一言法話

2022-12-10 14:48:00

76.時間の長さ


早いもので、今年も1ヶ月を切りました。この時期、檀家さんのお参りに伺うと「ほんと月日が立つのは早いですね。今日が今年最後のお参りになりますね。」といったような会話になることが多いのですが、そんな時、皆さんおっしゃるのが「歳を取れば取るほど1年経つのが早くなっていく気がする」というものです。実際、私もそのように思います。自分が小学生の頃の1年の長さと、今現在の1年の長さは物理的には同じなのでしょうが、感じ方としては違います。殆どの方がそう感じているのではないでしょうか。これには様々な理由付けがされますが、こんなことが言われています。

「同じ時間であっても真新しいことや経験する出来事が多い方が時間は長く感じるものであり、逆に刺激が少なく同じことの繰り返しの毎日であれば時間は短く感じるものである」
また脳科学者の茂木健一郎氏のよると「発見が多いと、時間が経つのが遅く感じる」とのことです。
子供の頃は経験することが 何でも新鮮であり、様々なことを吸収することができるので、結果として時間は長く感じられるということです。

皆さんどう思われますか。私はこの茂木さんの言葉を見た時、え、そうなの、と思いました。逆に、経験することが多かったり、充実した時間を過ごした方が時間はあっという間に過ぎるんじゃないかなと思っていました。でも確かに、休みの日に家でボーッとして過ごしていたりするとあっという間に1日は経ってしまい、もったいない時間の過ごし方をしてしまったなぁと思うこともあります。

歳を取れば取るほど、外に出る機会は減りますし、外からの刺激も減っていきます。様々なことは経験済みなので新たな発見も少なくなっていきます。だからどんどん時間は短く感じるようになっていくということのようです。
ですから「時間の流れが早い」と感じることは、充実した時間を過ごしていないということにもなるのです。時の流れの早さを齢のせいだから仕方ない、としてしまうのではなく、新しいことを始めたり、自分の生き方を真剣にみつめる時間をもってみたりすることが大事ではないでしょうか。そうすることで、足早に虚しく過ぎ去っていくように感じる時間を充実した有意義な時間に変えていくことができるはずです。

 

2022-12-01 13:12:00

75.一喜一憂


世界で4年に一度のスポーツの祭典といえば、オリンピックです。しかし単体の競技として一番盛り上がるのは、今、カタールで行われているサッカーのワールドカップです。日本は強豪ドイツと第1戦を行い、劇的な勝利を収め、興奮冷めやらない中、インタビューに答えた森保監督の「一喜一憂しすぎず、しっかり次の試合に向けて、今日終わったことをしっかり反省して」という言葉が印象に残りました。

日本中が盛り上がっての第2戦、格下とみられていたコスタリカには最後に1点取られ惨敗。この試合は勝てるだろうとの思い込みは砕け散りました。
テレビで観ている我々でさえ、大きく心動かされるのですから、選手や監督、コーチ、チームの関係者にとって、勝ち負けの喜びや憂いはどれほど大きなものでしょう。さらに、様々な賞賛や非難の声が選手達には浴びせられるのが今のネット社会です。しかし、森保監督がおっしゃる通り、どのような状況になろうが、どんな言葉を受けようが、一喜一憂しすぎてはいけないということです。一喜一憂しすぎると、雑念に捉われ、冷静に前に進んでいくことができなくなってしまうからです。
法句経にこのようにあります。

一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない

この言葉は森保監督の先ほどの言葉にも通じるところがありますし、私たちが何かを成し遂げようとする時、心に留めておくべき言葉です。
人が何かを成すときには、周りの批評があるでしょう。賞賛の声もあるかもしれませんが、心無い言葉を耳にすることもあるでしょう。そんな時は心動かされ、有頂天になったり、逆に落ち込んだり、まさしく「一喜一憂」するでしょうし、批判の言葉を真摯に受け止め、反省しなくてはいけないこともあるでしょう。しかし、他人の言葉に一喜一憂しすぎてはいけないのです。自分の信念のもと、行ったことであれば、動ずることはありません。前を向いて冷静に進んでいきましょう。

2022-11-20 19:38:00

74.大往生

 

