一言法話

2021-06-01 00:00:00

21.大事な石

 

ある森の中に一匹のサルがいました。このサルはいつも一つの丸い石を肌身離さず持ち歩いていました。ある日、腹を空かせていたこのサルは小さな沼の中においしそうな魚を見つけました。ところが、沼に入り魚を取ろうとしたその時、大事なこの石を落としてしまいます。サルは必死になって川の底に手を伸ばし、石を探しました。大事なあの石を失くしたら大変だと、沼の底を手でかき回し、血眼になって探したのですが、探せば探すほど沼は泥で濁ってしまい、石は見つかりません。
辺りがすっかり暗くなっても、サルは探すことをやめません。森の鳥や他の動物たちは「サルさん、いい加減、少し休んだほうがいいですよ」と、みんなサルを心配し、声をかけました。しかし、永遠にその石を失ってしまうのではないかと恐れたサルは、休むことなく、一心不乱に探し続けました。それでも、やはり石は見つからず、とうとうサルは疲れ果て、その場に座り込んでしまいました。夜も明け、気付けば辺りは明るくなり始めました。サルはとうとう動き回るのをやめ、探すのを諦めた時、川はやっと静寂を取り戻しました。すると、サルがかき回して濁らせていた水は泥が沈み、底まで透き通って見えるようになりました。こうしてようやくサルは失くしてしまった大事な石を見つけることができました。

みなさんにとっての「大事な石」とは何でしょう。自分にとってのそれがいったい何なのか、見つけたい、知りたいと思っても、このサルのように心乱れた状態で、欲にまみれ、やみくもに探し回ってばかりいては決して見つかりません。本当に大事にするべきものは、心が澄み渡った時、はじめて見つかるものなのでしょう。

2021-05-20 00:00:00

20.4人の妻

 

お釈迦さまのたとえ話です。

ある町に4人の妻を持つ男がいました。
第1の妻は彼が最も愛する女です。働いている時も休んでいるときも、決して離したくないと思っています。毎日化粧をさせ、寒い日も暑い日も彼女をいたわり、欲しいものを買い与え、どこへでも連れて行き、食べたいものは何でも食べさせました。
第2の妻は人と争ってまで得た女で、いつもそばにおいて可愛がっていますが、第1の妻ほど愛してはいませんでした。
第3の妻とは一緒にいると楽しいのですが、ずっと一緒にいると互いに飽きてきて、離れる時間が長くなると、会いたくなるようなそんな仲です。
最後の第4の妻には、ほとんど使用人のような扱いをしました。彼女は毎日忙しく立ち回り、夫の意のままに働いています。しかしながら夫からは何の愛情も受けず、慰めの言葉さえ掛けてもらった事がなかったのです。夫は第4の妻をほとんど気にもかけていませんでした。
ある時、彼は第1の妻を呼んで、「私はこれから遠い国へ行かねばならないが、私と一緒に行ってくれるか」と尋ねました。普段から勝手気ままな彼女は「何を言い出すの、そんな遠いところへ行くのはいやです」と言って聞きませんでした。男は落胆し、第2の妻を呼びました。「おまえは私と一緒に行ってくれるか」すると第2の妻は「あなたが一番大事にしていた女性だって一緒に行かないのに、私が行くことはできませんわ」と言って辞退します。次に彼は第3の妻に頼みましたが、彼女も「町の外れまではお送りしましょう。でもお伴はいやです」と断りました。男は半ばあきらめながら第4の妻に「私と一緒に行かないかい」と尋ねますと、彼女は「私はあなたにお仕えしている身でございます。どこまでもお伴いたします」と答えました。彼は仕方なく、日ごろ気にもかけなかった第4の妻を連れて旅立ちました。

この話はたとえ話ですから、設定と登場人物それぞれに意味があります。「ある町」とは「今生きている世界」です。「遠い国」は「死後の世界」。「第1の妻」とは彼自身の「肉体」です。第1の妻を愛する様子は人間が自分の身体を愛する様子をあらわします。「第2の妻」とは彼の持っている「財産」です。誰かと争ってまで手にした財産に人はいつまでも執着します。「第3の妻」とは「父母、兄弟、縁者たち」のことです。生きている時はお互いに親しみ、離れがたい間柄ですが、死を迎えたときは墓場までしか送ってはくれません。
「第1、第2、第3の妻」はいずれも死後の世界まではついてきてはくれません。

では「第4の妻」が意味するものは何でしょう。それは「こころ」です。
このお釈迦様のたとえ話は、ほかの事ばかりに目を向け、いつまでも自分に寄り添ってくれる「こころ」をないがしろにし、ケアすることを忘れている私達への警告だといえます。

2021-05-10 00:00:00

19.一鳥に聞く

 

閑林に独坐す草堂の暁 (かんりんに ひとりざす そうどうのあかつき)
三宝の声一鳥に聞く (さんぼうのこえ いっちょうにきく)
一鳥声有り人心有り (いっちょう こえあり ひと こころあり)
声心雲水倶に了了 (せいしん うんすい ともにりょうりょう)

