一言法話

2021-11-01 00:00:00

36.大般若転読法要

 

日光院では毎年11月3日(文化の日)に大般若転読法要を行っています。この法要は『大般若経』という六百巻にもなる大部の経典を読み上げる法要です。

『大般若経』は、今から約1400年もの昔、あの『西遊記』の三蔵法師のモデルにもなっている玄奘三蔵(602664)が長い年月をかけインドから請来し、最晩年になり、4年余りの年月をかけ、配下の訳経僧たちとともに翻訳した、あらゆる仏典の中でも最大規模を誇る経典です。
この経典には、森羅万象一切の存在が「空(くう)」であることを説き、同時に最高の智慧を完成させる方法「般若波羅蜜多」が説かれています。
『大般若経』は六百巻という大部の経典であるため、実際に読誦するには長時間かかります。ですから転読(てんどく)といって、大音声(だいおんじょう)で経題等だけを読誦し、アコーディオンのように折本の経をめくり広げられるようになりました。

玄奘三蔵はこの訳出を終えられると、すぐに亡くなってしまいましたが、自分の生存中に経典の翻訳が終えられたことについて、諸仏や龍天の助けがあったと述べたことから、この経典が国家や民衆を守ってくれると信じられてきました。
お大師さまも、天長4年(827)に百人の僧を率いて大般若会を行い「大般若経典を転読して 天中の仏に供養す」と述べられました。この経典を読誦すると、無上の功徳があり、法要に列席した人にはさまざまな加護があるとも言われ、平安時代には皇室の行事にもなりました。

当院の大般若転読法要では『大般若経』を守護する『般若十六善神』の掛け軸を掲げ、『大般若経』の中で一番大事だといわれる第五百七十八巻『般若理趣分』によるお加持、そして皆様の願いを仏様にお届けする護摩祈祷を行います。
今現在、コロナの感染者数はかなり減り、緊急事態宣言も解除されておりますが、今一度気持ちを引き締め、この法要の中で、皆様と共に「無病息災」-病から免れ災いを避けられるように、そして「大願成就」-様々な願いが叶うよう、仏様に祈りを捧げたいと思います。

2021-10-21 00:00:00

35.人何ぞ常に悪ならん

 

出会い系サイトで知り合い、付き合った女性の連れ子に虐待を繰り返し、高温のシャワーを長時間浴びせ、無残にも殺してしまった男。勝手に思いを寄せ、その女性から相手にされず、逆恨みし、女性宅に忍び込み、その女性の両親までも殺害し、その家に放火をした男。
このような事件は後を絶ちません。こんなニュースを見ては、やりきれない気持ちになります。そんな男たちに私たちはどのような感情を抱けばよいのでしょうか。「とんでもない奴だ。許せない」「信じられない。こいつは根っからの悪人なんだ」「理解できない。こんなことができるなんて、この男は自分とは全く違う人種なんだろう」ワイドショーのコメンテーターの発言もこのようなものが多いように思います。

お大師さまは『秘蔵宝鑰』という書物の中で
「物に定まれる性なし。人何ぞ常に悪ならん。縁に遇うときはすなわち庸愚も大道をこいねがう」
と述べられています。
物には定まった性質はありません。ですから、悪事をはたらく人が常に悪人であるということはありません。縁に恵まれれば、どんな人だって正しい道を願うのです。
と、お大師さまはおっしゃるのです。


仏教でいう因果応報の通り、悪事を働けばどうしたって様々な意味において報いを受けるでしょうし、かけがえのない命を殺めてしまうなどという大罪を犯したならば、人間社会の法律にしたがい、罰せられなければいけません。
しかし・・・。お大師さまのおっしゃる通り、根っからの悪人はいないはずであります。ただ、残念なことに、縁(間接的な原因や条件)によって人は誰しも悪人になりうる存在であるともいえます。そこで大事なことは、悪をはたらいてしまうか、そこから逃れ、正しい道を願い歩むことができるかは、自分に関わる様々な出来事(縁)をどのように感じ、どのように受け取るかということにかかっているということではないでしょうか。

2021-10-10 00:00:00

34.どこまで人を許せるか

 

中学校、高校、養護学校の教員を退職後、知的障害者が自由に集える場「のらねこ学かん」を自費で建設し、全国各地で講演を行っている塩見志満子さんという方がいらっしゃいます。
小学二年生だった長男を白血病で亡くし、それから八年後に次男をも亡くしてしまいます。これはその次男が学校のプールに沈んで、亡くなってしまった時の話です。

近くの高校に勤めていた私のもとに「はよう来てください」と連絡があって、タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。子供たちが集まってきて「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。「どうしたんや」と聞いたら十分の休み時間に誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、沈んでしまったと話してくれました。
母親は馬鹿ですね。「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も友達も絶対許さんぞ」という怒りが込み上げてくるんです。新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、同じく高校の教師だった主人が大泣きしながら駆けつけてきました。そして私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。
「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きてかないかん。わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、わしら二人が我慢しようや。うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、学校も友達も許してやれるやないか。そうしようや。そうしようや」
私はびっくりしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。だけど主人が何度も強くそう言うものだから、仕方ないと思いました。それで許したんです。友達も学校も……。
こんな時、男性は強いと思いましたね。でも今考えたらお父さんの言う通りでした。争うてお金もろうたり、裁判して勝ってそれが何になる……。許してあげてよかったなぁと思うのは、命日の七月二日に花がない年が一年もないんです。三十年も前の話なのに、毎年友達が花をたむけてタワシで墓を磨いてくれている。
もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえていてもこんな優しい人を育てることはできなかった。そういう人が生活できる町にはできなかった。心からそう思います。

