一言法話
110.心配するな
お正月にあちらこちらで交わされる挨拶といえば、「明けましておめでとうございます」ですが、とんちで有名なあの一休さんは骸骨を上に乗せた杖を持ち、「元旦は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と声を張り上げ家々を回ったそうです。
浮かれて過ごす正月の一日も、通常の一日と同様に、いつか訪れる死に向かって歩みを進めているという点で変わりないのだから、しっかり生きなきゃいなかんよ、と叱責して回ったのです。
アニメで描かれた可愛らしい小坊主さんの印象とは違い、実際の一休さんは、常識から逸脱した風狂僧でありました。
どんな一日も二度とはこない一日なので、大事にしなくてはいけない、というのは確かにそうなのですが、せっかくのお正月ですから、少しぐらい浮かれたっていいんじゃないのとも正直思ってしまうのですが。
そんな一休さんの逸話といわれているものの中に、このようなホッとできるお話もあります。
一休さんは自分が亡くなる前に、お弟子さんに「この先、どうにもならないほど困った時には、これを開けなさい」と一通の手紙を渡されたそうです。
数年後、そのお弟子さんは自分ではどうにもならないような困り事をかかえ、ついに手紙を開けました。
すると、手紙にはたった一行、こう書かれていました。
心配するな 大丈夫 なんとかなる
このお弟子さんにとって、なんと心強い一言だったでしょう。
109.楽と不楽
師走とはよく言ったもので、あれよあれよという間に12月は過ぎていきます。
家庭内で行うことだけでも、大掃除や年賀状の作成、おせちの準備等々に追われますが、これから訪れる年末年始は、1年で1番ワクワクする時期でもあります。普段は離れて暮らしていても、クリスマスや大みそか、お正月には、家族で一緒に過ごされる方も多く、心待ちにしている方も多いでしょう。
クリスマスを舞台とした外国のお話は数多くありますが、その中の1つにメーテルリンクの有名な青い鳥があります。このお話はチルチルとミチルという兄妹が主人公の童話劇です。クリスマスイブの夜、幸福の青い鳥を探している妖女がチルチルとミチルの部屋に現れる場面から始まります。ダイヤモンド付きの魔法の帽子を妖女から託され、青い鳥を求めて、2人は夢幻の世界へと旅立ちます。思い出の国や未来の国などを訪ねますが、そこで捕まえた青い鳥をその国から連れ出そうとすると、鳥の色が変わってしまったり、鳥たちは死んでしまったりします。これらは本当の青い鳥ではなかったからです。最後、夢から覚めた2人は自分の家の鳥かごに青い鳥がいるのを見つけます。今まで飼っていたキジバトが実は青い鳥だったのです。
このお話は、幸せというものは普段は気づきにくいものだけれど、実は自分のすぐ近くにあるものなのだ、ということを教えてくれます。
お大師さまのお言葉にこのようにあります。
楽と不楽と 得と不得と 自心よく為す
日々を楽しく過ごすか、そうでなく過ごすかは自分次第である。
けがれのない心でもって周りを見渡すならば、幸せはそこら中に転がっている。楽しく過ごせるかどうかはそのことに気づくか気づかないかであるとお大師さまもおっしゃっているわけです。
あまり知られていませんが、青い鳥のエンディングは、かごの中の青い鳥が逃げてしまうというものです。この結末には色々な解釈がされていますが、幸せを手にし続けるためには、身近な幸せに気づくことが出来る心の眼を常に磨かなくてはいけないということなのでしょう。
108.心に大きな木を
早いもので今年もあと一ヶ月となりました。
今回の一言法話は108回目となりますが、108という数から思い出されるのは、あと一か月後の大みそかに撞く除夜の鐘の数ではないでしょうか。
ご存じの方も多いかと思いますが、この108という数は人間の煩悩の数だといわれます。煩悩とは字のごとく、自分自身を煩わせ、悩ませるものであり、それは物事を自分勝手に捉えてしまうことから沸き起こる起こる欲や怒りといったものです。自分を煩わせ、悩ませるものは、その時の環境や周りとの人との人間関係といったものが、大きな原因ではありますが、その状況や人間関係をどう捉えるかは、自分次第です。ですから、仏教ではあくまでも自らの心のありようが問われるわけです。どのようなことが起こっても心落ち着いた状態で、冷静に物事を判断できるならば、いつも平安な状態で日々を過ごすことができるわけですが、やはり我々には煩悩がありますから、なかなかそうはいかないわけです。