これはお大師さまの「後夜仏法僧鳥を聞く」という詩です。
「後夜」とは午前4時頃のことです。「仏法僧鳥」とは鳴き声が「ぶっ・ぽう・そう」と聞こえる小型のフクロウ、コノハズクのこと、「仏法僧」は三つの宝「三宝」ともいい、「仏さま」「仏法(仏の教え)」「仏の教えを護り伝える僧侶、集団」を意味します。

お大師さまは静寂なる高野山でひとり静かに瞑想にふけっていた夜明け、「仏・法・僧」(ぷっ・ぼう・そう)と鳴く鳥の声を耳にし、そういった鳥の声、人の心、空に浮かぶ雲、流れゆく水、全てが解け合い、そのひとつひとつに「仏のいのち」が宿っていることを詠みあげられました。

お大師さまは青年時代、阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬など自然の中で修行を重ね、その室戸岬の御厨人窟で修行をしているときに、明けの明星(明け方に見える金星)が口に飛び込んでくるという不思議な体験をされます。また晩年は高野山で静かに修法することを好まれ、「仏のいのち」が解け合っていることの素晴らしさを詩などに著されました。

2021-04-30 00:00:00

18.声なき声

 

北海道のあちらこちらから桜満開の便りが聞こえる今日この頃です。早いもので明日から5月、ちょうど一年の三分の一が過ぎたことになります。私の住まいのすぐ近くに桜並木があるのですが、いつもよりずいぶん早くから咲き誇った桜も今は散る寸前となりました。
日本の中でも北海道は四季の移ろいが特にはっきりしているといわれます。春の桜は一週間もすれば散り始め、すぐに若葉の季節を迎えます。短い夏の暑さもお盆を過ぎるころには、秋風に変わり、散りゆく木の葉は、あっという間に白い雪に覆われます。それぞれの情景の移り変わりにまさしく諸行無常を感じずにはいられません。
あの有名な二宮尊徳は「音もなく 香もなく 常に天地は 書かざる経を 繰り返しつつ」と詠みました。音とはお経の声、香とはお香の香りのことです。つまり、読経の声やお香の香りがなくても、天地(宇宙)には“み教え(お経)”が散りばめられているのだということです。

お大師さまが詠まれた漢詩『遊山慕仙詩』の中に「乾坤は経籍の箱なり」とあります。「乾坤」とは天と地、すなわちこの大自然、ひいては宇宙全体を指します。「乾坤は経籍の箱なり」とはつまり、私たちを取り巻く周りのもの全てに様々な“み教え”が詰まっているのだ、そのみ教えの声なき声に耳を傾けなさい、と。
お大師さまは816年に嵯峨天皇から修禅の道場、そして祈りを捧げる場として人里離れた標高800メートルの高野山を賜りました。高野山は自然があふれ、声なき声に耳を傾けることのできる最適の地であるわけです。

今の世界の状況の中では、安どの日々を送ることは難しいわけですが、時にはじっと心を落ち着けて、声なき声を感じたいものです。

2021-04-20 00:00:00

17.キンスカの木

 

お釈迦さまの前世の物語「ジャータカ」にこのような話があります。

昔々、インド北部の都市、ベナレスの国王に四人の王子がいました。その四人の王子が集まって話をしているうちに、見たことのある人がほとんどいないと言われているキンスカの木のことが話題となりました。四人ともキンスカの木を見たことがなかったので、四人で見に行ってみようということになりました。しかし、まわりにキンスカの木のある場所を知っている人は、一人の老人しかいませんでした。しかもその老人の持っている馬車はとても小さく、乗客一人しか乗せることができません。さらにその老人は忙しくて暇がほとんどないのです。それでも四人はその老人にキンスカの木まで案内してもらうお願いをします。

まず、キンスカの木が芽吹いている頃、第一の王子が案内してもらいました。第二の王子が連れて行ってもらったのは、若葉が茂っている頃でした。第三の王子は花が満開の頃、森に連れて行ってもらいました。第四の王子がキンスカの木を見たのは木が実を付けているころでした。そのあと、四人の王子が集まってキンスカの木について語り合いましたが、彼らはそれぞれ違う季節のキンスカを見ていたので、話が嚙み合いません。

王子達はこの話を王様にしました。すると王様は王子達にこう教えました。
「お前たちはキンスカの木を見に行った時、もっとしっかりとその老人にキンスカの木について聞いておくべきだったのだ。この木は過去にどういう姿をしていたのか、そして未来にはどういう姿になるのか、それを教わっておけば、お互いに他の者が見たものを理解できたのだ。それが物事を“正しく見る”ということなのだよ」

仏教では「正見」正しく見ることが大事だと考えます。しかし“正しく見る”ことは簡単なことではなく、私たちは、目の前の今の姿だけを見て、判断を下してしまいがちです。しかし、そのようになったいきさつ、そして今の状況がどのような未来につながっていくのか、というところまで視点を広げることによってはじめて、物事を正しく見ることができる、ということをこのお話は私たちに示しています。