一言法話

2023-05-11 19:37:00

91.道林と白居易


中国に松の木の上で毎日のように坐禅をしていたといわれる道林という禅僧がいました。道林は、鳥窠(ちょうか)とも呼ばれていました。鳥窠というのは鳥の巣という意味です。木の上で坐禅をする様子がまるで鳥の巣のように見えたので、そんな名前で呼ばれるようになったのです。
そんな道林禅師には、ある有名な逸話があります。白楽天とも呼ばれた漢詩人の白居易(はっきょい)との話です。

白居易はその優れた頭脳で国の役人となり、高級官僚というエリート人生を歩んでいましたが、50歳のころに失脚して地方の杭州へ赴任することになります。杭州の新たな長官(今でいう県知事のようなもの)となった白居易は、この杭州の地に木の上で坐禅ばかりしている名物禅僧がいるということを知り、一度会ってみたいと思いそのもとを訪ねました。
道林禅師が坐禅をしているという松の木の下までやってきた白居易はこう話しかけました。
「禅師、そんなところで坐禅をしていては危ないんじゃないですか」
道林は涼しい顔でこう答えます。
「ワシには、あなたのほうが危険に見えるが」
「私はこの度新しく杭州の長官として赴任してきた白居易です。あなたに比べ私に何の危険があるというのでしょうか」
「あなたを見ればすぐにわかる。煩悩という名の欲望の炎が燃え盛っておる。どうして危険がないなどということが言えるのか」
自分の心を見透かされた白居易は、それならとばかりに道林禅師にこう尋ねました。
「禅師は仏教の要は何だと思いますか」
「それは諸々の悪を行わず、善を行うことである」
鳥窠と呼ばれた道林禅師のことですから、えも言われぬような答えが返ってくるだろうと期待していた白居易は拍子抜けし、少し苛立ってこう言い返しました。
「そんなことは3歳の子どもでも知っていますよ」
すると道林禅師は平然とこう答えました。
「確かに3歳の子どもでもこの道理は知っている。しかし、80年生きた老人であっても、この道理に沿って生きることは難しい」
白居易は道林禅師の言葉を聞いて、自らの至らなさを瞬時に悟り、深々と道林禅師に礼拝すると、その場を去ったといいます。

確かに道林禅師のおっしゃる通り、するべきは善い行いであり、悪い行いはするべきではありません。そんなことは分かりきったことですが、残念ながらそうはいかないことが多いのが私たちであります。

今回の一言法話、少し長くなりましたので、次回の一言法話では、そもそも仏教ではどういったことを「善」とし、どういったことを「悪」と考えるのか、そんなことを含め、この続きをお話ししたいと思います。

 

2023-05-01 09:38:00

90.盲亀浮木


今年は長く私たちの目を楽しませてくれた北海道の桜も、風が吹けば桜吹雪と散っていく今日この頃です。

人の生を 受くるは難く やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし

これは『法句経』の中にあるお釈迦さまのお言葉です。

やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし
前回もお話ししましたが、桜と同じように私たちの命もいつかは散る定めです。だからこそ、今こうして生きていられることは有難いことなのだということです。

人の生を 受くるは難く

私たちは人として生きていることを当たり前としていますが、お釈迦さまは人の生を受けることはとんでもなく稀なことであり、だからこそ有難いことだと説かれるのです。

どれくらい稀なことかという譬えとして「盲亀浮木(もうきふぼく)」があります。
岩波の『仏教辞典』にはこう書かれています。
「大海に住む盲(目の見えない)の亀が百年に一度海中から頭を出し、そこへ風のまにまに流された一つの孔(小さな穴)がある流木が流れてきて、亀がちょうど偶然にもその浮木の孔に出遇うという極めて低い確率の偶然性を表す比喩譚」

また、遺伝子研究の第一人者である村上和雄先生は
「一つの命が生まれる確率は、一億円の宝くじが百万回連続して当たることに匹敵する」とおっしゃられました。

一億円の宝くじが百万回連続?そこまでの確立なの?、とは正直、思いますが、いずれにしても私が私として生まれ、今を生きているということはとんでもなく稀なことであり、物凄く有難いことなのだということです。そして大事なのは、その有難い命はいつまでもあるわけではなく、期限付きだということです。
そのことに深く思いを寄せるならば、今以上にこの命大事にしなければとの思いが強くなるはずです。そして自らの命を大事にするための教えがまさしく仏教の教えなのです。

 

2023-04-21 06:44:00

89.諦めるとは


このところの北海道はあまり気温も上がらず、今年の桜はゆっくり時間をかけながら満開へと向かっているようです。こういう年は長い期間、桜の美しさを味わえますね。
しかし、そんなきれいな桜の花も遅かれ早かれいつかは、散ってしまいます。

散る桜 残る桜も 散る桜

この句は、子供たちと手毬をしたり、かくれんぼをしたりすることが何よりも好きだったといわれる良寛さんの辞世の句だといわれています。
桜の花と同じように私たちも、いつかは散ってしまう存在です。いつかは死を迎えることを前提に私たちはこの世に生まれてきたわけです。そのいつかは、いつなのか、誰にもわかりません。明日を迎えられる保証だって実はないわけです。そう考えると命とは儚いものです。しかし、そんなことは忘れて私たちは普段何気なく生きています。
良寛さんのこの句は、死は他人事ではないのだ、自分にも必ず訪れるものだと肝に銘じて生きなさいと訴えかけます。