壮絶な体験、そして想像を絶するような思いをされた塩見さん。私たちも塩見さんを見習い……していきましょう、などと軽々しく言うことなどとてもできませんが、しかし、塩見さんはご主人の言葉を受け、相手を「許す」ことができたことにより、はじめて自分自身をも救うことができたと言えるのでしょう。

2021-10-01 00:00:00

33.北海道三十三観音霊場

 

この一言法話を始めてから、もうすぐ1年、今回が33話となります。その33という数にちなみ、日光院が七番札所になっている「北海道三十三観音霊場」についてお話したいと思います。
北海道にも様々な霊場がありますが、北海道の中で一番古い霊場が北海道三十三観音霊場です。

大正2年に四国徳島出身の山本ラクさんという方が、北海道のおもだった三十三ヶ寺の真言宗寺院に西国三十三観音霊場と同じご本尊三十三体を奉納されたことから北海道三十三観音霊場は開創されました。ラクさんは1845年に徳島県七条村(現在の徳島県上板町)に生まれましたが、幼くして母や姉妹を亡くし、48歳の時にはひとり娘にも先立たれ、迎えた養子をも亡くしてしまいます。ところが、そういった苦境にもめげることなく、割烹旅館数軒の経営に成功し、資産家となりました。しかし、様々な思いを抱えていたのでしょう、60歳になると徳島の旅館を整理し、大阪の高僧をたずね、仏門に入るため得度をし「善真(ぜんしん)」という名を授かり、四国八十八ヶ所を何度も巡礼しました。当時はラクさんの生まれ故郷、徳島から北海道に入植した人がたくさんいました。そこで、困難な開拓に明け暮れる人たちの心のよりどころにもなるようにと北海道に観音霊場を創ろうと決意したといいます。霊場を開創したのち大正7年には旭川市に「高野山大師教会山本支部」を設立したラクさんは晩年、故郷の徳島県に戻り、大正15年、82歳で遷化されました。

ラクさんの熱い思いにより開創が成し遂げられた北海道三十三観音霊場は、第一番札所、函館の高野寺から始まり、第三十三番札所、室蘭の大正寺まで、ほぼ北海道一周を巡り、その総距離は二千三百キロにも及びます。四国の八十八ヶ所が総距離、千四百キロ程だといわれていますので、北海道三十三観音霊場のスケールの壮大さがいかにすごいかお判りいただけるかと思います。一度に巡るには車で回っても10日近くかかります。
残念ながら今現在、コロナ禍ということもあり、巡礼されている方は多くはありませんが、時機を得ましたら、一度に巡るのは難しくても、少しずつでも霊場巡りをしてみませんか?

2021-09-20 00:00:00

32.中道

 

今日、9月20日は彼岸の入りです。お彼岸は春と秋、2回ありますが、期間は春分の日、秋分の日の前後三日間、それぞれ合わせて一週間となります。春分の日、秋分の日は太陽が真東からのぼり、真西に沈みます。昼と夜がちょうど半分ずつになるため、仏教でいうところの「中道」に結びつき、この期間は特別な仏道修行期間だと考えられるようになりました。
さて、「中道」とはいったいどういうことを意味するのでしょうか。

昔、インドのマガタ国に大変なお金持ちの息子がおりました。名をソーナといいます。子供のころから贅沢に育ち、遠くに行くにも台に乗せて運んでもらい、自分の足で歩いたことはほとんどありませんでした。それは足の裏に毛が生えたと評判になったほどでした。
ある時、お釈迦さまの説法を聴く機会を得たソーナは、お釈迦さまの説法にとても感激し、お釈迦さまに対し出家を願い出ました。出家を許されたソーナは、それまでの生活とはうって変わり、厳しい修行に打ち込みました。柔らかい足の皮は破れ、あたりに血が散乱するほどの厳しい修行だったようです。
しかし、そのような努力にもかかわらず、一向に悟りを得ることができなかったため、ソーナはだんだんと弱気になっていきました。
「こんなに頑張っているのに煩悩から離れることもできないし、こんなことでは悟りを得ることなんてできやしない。」
悩んでいる彼の心中を察して、お釈迦さまはおっしゃいました。
「ソーナよ、煩悩から離れられないのは、おまえがあまりにも激しい修行をしているからではないだろうか。人は凝り固まった考えによって行き過ぎてしまうと、かえって目的を達せられなくなってしまうものだよ。おまえは琴を弾いたことがあるかい?弦(いと)を強く張りすぎた琴から良い音がでるだろうか?逆にあまりに緩く弦を張った琴から良い音がでるだろうか?理想的な音を出すには弦の張り方が強すぎてもいけないし、弱すぎてもいけないのだよ。そのように仏教の修行もあせりすぎてはいけないし、怠けてもいけない。」
お釈迦さまのこの言葉によってソーナはまさしく「中道」の道を進み、やがて悟りの境地に達することができたということです。
「中道」とは中の道と書きますが、ちょうど真ん中、中間ということではなく、努力の末にたどり着いた「ちょうど良きところ」をいいます。それは「自分勝手なこだわり」を離れ、狭いものの見方をこえた自由な境地であるともいえるでしょう。