一言法話

2023-07-01 21:01:00

96.泣き爺さん


こんな話を聞いたことがあります。
昔、あるお寺の門前に年老いた夫婦が住んでいました。しかし、いつの頃からかお爺さんは毎日のように空を見上げて泣くようになり、周りから「泣き爺さん」と呼ばれるようになりました。
いったいどうして泣いてばかりいるのでしょうか。
この夫婦には二人の娘がいたのですが、長女は傘屋に嫁ぎ、次女は草履屋に嫁いだそうです。
お爺さんは晴れの日には空を見上げ
「ばあさんや、今日は雲一つないいい天気だよ。でもこれじゃ傘は売れっこない。傘屋に嫁いだあの娘がかわいそうだ・・・」と言って泣くのです。
逆に雨の日には
「ばあさんや、今日は朝からずっと雨だよ。雨の日に草履は売れないね。草履屋に嫁いだあの娘がかわいそうだ・・・」と言っては泣くのです。
ある日、見るに見かねたお寺の坊さんが、お爺さんにこのように諭しました。
「爺さんよ、あんたは間違ってる。雨の日には“今日は傘がよく売れるぞ。傘屋に行ったあの娘はきっと喜んでいるさ”と思えばいいのさ。そして晴れた日には“今日は草履がよく売れるぞ。草履屋に行ったあの娘はたいそう喜んでいるだろう”と思えばいいのさ」
それからというもの、このお爺さん、雨の日も晴れの日も空を見上げては喜ぶようになったということです。

文は執見に随って隠れ 義は機根を逐うて現る

これはお大師さまのお言葉です。
高野山大学の学長も務められた中川善教前官はこのお大師さまのお言葉を「すべてのものの価値は、受け入れる者の力に依って左右されるのである。」と現代語訳をされました。

物事をどのように捉え、そこに価値を見出すことが出来るかどうかは自分次第ですし、それを喜びと出来るかどうかも自分次第です。物事の悪い部分にばかり目を向け、悪く捉えることを常とし、結果として泣いて過ごすような人生は嫌ですよね。せっかく与えられた一生、自分に起こりゆく物事への価値を見出し、それを喜びとする一日一日を送りたいものです。

 

2023-06-20 19:26:00

95.蓮の花


先日の6月15日、清々しい青空のもと、ご参拝いただいた皆様と共にお大師さまのお誕生日をお祝いする青葉まつりを行いました。
梅雨のない北海道はこの時期が一番良い季節といえるかもしれません。コロナ禍から日常を取り戻したといえる今日この頃、小樽市内の各地では様々なお祭りや行事が行われ、観光にいらっしゃる方の数もどんどん増えてまいりました。

日光院は小樽駅から船見坂を上った富岡町にありますが、駅から少し下った稲穂町に寺茶房がございます。寺茶房は立地的にも皆さんに気軽に来ていただけるようにと、数年前に開店しました。毎週木曜日から土曜日までの午前11時から午後3時まで(※行事等で臨時休業あり)お茶やコーヒーを飲みながらお話を楽しむことのできるスペースです。写経をすることもできますし、月一のペースで法話会、読経会なども行っています。また今月の29日には寺子屋講座「蓮を作ろう!」を開催します。どうぞ皆様ご参加ください!(詳しくはコチラ。事前予約が必要です。参加費500円)

「蓮の花」は仏教にとって、とても大事な花です。
お大師さまの『般若心経秘鍵』という書物の中に

蓮を観じて自浄を知り 菓を見て心徳を覚る

とあります。蓮を観察すると、自分の心の清らかさを知ることができる。蓮の実を見ると心の徳を覚ることができる、ということです。

蓮は泥の中から汚れに染まらず、きれいな花を咲かせます。テレビやネットでは毎日のようにおぞましいニュースが後を絶つことはなく、見方によってはこの世は汚れにまみれた世の中とみることもできます。しかしそんな中でも私たちはその汚れに染まらない蓮にも似た自身の清らかな心を見つけ出し、心の花を咲かすことが出来るのだ。とお大師さまはおっしゃいます。
さらに、私たちは生まれながらにして仏と同じ心を備えているということを蓮の実は私たちに示しているのだとお大師さまはおっしゃいます。なぜなら普通の植物であれば花が咲いてから実がつくのに対し、蓮の実はまだ花がつぼみのうちから実をつけているからです。

仏教では蓮には様々な徳があり、蓮は特別な存在だと考えます。仏様は蓮の花(蓮華座)を台座とすることが多いのはこのためです。また高野山も内と外それぞれ八つの山々に囲まれた盆地です。まさしく八葉の蓮華に囲まれた仏が座する聖地が高野山であり、お大師さまが修行の地、入定の地として高野山を選ばれた理由の一つです。

 

2023-06-11 07:20:00

94.生前戒名授与式


6月15日は、お大師さまの誕生日、当院では毎年この日の午後1時より「青葉まつり」の法要を行っています。今年はコロナ禍の数年には中止していた生前戒名授与式も併せて執り行います。
生前戒名授与式とは、言葉の通り、生前に戒名を授ける儀式です。生前に戒名?と思われる方も多いかと思います。今現在、戒名はお葬儀の時に授けられることがほとんどですが、本来の戒名は意外に思われるかもしれませんが、その方が生きている間に授けられていたものなのです。一般の方が生前に戒名を授かることは日本において平安時代末期から始まったとされています。

