の回転と軸足の蹴り上げ。うんぬんかんぬん。
思ったところに投げられなくても、改善点を考えているうちにボールがこちらに帰ってきて、また投げなければならない。問答無用で訪れるインプットとアウトプットの繰り返しはまさに厚焼木の実煎餅を焼くことと同じです。 野球の基本的な練習でありウォーミングアップであるキャッチボールですが、野球を構成する要素の半分(打撃・守備)を体得することができる奥深いものであり、頭をフルに使って行うと学べることが多くあります。
私はこの「インプットとアウトプットの繰り返し」が体質に合っているのだと思います。
今日も「インプットとアウトプットの繰り返し」を感じながら、考えながら、煎餅を焼きました。また明日も「インプットとアウトプットの繰り返し」を感じながら、考えながら煎餅を焼きます。そしてたぶん、明後日もその先も。無限ループ怖い。了)