一言法話

2023-05-21 18:52:00

92.善と悪


前回の一言法話では、道林禅師と白居易との対話を紹介しました。その中に「善いことをした方がいいという道理は3才の子どもでも知ってはいるが、その道理に沿って生きることは80歳の老人でも難しい」とありました。

お釈迦さまを含む7人の仏(過去七仏)が共通して説いた教えを一つにまとめたとされる『七仏通誡偈』にこのようにあります。

諸悪莫作(しょあくまくさ)- もろもろの悪をせず
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)-もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい)- 自らの意(こころ)を浄くする
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)-これがもろもろの仏の教えである

最初に、もろもろの悪をせず、とありますが、仏教ではいったいどのようなことを悪だと考えるのでしょうか。
仏教では人間には様々な煩悩があると説きます。
煩悩とは自分勝手な様々な欲望であり、その代表的なものに、貪瞋痴があります。

貪りとは何でも自分の思う通りにしたいという欲望です。
瞋とは自分の思い通りにならない時に沸き起こる怒りの感情です。
痴とは物事は自分の思い通りにならなくて当たり前であるということを認められない愚かな心です。
こういった煩悩の心が起こす行いは悪だと仏教では考えるわけです。

例えば、電車でお年寄りに席を譲ったとします。しかし、そのお年寄りはお礼も言わず譲ってくれて当たり前という顔で席に座りました。そこで“なんだ、お礼ひとつも言わないのか、横柄な年寄りだな”といった怒りの心を持つならば、仏教ではそれは悪だということになります。善であるはずの席を譲るという行いが悪に早変わりしてしまったわけです。怒りの感情が湧き出てくるということは席を譲れば、このお年寄りから感謝してもらえるだろうという思いが外れたからです。

逆に貪瞋痴を離れた行為は善の行いということになります。見返りを求めない清らかな行いです。しかし、そんなつもりでしたわけではなかったとしても、ついつい何かしらの見返りを期待してしまうのが人間だともいえます。だから80歳の老人でも善いことをするということは難しいわけです。

しかし、『七仏通誡偈』にあるように煩悩に染まらず、少しずつでも善の行いを心がけることによって、自浄其意(自らのこころを浄くすること)ができると説くのが仏教の教えです。心が清められると、自然に善の行いができるようになるでしょう。そうするとさらに心は清められることになり、善の好循環となり、まさしく仏教徒としての理想の姿になることができます。