一言法話

2025-07-01 21:52:00

120.我が心能くなす


早いもので今年も半年が経ちました。

もう半年も過ぎたのか、これといって何もできなかったな、この調子だと残り半分もいつの間にか過ぎていってしまうのかな、といったような憂鬱な思いで1年を折り返すのか。いやいやまだ半年もあるぞ、残りの半分充実した毎日にしていくぞ、と前向きに捉えていくのか。それは自分次第ですね。

お大師さまのお言葉にこのようにあります。
強弱他に非ず 我が心能くなす 

心の強弱(浮き沈み)は自分自身が作り出すものなのだ。とお大師さまはおっしゃいます。もちろん、私たちの心は、どうしたって周りの様々な環境や物事を受けて動かされますから、自分だけが自らの心の浮き沈みを作り出しているとは言えないのでは?と思います。しかし、様々な環境や物事を自分がどのように捉えるかによって心の浮き沈みは変わってきます。そう考えると、やはり自分自身が心の強弱を作り出しているといえます。
晴れた日と雨の日どちらが好きですか?晴れの日と答えられる方がほとんどかと思います。晴れた日には太陽の暖かさにつられ、心も浮き浮きとしますが、雨の日には気持ちもどんよりとしがちです。雨の日はいやだな、など勝手に思ったりもしますが、雨によって様々な食物、作物が育つ有難さを考えたならば、雨は恵みの雨でしかありません。
物事をどのように捉えるかということが、自分自身の心を沈めてしまうことなく、浮き浮きとした毎日を送るためにも大事なことです。

 

2025-06-01 21:07:00

119.口は何の元?


人間は万物の霊長と言われますが、その賢さの根拠は道具と言葉を使用できるからだといいます。言葉はお互いの気持ちや知識を伝え合うことのできる大切な手段ですが、口は災いの元と言うように使い方を間違えるととんでもないことにもなります。先日も前農林水産大臣が国民の反感を買うような発言をし、結果農林水産大臣を辞任することにまでなってしまいました。

仏教にはよりよく生きるための指針となる十善戒といわれる十の戒めがあります。
十の戒めは行いの戒め、言葉の戒め、心の戒めの三つに分けられるのですが、この中で言葉の戒めは一番多く四つあります。

不妄語(ふもうご)…嘘をつかない
不綺語(ふきご)…飾り立てた言葉を話さない
不悪口(ふあっく)…悪口を言わない
不両舌(ふりょうぜつ)…二枚舌を使わない

 

しかしどうでしょうか。よりよく生きたいと、この四つの戒めを守ろうとしても、それは簡単なことではないということがお分かりいただけるかと思います。
普段の生活の中で私たちはつまらない嘘をついたり、おべっかを使ったりしてしまうものです。それだけではありません。そんなつもりはなかったとしても自分が発した言葉で誰かを傷つけてしまうこともあるでしょうし、こちらの思いが意図した形で伝わらなく、誤解を生んでしまうこともあるものです。そういった意味でも、やはり口は災いの元です。
しかし、言葉は悲しみに暮れる人を励ましたり、不安で落ち込んでいる人を勇気づける力にもなります。そのような言葉を発することが出来れば口は幸いの元となります。
言葉は善きにつけ悪しきにつけ大きな力を持っています。そんな言葉というものを私たちは日々大事に使っていかなくてはいけないですね。

 

2025-05-01 15:31:00

118.終わりは始まり


津軽海峡で足踏みをしていた桜前線もようやく北海道に上陸し、小樽でもあちこちで桜が満開となりました。日本人にとって桜は特に人気のある花ですが、その魅力の1つに短い時間で儚く散ってしまうことがあげられると思います。


童謡「ぞうさん」を作詞した、まど・みちおさんは、さくらの花びらが散るさまを深い視点でもって一つの詩に詠まれました。

「さくらのはなびら」
えだを はなれて ひとひら
さくらの はなびらが じめんに たどりついた
いま おわったのだ そして はじまったのだ
ひとつの ことが さくらに とって
いや ちきゅうに とって うちゅうに とって
あたりまえすぎる ひとつの ことが
かけがえのない ひとつの ことが

きれいに咲き誇っていた桜の花びらがあっけなく散ってしまうさまは物悲しいことであり、儚さをも感じるわけですが、それは同時に次の花が咲く準備が始まったということでもあります。時が来れば花びらは散ってしまいますが、また次の年にはきれいな花を咲かせてくれる。そのことを私たちは当たり前だと思って過ごしておりますが、よくよく考えると、それはかけがえのないことなのだとこの詩は訴えます。桜に限らず全ての物事は留まることなく浮き沈みを繰り返していくものです。

