一言法話
91.道林と白居易
中国に松の木の上で毎日のように坐禅をしていたといわれる道林という禅僧がいました。道林は、鳥窠(ちょうか)とも呼ばれていました。鳥窠というのは鳥の巣という意味です。木の上で坐禅をする様子がまるで鳥の巣のように見えたので、そんな名前で呼ばれるようになったのです。
そんな道林禅師には、ある有名な逸話があります。白楽天とも呼ばれた漢詩人の白居易(はっきょい)との話です。
白居易はその優れた頭脳で国の役人となり、高級官僚というエリート人生を歩んでいましたが、50歳のころに失脚して地方の杭州へ赴任することになります。杭州の新たな長官(今でいう県知事のようなもの)となった白居易は、この杭州の地に木の上で坐禅ばかりしている名物禅僧がいるということを知り、一度会ってみたいと思いそのもとを訪ねました。
道林禅師が坐禅をしているという松の木の下までやってきた白居易はこう話しかけました。
「禅師、そんなところで坐禅をしていては危ないんじゃないですか」
道林は涼しい顔でこう答えます。
「ワシには、あなたのほうが危険に見えるが」
「私はこの度新しく杭州の長官として赴任してきた白居易です。あなたに比べ私に何の危険があるというのでしょうか」
「あなたを見ればすぐにわかる。煩悩という名の欲望の炎が燃え盛っておる。どうして危険がないなどということが言えるのか」
自分の心を見透かされた白居易は、それならとばかりに道林禅師にこう尋ねました。
「禅師は仏教の要は何だと思いますか」
「それは諸々の悪を行わず、善を行うことである」
鳥窠と呼ばれた道林禅師のことですから、えも言われぬような答えが返ってくるだろうと期待していた白居易は拍子抜けし、少し苛立ってこう言い返しました。
「そんなことは3歳の子どもでも知っていますよ」
すると道林禅師は平然とこう答えました。
「確かに3歳の子どもでもこの道理は知っている。しかし、80年生きた老人であっても、この道理に沿って生きることは難しい」
白居易は道林禅師の言葉を聞いて、自らの至らなさを瞬時に悟り、深々と道林禅師に礼拝すると、その場を去ったといいます。
確かに道林禅師のおっしゃる通り、するべきは善い行いであり、悪い行いはするべきではありません。そんなことは分かりきったことですが、残念ながらそうはいかないことが多いのが私たちであります。
今回の一言法話、少し長くなりましたので、次回の一言法話では、そもそも仏教ではどういったことを「善」とし、どういったことを「悪」と考えるのか、そんなことを含め、この続きをお話ししたいと思います。