仏教には、戒(いましめ)といわれるものがあります。戒めとは、仏教徒として心掛けるべき指針です。生前戒名授与式を受ける方には、その戒めを守り、仏の弟子としてふさわしい生活を送りますとの誓いをたてていただきます。そのことにより、戒名が与えられるというのが正式な形になります。

生前に戒名を授かることにより、自分は正式な仏教徒なのだという自覚が芽生えますし、生きる指針となる戒めに照らし合わせた生活をおくることができます。でありますので、日光院では、生前に戒名を受けていただくことをお勧めしているわけです。また、ご相談いただければ、自分が希望する漢字を戒名の中に入れることも可能です。

今年は5名の方が生前戒名授与式を受けられます。来年の青葉まつりは諸事情により残念ながら生前戒名授与式は行うことができません。
それ以降ということにはなってしまいますが、是非、生前に戒名を受けられることをご考慮ください。

 

2023-06-01 22:30:00

93.聖地高野山

今年はお大師さまがお生まれになり、ちょうど1250年の記念の年となります。高野山ではお祝いの慶讃法要が5月から7月までの間行われています。この法要は北海道から九州の各地域の高野山真言宗寺院が担当し行うものですが、5月28日の午後からの法要は北海道の寺院僧侶により厳修されました。
私もこの法要に出仕させていただきましたが、伽藍の金堂で30名余りの僧侶、お稚児さん、各寺院の檀信徒の方々とともにお大師さまの誕生日のお祝いの法要を勤めさせていただいた喜びは何にも代えがたいものがありました。

当日の朝、奥の院の御廟にお参りし、諸大名や大企業関係などのお墓が立ち並ぶ杉の木立を歩きながら、修行中、幾度もこの道を行き来したことを思い返しました。
その当時、奥の院御廟手前のところでよく野良犬を見かけました。最近は高野山に限らず、野良犬を見かけること自体少なくなりましたが、その頃は道端で野良犬を見かけることは当たり前にありました。私の野良犬へのイメージは常に周りを警戒し、自分に近づいてくる野良犬などめったにいないというものでしたが、奥の院にいる野良犬たちはいつも安心しきった様子でおなかを見せて昼寝をしたり、参拝者たちへ警戒心も見せずに近寄っていました。
最初は奇妙に感じましたが、やはり高野山にいる野良犬は普通の野良犬とは違い人間に対して警戒心とか恐怖心がないので、そんな行動をとっていたのだと思います。人間は自分たちに危害を加えない優しい存在だと認識していたからでしょう。
高野山に登り、奥の院に参拝するとそれだけで心は清められますし、この聖地で野良犬にちょっかいをかけてやろう、いたずらをしてやろうなどという思いを持つ人などめったにいないでしょう。だから野良犬たちは人間への警戒心など持ちようがなかったのだと思います。

一度参詣高野山 無始罪障道中滅(高野山に一度上がると生前からの罪が消滅する)ともいわれてきた高野山。是非、機会がありましたら高野山への参詣をお勧めいたします。同時に日光院の山号は小樽高野山です。高野山との深いゆかりのある日光院へもどうぞ参拝下さい。

 

2023-05-21 18:52:00

92.善と悪


前回の一言法話では、道林禅師と白居易との対話を紹介しました。その中に「善いことをした方がいいという道理は3才の子どもでも知ってはいるが、その道理に沿って生きることは80歳の老人でも難しい」とありました。

お釈迦さまを含む7人の仏(過去七仏)が共通して説いた教えを一つにまとめたとされる『七仏通誡偈』にこのようにあります。

諸悪莫作(しょあくまくさ)- もろもろの悪をせず
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)-もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい)- 自らの意(こころ)を浄くする
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)-これがもろもろの仏の教えである

最初に、もろもろの悪をせず、とありますが、仏教ではいったいどのようなことを悪だと考えるのでしょうか。
仏教では人間には様々な煩悩があると説きます。
煩悩とは自分勝手な様々な欲望であり、その代表的なものに、貪瞋痴があります。

貪りとは何でも自分の思う通りにしたいという欲望です。
瞋とは自分の思い通りにならない時に沸き起こる怒りの感情です。
痴とは物事は自分の思い通りにならなくて当たり前であるということを認められない愚かな心です。
こういった煩悩の心が起こす行いは悪だと仏教では考えるわけです。

例えば、電車でお年寄りに席を譲ったとします。しかし、そのお年寄りはお礼も言わず譲ってくれて当たり前という顔で席に座りました。そこで“なんだ、お礼ひとつも言わないのか、横柄な年寄りだな”といった怒りの心を持つならば、仏教ではそれは悪だということになります。善であるはずの席を譲るという行いが悪に早変わりしてしまったわけです。怒りの感情が湧き出てくるということは席を譲れば、このお年寄りから感謝してもらえるだろうという思いが外れたからです。

逆に貪瞋痴を離れた行為は善の行いということになります。見返りを求めない清らかな行いです。しかし、そんなつもりでしたわけではなかったとしても、ついつい何かしらの見返りを期待してしまうのが人間だともいえます。だから80歳の老人でも善いことをするということは難しいわけです。

しかし、『七仏通誡偈』にあるように煩悩に染まらず、少しずつでも善の行いを心がけることによって、自浄其意(自らのこころを浄くすること)ができると説くのが仏教の教えです。心が清められると、自然に善の行いができるようになるでしょう。そうするとさらに心は清められることになり、善の好循環となり、まさしく仏教徒としての理想の姿になることができます。

 

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