「諦める」という言葉があります。今の日本では断念する、ギブアップするといったようなマイナスの言葉として使われていますが、もともと「諦める」は仏教語です。仏教での「諦める」は、物事を自分の中で誤魔化さず明らかにすることをいいます。それがたとえ自分にとって都合の悪いこと(老いること、病に犯されること、死等々)であったとしても、そのことをきちんと受け止めることによって、自らの心が作り出す様々な苦しみを乗り越えることができると仏教では考えます。

いつかは自らに訪れる死は、自分にとって最たる苦しみであり、誰しも考えたくないものでしょう。しかし、いくら望まなくても死は、分け隔てなく誰にでも訪れるものだと明らかに見て、覚悟を決めることができたならば、本当の意味で死を「諦める」ことができるでしょう。
そして、自らの命はいつかは散ってしまう儚いものだと明らかに見ることができたならば、今日という一日をもっと大切に、有難く、責任をもって生きなければという思いが強くなるはずです。

 

2023-04-11 11:20:00

88.四国八十八ヶ所


今年は雪解けも早く、北海道でもそろそろ桜が咲きそうな気配です。
今回の一言法話は88回目となりますが、88という数字を聞くと四国八十八ヶ所を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。四国八十八ヶ所のお寺はそれぞれお大師さまにゆかりのあるお寺で、四国八十八ヶ所を巡礼することを四国遍路、巡礼する方をお遍路さんと呼びます。また、かつては札所に参拝した時にお寺の山門や本堂に自分の名前を書いた木の札を打ち付けたため、今でも巡礼することを、打つ、ともいいます。

30年以上前になりますが、高野山での修行後、本山で1年間布教の勉強をする布教研修生としてお勤めさせていただき、その時に本山の職員、そして全国の真言宗寺院の檀信徒の方々と四国遍路に参りました。番外のお寺を合わせ100ヶ寺程度、2週間かけてお大師さまがお生まれになり、若き頃修行された地を巡り、ゆかりのある様々なお寺を参拝する貴重な経験をさせていただきました。
当時はまだまだ若く僧侶としての経験もほとんどありませんでしたが、参加された方々ともしだいに打ち解けることができ、それぞれの四国遍路に参加された理由(先立たれた旦那さんの供養のため、自分の中に抱えている諸問題を乗り越えたい、これから始めようとしている事業の成功祈願、等々)をお聞かせいただき、最後の結願寺88番札所大窪寺の打ち終えた時には、皆さんと共に色々な思いが込み上げ自然と涙がこぼれました。

お大師さまは今の香川県、75番の善通寺のあたりでお生まれになったといわれますが、今年はお大師さまがお生まれになり1250年の記念の年になります。高野山でも様々な記念の法要が執り行われます。
日光院では9月27日から30日まで檀信徒をはじめとし、当院にご縁のある方々と一緒に高野山、奈良、京都のお寺、神社を巡ります。ご興味お持ちの方がいらっしゃいましたら、どうぞ当院までお尋ねください。

 

2023-04-01 07:37:00

87.行為の意味


日頃、あまり野球に興味を持たない人をも熱狂させたWBCも日本が優勝という最高の結果に終わり、その余韻が続く中、新年度を迎えました。アメリカとの決勝戦も手に汗握る試合展開で、大谷とトラウトという歴史に残るような最後の対決により幕を閉じましたが、その後のネットのニュースを見ていて、印象に残ったのは、試合後の日本のベンチとアメリカのベンチを対比した写真でした。

日本のベンチはゴミ一つ残さない綺麗なベンチ。アメリカのベンチはペットボトルなどが散乱したままのベンチ。これは文化の違い等があり、アメリカの流儀を一概に非難することはできませんが、少なくとも日本に育った私にはゴミをまき散らしたベンチを気持ちよく見ることはできませんでした。まあ、海外の人からすると、試合後の日本の綺麗なベンチを見て「なんて素晴らしい」と見る人もいれば、「滑稽だな、掃除をする仕事の人に任せておけばいいのに」と思う人もいるでしょうが。

詩人であり作詞家の宮澤章二さんという方がいらっしゃいます。この方の「行為の意味」という詩を紹介したいと思います。この詩を抜粋したものが東日本大震災の直後、ACジャパンのCMとして使われ、テレビで盛んに放映されました。

 

「行為の意味」

あなたの心はどんな形ですかと人に聞かれても答えようがない

自分にも他人にも心は見えない

けれどほんとうに見えないのであろうか

確かに心はだれにも見えないけれど心づかいは見えるのだ

それは人に対する積極的な行為だから 

同じように胸の中の思いは見えないけれど思いやりは見えるのだ

それは人に対する積極的な行為なのだから

あたたかい心があたたかい行為になり

やさしい思いがやさしい行為になるとき心も思いも初めて美しく生きる

それは人が人として生きることだ

 

確かに心は目に見えるものではありませんから、本当のところの他人の心、思いというものはわかりません。いや、他人の心どころか自分の心、思いであっても、本当のところはどうなのかと迷うこともあるものです。

でも、誰かを思ってこうしてあげたい、こうしてあげれば誰かの助けになるだろう。という純粋な思いは誰にでもあるはずです。しかし、そんな素晴らしい思いも行為という形にしなければ伝わることはありません。自分の中にある他人を思う慈悲心を素晴らしい行為に変えていく努力をしていきましょう。

 

 

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