一言法話
103.おいあくま さあほとけ
早いものでもう少しで秋のお彼岸ですね。お彼岸を迎え、暑さもひと段落となりますでしょうか.
古来より、お彼岸はご先祖様を偲び、いつも以上にご供養に務める期間であると同時に、自分自身の仏道修行期間だと考えられてきました。
仏道修行などというと、自分には関係ないと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。仏の教えとは自らの心が生み出す苦しみを取り除き、安楽(安らかで平穏で楽な状態)に生きるための教えです。よほどひねくれた考えの持ち主ではない限り、誰もが安らかで平穏で楽しい生き方を望むでしょう。
そんな生き方のヒントになるのが、「おいあくま」です。これは旧住友銀行の頭取を長年務められた堀田庄三が、社員たちへ訓示として発していた言葉の頭文字を並べたものだと言われています。
お―怒るな い―威張るな あ―焦るな く―腐るな ま―負けるな
「おいあくま」とは、苦しみを生み出してしまう自らの心への自制の呼びかけです。自分勝手な思いで怒ってはいけない。不遜な態度をとらないようにしなくてはいけない。焦りも禁物。簡単に落ち込んだり、挫折したりして、自分に負けていてはいけない。との叱咤激励の言葉だとも言えるでしょう。
さらにもう一つ。「さあほとけ」という言葉もあります。やはり頭文字を並べたもの。
さ―爽やかに あ―明るく ほ―ほのぼのと と―ときめいて け―謙虚に
「さあほとけ」とは、安らかで楽しく生きるためには、こうあるべきだという、自らの心へ向かっての呼びかけです。
お彼岸がやってきます。「おいあくま さあほとけ」と自身の心に呼びかけてみる一週間にしてみませんか。そのように努力(修行)したならば、自らの心は光を増し、誰もが望むべき安らかで楽しい日々を過ごせるでしょう。
102.檀家さんと理解し合うために
先日、北海道の真言宗関係の研修会に参加いたしました。講師は、今となっては当たり前に使われている「終活」という言葉を2009年に提唱された葬儀相談員の市川愛さんです。講演の内容は大変興味深いものでありました。
前半は「檀家さんと理解し合うために」というテーマでのお話。後半は「ある寺院の改善事例」というものでした。
市川さんは消費者を対象に終活と葬儀の知識を広める活動を行っており、寺院関係の方からの相談にも応じているとのことでした。
私も檀家さんと理解し合える関係性を築きたいと常日頃願っております。そのためにはどのような努力をするべきか、ということがこの講演の前半のテーマでした。
市川さんのお父さんは奥さんが亡くなられるまで、全く菩提寺との関りを持たない方だったそうです。しかし、奥さんのお通夜、葬儀、四十九日といったお寺との関りの中で心境に変化が起こり、今ではお寺での法要や行事等を楽しみにお寺に通うようになったといいます。
市川さんは日本のお寺が今までこのように続いてきた理由として、このようにおっしゃいました。
「それは大事な方を亡くした檀家さんが、お寺の僧侶の読経や僧侶との会話等のやりとりによって癒しや救いを得ることが出来てきたからだろう」と。
もちろん、お寺の存在意義は、他にも色々あると思いますが、悲しみに暮れる檀家さんにとって、癒しや救いを得ることのできる存在は非常に大事であると思います。お寺がそういった存在となるよう、僧侶としての日頃の行いや努力というものが大切であり、そういった積み重ねが檀家さんと真に理解し合えることに繋がっていくのだと、市川さんのお話をお聞きし深く感じました。
「檀家」という言葉は、古代インドで使われていたサンスクリット語の「ダーナパティー」が語源です。「ダーナパティー」は「寺や僧を援助する者」といった意味を持ちます。お寺にとって檀家さんはお寺を支えていただける大切な存在です。また、他のお寺の檀家さんでありながらも当院にご縁を持たれ、法要時などにお参りされる信徒の方もいらっしゃいます。そういった檀信徒の支えやおかげにより、お寺は成り立っています。
お寺を支えて下さる檀信徒の皆様と理解を深め合い、皆様の癒しや心の支えとなりうるようなお寺を目指したいと強く思います。
101.縁は尽きない
まだまだ蒸し暑い夏が続いています。一昔前でしたら北海道は夏でも30°を超える日は少なく、湿度が低いカラッとした日が多かったものです。お盆を過ぎると秋がもう目の前、といったような涼しい風が吹いたものでしたが、近年はそうでもなくなってきました。やはり地球自体が温暖化してきているということなのでしょうか。
そんな暑い中ではありましたが、お盆にはたくさんの方にお参りをいただきました。小さいお子さんを連れたご家族にもたくさんお越しいただき、本堂でご本尊様に手を合わせ、そして納骨堂にお参りいただきました。
