一言法話

2026-07-01 15:59:00

132.時にはじっくりと

 
早いもので1年の半分が過ぎました。時の移ろいの速さに気ばかり焦ってしまうような感覚に陥ったりしますが、だからこそ地に足をつけ心落ち着かせてじっくりと過ごす時間を持たねばならないのだと思います。
私たちは今、とても便利な時代を生きていると言えます。欲しいものはネットで、すぐに注文できますし、知りたいことは瞬時に調べることができます。遠く離れた人とも簡単につながり、多くの情報に囲まれながら暮らしています。
しかし、その便利さの中で「何となく心が落ち着かない」と感じている方も少なくないでしょう。受け取る情報が増えると、ついつい自分と誰かを比べてしまい、不安や焦りを抱えやすくもなります。
あの人みたいになりたいな、あんな生き方をしてみたいな、そんな風に思うことは悪いことではありませんが、人の生き方をねたみ、あの人に比べて自分なんて…と卑屈になってしまうのでは、自分で自分に苦しみの種を蒔くばかりです。
そんな時は少し立ち止まり、やはり心落ち着かせ、自分の心を見つめ直す時間を持つことが大事です。
仏教は心を調え、縁によって生かされている命を大切に尊ぶ教えです。尊ぶべきは自らの命だけではもちろんなく、他の命も同じです。
人は自らと他を比べ、優劣をつけることで苦しみを作り出し、自らと他を同じように尊いものだと認めることで安らぎを得ます。
便利さを追い求め、移ろいが速い世の中だからこそ、時にはゆったりとした時間の中で、じっくりと自分を見つめ、心豊かに生きていきたいものです。

2026-06-01 18:22:00

131.すべてはメッセージ


北海道は新緑の気持ちのよい季節を迎えています。青葉鮮やかな木々を眺めていると、生命の勢いを感じるとともに、その一葉一葉は様々なご縁によって育まれていることを思わずにはいられません。
6月15日はお大師さまの誕生日、真言宗の寺院にとってこの日は特別な日であり、当院でも喜ばしいその日に「青葉まつり」の法要を行います。

お大師さまのお言葉に
「五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵悉く文字なり 法身はこれ実相なり」
とあります。非常に難しい一文ではありますが、私はこのように受け取っています。
風の音や雨の音、目に映る花や緑といった自然は私たちに何かを語りかけている。いや自然の営みだけではなく、私たちが関わる身の回り全ての現象もまた私への何らかの言葉(メッセージ)を与えてくれているのだ。言い換えれば、全ての存在、現象といったものの中には仏さまの教えがあらわされているのである。

私たちは自然の営みや日常の現象の中から様々なことを感じ取りますが、それをどう受け取るかは人それぞれ違うでしょう。

久しぶりに雨が降りました。
農家の人は「なんとありがたい。これは恵みの雨だ」と思うでしょう。しかし、遠足を楽しみにしていた子供にとっては「どうして今日に限って雨なの。残念」と思うでしょう。人間社会では受け取る側の立場で「善悪」は変わります。
しかし、仏様の立場に立つと物事の現象に「善悪」などありません。さらにお大師さまはもっと踏み込んで、どのようなことが起ころうと、それは仏様が私に対して何らかのメッセージを与えてくださっているのだとおっしゃるのです。思い通りにならない現実や様々な試練があったとしても、その中に仏さまは私たちに深い教えを与えて下さっているのです。日々の営みの中から、どんなメッセージを受け取るかは自分しだいです。せっかくならば、今後の人生に生かすことが出来るようなメッセージを受け取る心のアンテナを持ちたいものですね。

 

2026-05-01 12:37:00

130.我がものに


先月の法話では苦しみを楽しめればしめたものというお話をしました。言うは易しですが、どうすればそんな境地に至ることができるでしょうか。

「我がものと思えば軽し 傘の雪」ということわざがあります。
これは松尾芭蕉に師事した江戸時代の俳人、宝井其角の句
「わが雪と 思へば軽し 笠の上」が元になったことわざなのだそうです。

傘に降り積もる雪はまさしく仏教でいうところの思いのままにならない苦しみを表しているといえます。この苦しみを自分は嫌々背負わされているのだと考えたなら、その重さはどんどん増していきます。そうではなくて、この苦しみは自分が成長するために与えられた試練であり、この苦しみという名のご縁を仏様は与えてくださったのだ。という風に捉えることが出来たなら苦しみの重みは消えていくでしょう。「さて、これからどうやってこの試練を乗り越えてやろうか」そんな前向きな捉え方が出来れば苦しみと思えたことは楽しみに変換できるはずです。
日々の務め、自身の役割、様々なことを「やらされている」と考えるならば、それは全て人生の重荷となってしまいます。そうではなくて「自分磨きの様々なご縁をいただいているんだ」と考えることが出来るなら苦しみは楽しみへと変えることが出来ます。
どのように物事を捉え、どう考えるかによって、私たちはいかようにも生きることができるのです。