ではどうしたらよいのか。一つの考えとしては、日常沸き起こる煩悩の欲を捨てる努力を常にしていく。つまり心の中の庭に生えてくる雑草ともいうべき煩悩を日々抜き取っていくということです。しかし、抜いても抜いても生えてくる心の雑草を全て無くすことは至難の業です。それこそ、完全に出家し、一人山に籠もり修行の日々でも送らなければ難しいことでしょう。
ではどうするか。真言宗ではこのように考えます。欲を無くすのではなく大きな欲にしていく、つまり自分さえよければいいんだという小さな欲を周りの人をも幸せにしていきたいと願う欲に変えていくということです。たとえるならば、心の庭に大きな木を植えるということです。この大きな木に葉や実が育つことで、その下に太陽の光は届かなくなります。そうすると煩悩の雑草は枯れていきます。私たちも周りをも包み込むような大きな欲を持つことが出来たならば、自分を苦しめている原因となっていた自分さえよければといった浅はかな考えは消え去っていくでしょう。
107.情けは人の為ならず
連日のように、パレスチナとイスラエルの戦争が報道されています。どのような理由があるにせよ、一般市民へも情け容赦のない攻撃が続いているこの状況に、心は痛むばかりです。
「情け」という言葉が使われることわざに「情けは人の為ならず」がありますが、このことわざの意味としてどちらが正しいでしょう。
1 人に情けをかけると、結果的にその人の為にならない
2 人にかけた情けは、自分に返ってくる
答えは2です。しかし、この言葉は誤解されている方も多く、平成22年に行われた文化庁の「国語に関する世論調査」では、1の方を選んだ人が45.7%いたことがわかりました。
「情けは人の為ならず」は人を助けたり、親切にしたりしたことは、巡り巡って自分のもとに返ってくるという、仏教の因果応報の教えを表した言葉であると言えます。
また、人を助けたり、親切にすることは、巡り巡って自分に返ってくるだけではなく、直接的にその時その場で自らに幸福感を与えてくれる行為であるともいえます。
カナダの生理学者、ハンス・セリエは、他人を幸せにしようとすることによって、自らのストレスは減り、結果、その人の幸福感は強くなると言いました。ちなみに、ストレスという言葉は、1936年にセリエがストレス学説を発表して以来、広く使われるようになったといわれています。
お大師さまの『御請来目録』に、このようなお言葉があります。
それ釈教は浩汗にして際なく涯なし
一言これを蔽えばただ二利あり
お釈迦さまの教えは、広大で際限なく果てしないが、一言で言うならば、それは自分の幸せのために精神修養(自利)することと、他人の幸せを願い、救いの手を差し伸べる(利他)ことであるということです。
仏教の教え、そして真言宗の教えは、自利(自分の幸福)だけを願うものではありません。そして、他利(他人の幸福)だけを願うものでもありません。その二つ心を車の両輪のごとく、同時に動かし続けることによって、悟り(本当の幸福)へと真っすぐに進むことが出来ると考えます。
106.願いを叶えるために
当院では、毎年11月3日に大般若転読法要を行っています。
真言宗のお寺で行われる法要は、ご先祖様への回向の法要と、様々な願いを仏さまにお届けする祈願の法要があります。
大般若転読法要は祈願の法要です。
コロナ禍の間は、規模を縮小していましたが、今年は以前の形に戻し、僧侶の方々にも十数名参加いただき、盛大に行いたいと思います。
祈願の法要では、檀信徒の方からの願いを書いた添え護摩札を燃やし、その願いを仏さまにお届けする護摩焚きをいたします。
人の願いというものは大小様々ありますが、それらを成就させる(叶える)には何が必要なのでしょうか。
『大日経』というお経の中に『三力偈』というものがあります。
以我功徳力(いがくどきりき)
如来加持力(にょらいかじりき)
及以法界力(ぎゅういほうかいりき)
普供養而住(ふくようにじゅう)
以我功徳力-功徳を得られるような自分自身の努力
如来加持力-如来(仏さま)から与えられるお力
及以法界力-自分を取り巻く環境(縁)
普供養而住-この三つが互いに作用しあい、物事や願いは成就する
願いを叶えるには、その願いを仏さまにお届けするのと同時に、やはり自分自身の努力というものが必要不可欠です。その二つが合わさることにより、自身を取り巻く環境は自然と整ってくるのではないでしょうか。そうしてはじめて私たちの願いは成就するのです。