突然ですが、皆さんに質問したいと思います。私たち誰もが100パーセントの確率で経験することは何でしょうか?
答えは、皆さんあまり考えたくないことだとは思いますが「死」です。この世に生を受けた私たちには必ず「死」が待っています。しかし、普段私たちは「死」というものを意識しないで生きていますよね。テレビでは連日のように殺人、交通事故死といったニュースが放送されますが、「惨いことだ」「かわいそうに」と心を痛めはしても、自分自身の「死」そのものに結び付けて考えることはあまりないでしょう。しかし、私たちの命はいつなんどき、どのようなことになりうるか、誰にもわかりません。交通事故にたまたまあってしまい、命を落としてしまったのが、テレビで名前が映し出された彼であっただけで、それが彼ではなく自分であったとしても何の不思議もないわけです。そう考えると日々を当たり前のように生きていられるということは、なんと有難いことなのかと思わずにはいられません。でも、そんな有難さなど忘れてしまい、ことあるごとに不平不満を口にしながらいたずらに日々を過ごしてしまいがちなのが我々だといえます。
あの有名な永六輔さん。「大往生」という書籍はベストセラーにもなりましたが、その中でこんなことをおっしゃっています。

人は死にます 必ず死にます
その時に 生まれてきてよかった
生きてきてよかったと思いながら
死ぬことができるでしょうか
そう思って死ぬことを大往生といいます

一般的には大往生というと長寿で安らかに亡くなることをいいますが、永六輔さんは、生まれてきてよかった、生きてきてよかったと感謝の思いを持ちながら亡くなることを大往生というのだとおっしゃるわけです。なるほどと思います。いつかは必ず訪れる自らの死をどのように迎えられるかが問われるわけですね。死をどのように迎えられるかは、その人がどのような生き方をしてきたかということにかかってきます。いい人生だったと感謝の念をもって死を迎えられるか、つまらない人生だったと後悔の最期を迎えるかは、やはり自分次第です。

2022-11-10 22:37:00

73.護摩

 

今月の3日、小樽市内の御寺院様にご参集いただき、大般若転読法要を執り行いました。肌寒く雨混じりの中ではありましたが、たくさんの檀信徒の皆様に参拝いただきました。

大般若転読法要は祈願の法要になりますが、この法要にあわせ護摩祈祷を行いました。

護摩祈祷により、煩悩を不動明王の智慧の炎で焼き尽くします。同時にお香や穀物等様々な供物を炎の中に捧げ、私達の願いが書かれた添え護摩木を炎の中に投じ、願いを仏さまに届け、その願いが成就することを祈るのです。

 

護摩祈祷は不動明王を本尊として行うことが多いのですが、不動明王のお姿は激しい怒りの忿怒の形相です。不動明王は真言宗の本尊、大日如来が衆生を教化(仏教の教えにより悟りへ導くこと)するため、あえて忿怒の姿に形を変えたのだともいわれます。では不動明王はなぜ忿怒の姿をしているのでしょうか?不動明王は右手に三鈷の剣を持ち、左手に羂索(けんじゃく)という縄を持っています。私達の煩悩を断ち切るのが三鈷の剣であり、羂索の縄でもって、私達を一人残らず仏道に導き、悟りへの道を歩ませようとしているのです。そのあまりにも強い意思により不動明王は忿怒の姿となったのです。ですから不動明王の忿怒の表情は悪を断ち切り、良き道へと導こうという強い心の表れであり、強い慈悲の心の表れだといえるのです。

 

日光院では祈願法要(2月4日ー星祭り 6月15日ー青葉祭 11月3日ー大般若転読法要)と不動明王の縁日の毎月28日(冬季は休止)に護摩祈祷を行っており、どなたでも参拝していただけます。お電話等で時間を確認していただき、どうぞお参り下さい。

2022-11-01 00:00:00

72.加持

 

早いもので今日から11月、今年もあと2か月となりました。
11月3日の午後1時より当院にて大般若転読法要を厳修いたします。この法要が当院での今年最後の法要となります。
大般若転読法要は六百巻からなる『大般若経』を転読(経題を独誦し、経本をめくり広げること)する法要です。
当日は、参拝された皆様に六百巻のうち、特に重要だと考えられる第五百七十八巻の『般若理趣分』によるお加持を受けていただきます。
僧侶より『般若理趣分』の経典で後頭部と左右の肩をポンポンと叩いていただき、その加持力によって、難から逃れ福を呼び込んでいただきます。
お大師さまは『即身成仏儀』の中で本来の加持の意味をこのように著しています。

加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく

加持の「加」は常に私達一人一人の心に余すところなく注がれている仏さまの慈悲の心を表し、その仏さまの慈悲の光を私達が感じて、受け取らせていただくことを「持」と言います。
ですから、お加持は、仏さまの御心を受け取らせていただく私達の思いというものがとても大事になってきます。仏さまの慈悲心と、その御心を受け取る私達の信心が一つに合わさった時に本来のお加持は成し遂げられるわけです。

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