生きている私達もそうですが、自分にとって大事な方にはいつまでも自分という存在を気にかけてもらいたいものです。忘れられたくはないものです。ご先祖様にとってもそれは同じではないでしょうか。自分と縁を持ち、大事な存在であった配偶者や友人、そして自身の子や孫にはいつまでも気にかけてもらいたい。お盆やお彼岸、ご命日といった時にお花やお供物を捧げに納骨堂やお墓に来てくれるということは故人にとってこの上ない喜びでしょう。
人は亡くなったからといって、生前に関係のあった人との縁が尽きるということはありません。
自分の存在に深く関わった故人をもうこの世にいないからといって、気にかけることなく蔑ろにしてしまうことは非常に悲しいことだと言えます。そしてもっと言うならば、それは自分自身の在り方をも否定することと同じだと思うのです。なぜなら自分はご先祖様の命の引き継ぎによって、この世に誕生することができ、関わりをもってくれた方々のおかげによって今の自分というものは成り立っているからです。そういった存在を蔑ろにすることは今の自分をも蔑ろにしてしまうことと同じだとは言えないでしょうか。
是非、皆様におかれましては、これからもご先祖様、ご縁のあった故人へ思いを向けるご供養を大事に行って下さい。そしてご自身のお子さんお孫さんにもその大切さを自らの行動でもってお伝えいただければと願います。
100.新盆とは
この夏、北海道も暑い日が続いていますね。30℃越えが続く中、汗だくになりながら檀家の皆様のご自宅へ、ご回向のお勤めに伺う毎日です。
日光院では札幌の檀家さんへは8月1日から5日まで、小樽の檀家さんへは基本的には1日から6日の命日の方を除いて7日から15日までお盆参り(棚経)に伺います。そして毎年8月6日の午後4時より新盆会を行っています。
新盆会とは新盆を迎えた檀家の皆様方にお集まりいただき、共に故人を偲びお弔いをする法要です。今年は40名以上の檀家さんにご焼香いただき、それぞれの代表の方に灯籠を仏様に献じていただきました。
新盆とは亡くなられた方が初めて迎えるお盆のことを言います。しかし注意しなくてはいけないのは今年亡くなられていても8月13日までに四十九日を終えていない方は来年のお盆が新盆になるということです。今年が新盆の方は令和4年6月26日から令和5年6月25日に亡くなられた方ということになります。
真言宗の教えでは亡くなられた方は七日ごとに様々な仏様から教えをいただき、四十九日をもって正式に本尊大日如来のお浄土(密厳浄土)に迎え入れられます。ですから四十九日の間は、お浄土への道筋の途中にあり、お盆であっても戻ってくることはできないのです。
私は栃木県のあるお寺のお盆参りのお手伝いをしたことがあるのですが、新盆を迎えた方のご自宅にはお盆の間、親戚や町内の方などが数多くお参りに来られ、その度にあらかじめ家族が用意しておいた食事を振る舞うという習わしがありました。
北海道では新盆を迎えるということが特別なことであると思われている方はそれほど多くないと思いますが、新盆は亡くなった方が戻って来られる最初のお盆です。特に丁寧にこのお盆の期間をお過ごし下さい。
99.花火とお盆
先日、小樽では潮まつりが行われました。コロナ禍の間は規模もかなり縮小され行われていましたが、今年は通常通りの開催となり、たくさんの人出となりました。
特に最終日には花火が打ち上げられ、さらに今年は東京ディズニーリゾート40周年記念のスペシャルドローンショーもあり、小樽からの帰りの電車を待つ長蛇の列はもの凄いことになっていたようです。
夏のお祭りの定番となっている花火の打ち上げですが、お盆や、故人への追悼ということにも関係しているということをご存じでしょうか。
京都の大文字焼はお盆に各々の家に戻られた精霊をお送りする送り火であるということはご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、打ち上げ花火にも亡くなった方への鎮魂の意味があるのです。
有名な隅田川花火大会は江戸時代、時の将軍吉宗が当時、病気や凶作、飢饉で多数の死者が出ていたのを憂い、隅田川の水神祭りで大きな花火を打ち上げ死者の御霊を慰め、悪病退散を祈ったのが始まりだと言われています。
小樽の高島でもコロナ禍前までは花火大会が行われていました。この花火大会では地域の故人を偲ぶ追悼花火が行われ、打ち上げ前には会場での放送で故人のエピソードが紹介され、リクエスト曲をBGMに花火の打ち上げを行っていたようです。
これからご先祖様が各々の家に帰ってこられるお盆を迎えます。お盆には盆提灯などの灯火がつきものです。それはどうしてか?ご先祖様はこのような灯火(明かり)を目印に戻ってこられるからです。
お盆にはご先祖様が好きだったお食事などをご仏壇にお供えし、戻ってこられている大切な故人と共にゆっくりとした時間をお過ごしください。