 

2026-04-01 16:35:00

129.苦しみを楽しみに


新たな年度の始まりを迎え、身の引き締まるような思いがいたします。皆さんはいかがですか。

先日、ある研修会に行ってきました。講師は高野山大学の教授をされていた前谷彰先生でした。先生は講演の中でこのようにおっしゃられました。
“仏教は一切皆苦っていうでしょう。でも、すべてが苦しいという言い方、私は嫌いです。というのも仏教を勉強するとはどういうことか、よく考えて見てください。苦しみを軽減するために仏教を学ぶのですか。違うでしょう。苦というものを楽しめるぐらいのところまでに行くために、仏教を学ぶわけです”

お釈迦さまは一切皆苦、物事全ては苦しみであると説かれます。そう言われてしまうと、なんともがっかりしてしまいますが、一切の物事は自分の思い通りになんてならないから、苦しみなのだとお釈迦様はおっしゃるわけです。自分の思い通りにしたいという欲望が達せられないため、私たちはそれを苦しみと捉えてしまうわけです。前谷先生は仏教というのは思い通りにはならないという苦しみを少しずつ軽減していくための教えなのではなく、その苦しみを楽しめるぐらいの境地に進むために仏教はあるのだと言われました。苦しみを楽しみにまでもっていくということは簡単なことではありませんが、世の中の物事は思い通りになかなかならないのが当たり前、ということを真に理解したならば、物事の受け止め方は180度変わるでしょう。そうなると苦しみを楽しめる、苦しみが当たり前なことならばそれを楽しまなきゃ、そんな境地になることができればしめたものです。

 

2026-03-01 17:27:00

128.偏ることなかれ

 

早いもので3月となりました。今年は20日が春分の日、お彼岸はその前後三日間となります。春と秋にあるお彼岸は昼と夜の時間がほぼ同じとなることから中道という仏教の教えとも結びつき、この1週間はご先祖様を偲ぶ大切な期間とされてきました。お釈迦様が悟りを開かれてすぐ、以前一緒に修行した仲間たちに説いた教えの1つが中道です。中道というと最近では新しい政党、中道改革連合が話題になりましたが、仏教でいう中道とはどういうことを意味するのでしょうか。

お釈迦様は釈迦族の王子として生まれ、衣食住何不自由のない生活を送っていました。しかし、お釈迦様はそのような生活には満たされることはありませんでした。人間は老いて、病に犯され、そして必ず死を迎えなくてはならない。避けたくても避けられないこの世の現実をありのままに直視されたお釈迦さまは、思い通りにはならないその苦しみから逃れるすべを見つけるため、お城を出て修行の道に入ります。自分の身体をとことん痛めつける苦行も行い、最終的には食事をとることも止めてしまい、その体は骨と皮だけになってしまうほどでした。しかし、いくら苦行を続けてもそこに人生の苦しみから逃れる悟りはありませんでした。そこで気づかれるのです。贅沢三昧の生活も体を痛めつける苦行も、どちらも心安らかとなる悟りに向かう道ではないと。お釈迦さまはその後、体調を整えられ、菩提樹という木の下で静かに瞑想され悟りを開かれ、最初に説かれた教えの一つが中道です。どちらか一方に偏ってはいけない、とらわれてはいけないという教えです。

こんな話があります。
戦国時代の剣の達人に塚原卜伝(つかはら ぼくでん)という人がいました。
ある時卜伝に弟子入りを志願してきた男が、卜伝にこう尋ねました。
「わたしは一生懸命に修行します。それで、何年くらいで免許皆伝になれますか?」
「そうだな、おまえはなかなか筋がいいから、五年でなれるじゃろう」
男は再び卜伝に問いました。
「では、寝食を忘れて修行に打ち込めば、何年で免許皆伝になりますか?」
「それだと十年はかかるなあ…」おかしい……と、男は思い、もう一度卜伝に尋ねました。
「では、死に物狂いで修行すると、何年で免許皆伝になりますか?」
「おいおい、それでは一生かかっても免許皆伝はできないぞ」

死に物狂いで修行をしても、それでは逆に遠回りになるとの卜伝の答えは、免許皆伝までの年月にとらわれ、極端に走ろうとする弟子へのまさしく中道の勧めであるといえます。

 

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