お大師さまのお言葉にもこうあります。
それ禿なる樹、定んで禿なるにあらず。春に遭うときはすなわち栄え華さく

たとえ今が、芽が出ないような日々であったとしても、そこを乗り越えた先には花咲く未来が待っていることを信じていきましょう。そして、そんな素晴らしい日々が訪れたとしても、物事が留まることはありません。おごり高ぶることなく大切に日暮しいたしましょう。

2025-04-01 21:08:00

117.種を蒔こう


今日から新年度です。ちょうど1年、この一言法話をお休みしておりましたが、今回より再開させていただきます。

昨年お亡くなりになられた詩人の谷川俊太郎さんが東京都の立川市にある幸小学校の校歌を作詞されています。

わたしが たねをまかなければ 花は咲かない
ぼくが足を 踏み出す時 道は限りない
自分で考え 自分で始める
幸小のわたしたち

わたしが 明日をあきらめたら 朝はもう来ない
ぼくが星を 見つめるとき 空は限りない
焦らずこつこつ ねばってやりぬく
幸小のわたしたち

ひとりが 歌を歌いだすと 声はこだまする
ひとりひとり 手をつないで夢は限りない
みんなでなかよく 力を合わせる
幸小のわたしたち

種が蒔かれるという原因がなくては、花が咲くという結果は生まれません。明日という希望を持ち続けるからこそ、朝の輝く光は射し続けます。そして、この詩が訴えかけていることは、因となるものを自分で考え、始めなくてはいけないということです。他人任せであってはいけない、主人公である自分が踏み出していかなくてはということです。その強い思いから発せられた希望の声はこだまし、夢は限りなく広がっていくとものと信じます。

谷川さんのこの詩に出会い、私自身改めて大切な指針をいただきました。

日光院にご縁を持たれた方、そしてこの一言法話をお読みいただいた方が仏教、とりわけ真言宗の教えを生き方の道しるべとしていただけるよう新年度、心新たに声を発していきます。

 

2024-04-01 21:55:00

116.とらわれのない心


北海道もやっと春らしい日が続くようになりました。新しい年度を迎え、気持ちも新たにすがすがしい日々を送っていきましょう。

私の好きな話を紹介させていただきます。
ある2人の修行僧が諸国を行脚していたところ、前日の大雨で水かさの増した川に差し掛かりました。
そこで川を渡ることが出来ずに困っている様子の若い女性を見つけました。川には橋が架かっておらず、向こう岸に行くには川に入り、歩いて渡るしかありません。
片方の修行僧が、「どうされたのですか」と声をかけたところ、「この川を渡って今日中に行かなければならない所があるのですが、この辺りには橋もなく渡れなくて困っているのです」悲しげに女性は答えました。
「わかりました。じゃあ、私が背負ってあげますよ。一緒に渡りましょう」その修行僧は女性をおぶって向こう岸へ渡りました。
向こう岸で女性を下ろすと「それでは先を急ぎますので」そう言い残し2人の修行僧はその場を去って行きました。
修行僧達は、ややしばらく黙って歩いていたのですが、女性を背負わなかった方の修行僧がこう言い放ちました。「おい、お前は修行者として失格だ。女人に話しかけるどころか、体に触れるとは何事か」
すると、女性を背負った方の修行僧は涼しい顔でこう答えました。
「なんだ、お前はまだそのことを背負っているのか。わしは川を渡ったところでとっくに下ろしてきたぞ」

この話は仏教で大事にする「とらわれるな」ということをわかりやすく表しています。
2人は修行の身ですから、非難した方の修行僧が言うように女性と話しをしてはいけない、まして体に触れるなどもってのほか、という主張はもっともなことと言えます。しかし、そうであったとしても、困った人がいたら自身の慈悲心に従って手を差し伸べる行為は間違いではないはずです。
そして、ここで言えることは非難した方の修行僧はもう一人の修行僧が女性に関わりをもったということにこだわり続け、悶々としていたわけですから、結果的に修行の妨げになるような思いを自分自身で作ってしまったということです。
とらわれの心を持ち続けると、修行者にとっては修行の妨げになりますし、とらわれの悶々とした思いは自分自身をも苦しめてしまいます。

新しい年度が始まりました。とらわれのないすがすがしい心を目指していきましょう。

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