一言法話

2022-11-20 19:38:00

74.大往生

 

突然ですが、皆さんに質問したいと思います。私たち誰もが100パーセントの確率で経験することは何でしょうか?
答えは、皆さんあまり考えたくないことだとは思いますが「死」です。この世に生を受けた私たちには必ず「死」が待っています。しかし、普段私たちは「死」というものを意識しないで生きていますよね。テレビでは連日のように殺人、交通事故死といったニュースが放送されますが、「惨いことだ」「かわいそうに」と心を痛めはしても、自分自身の「死」そのものに結び付けて考えることはあまりないでしょう。しかし、私たちの命はいつなんどき、どのようなことになりうるか、誰にもわかりません。交通事故にたまたまあってしまい、命を落としてしまったのが、テレビで名前が映し出された彼であっただけで、それが彼ではなく自分であったとしても何の不思議もないわけです。そう考えると日々を当たり前のように生きていられるということは、なんと有難いことなのかと思わずにはいられません。でも、そんな有難さなど忘れてしまい、ことあるごとに不平不満を口にしながらいたずらに日々を過ごしてしまいがちなのが我々だといえます。
あの有名な永六輔さん。「大往生」という書籍はベストセラーにもなりましたが、その中でこんなことをおっしゃっています。

人は死にます 必ず死にます
その時に 生まれてきてよかった
生きてきてよかったと思いながら
死ぬことができるでしょうか
そう思って死ぬことを大往生といいます

一般的には大往生というと長寿で安らかに亡くなることをいいますが、永六輔さんは、生まれてきてよかった、生きてきてよかったと感謝の思いを持ちながら亡くなることを大往生というのだとおっしゃるわけです。なるほどと思います。いつかは必ず訪れる自らの死をどのように迎えられるかが問われるわけですね。死をどのように迎えられるかは、その人がどのような生き方をしてきたかということにかかってきます。いい人生だったと感謝の念をもって死を迎えられるか、つまらない人生だったと後悔の最期を迎えるかは、やはり自分次第です。

2022-11-10 22:37:00

73.護摩

 

今月の3日、小樽市内の御寺院様にご参集いただき、大般若転読法要を執り行いました。肌寒く雨混じりの中ではありましたが、たくさんの檀信徒の皆様に参拝いただきました。

大般若転読法要は祈願の法要になりますが、この法要にあわせ護摩祈祷を行いました。

護摩祈祷により、煩悩を不動明王の智慧の炎で焼き尽くします。同時にお香や穀物等様々な供物を炎の中に捧げ、私達の願いが書かれた添え護摩木を炎の中に投じ、願いを仏さまに届け、その願いが成就することを祈るのです。

 

護摩祈祷は不動明王を本尊として行うことが多いのですが、不動明王のお姿は激しい怒りの忿怒の形相です。不動明王は真言宗の本尊、大日如来が衆生を教化(仏教の教えにより悟りへ導くこと)するため、あえて忿怒の姿に形を変えたのだともいわれます。では不動明王はなぜ忿怒の姿をしているのでしょうか?不動明王は右手に三鈷の剣を持ち、左手に羂索(けんじゃく)という縄を持っています。私達の煩悩を断ち切るのが三鈷の剣であり、羂索の縄でもって、私達を一人残らず仏道に導き、悟りへの道を歩ませようとしているのです。そのあまりにも強い意思により不動明王は忿怒の姿となったのです。ですから不動明王の忿怒の表情は悪を断ち切り、良き道へと導こうという強い心の表れであり、強い慈悲の心の表れだといえるのです。

 

日光院では祈願法要(2月4日ー星祭り 6月15日ー青葉祭 11月3日ー大般若転読法要)と不動明王の縁日の毎月28日(冬季は休止)に護摩祈祷を行っており、どなたでも参拝していただけます。お電話等で時間を確認していただき、どうぞお参り下さい。

2022-11-01 00:00:00

72.加持

 

早いもので今日から11月、今年もあと2か月となりました。
11月3日の午後1時より当院にて大般若転読法要を厳修いたします。この法要が当院での今年最後の法要となります。
大般若転読法要は六百巻からなる『大般若経』を転読(経題を独誦し、経本をめくり広げること)する法要です。
当日は、参拝された皆様に六百巻のうち、特に重要だと考えられる第五百七十八巻の『般若理趣分』によるお加持を受けていただきます。
僧侶より『般若理趣分』の経典で後頭部と左右の肩をポンポンと叩いていただき、その加持力によって、難から逃れ福を呼び込んでいただきます。
お大師さまは『即身成仏儀』の中で本来の加持の意味をこのように著しています。

加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく

加持の「加」は常に私達一人一人の心に余すところなく注がれている仏さまの慈悲の心を表し、その仏さまの慈悲の光を私達が感じて、受け取らせていただくことを「持」と言います。
ですから、お加持は、仏さまの御心を受け取らせていただく私達の思いというものがとても大事になってきます。仏さまの慈悲心と、その御心を受け取る私達の信心が一つに合わさった時に本来のお加持は成し遂げられるわけです。

2022-10-21 00:00:00

71.自殺について

 

若い女性がSNSで知り合った男に自殺の手助けを依頼し、自らの尊い命を亡くす痛ましい事件が続きました。
日本は先進国(G7)の中で自殺率が最も高い国です。先進国に限らず、どの国であっても女性より男性の方が自殺率が高いということは同じですが、日本は他の国に比べ女性の自殺率の高さも目立っています。

NPO法人自殺対策支援センター ライフリンクの代表である、清水康之さんは自殺について、このようにおっしゃっています。
「自殺と言っても、自ら積極的に命を絶っているのではありません。自殺の背景に潜む経済的な要因や、自殺の危機経路からも分かるように、自殺は極めて社会的な問題です。もう生きていくことができないと、追い詰められた末に、自殺で亡くなっているのです。自殺をタブー視するのではなく、もっと社会的な問題として、みんなで考えていく必要があると思います”

自殺は、最初から「死にたい」という思いによるものではなく、様々な要因が重なり「今のこの苦しみから永遠に逃れたい」という思いが強くなり、その究極の選択肢として「死」というものを選んでしまうということだと言えるしょう。
ある調査では自殺を考えたことのある人の割合は日本人の三分の一以上であったといいます。その背景には、精神保健上の問題だけでなく、過労、生活困窮、育児や介護疲れ、いじめや孤立などの様々な社会的要因があるわけです。こういったことは大小の違いはあっても、誰もが抱えることです。ですから、誰しもその当事者となりうることは十分にありうることで、自殺をタブー視してそこから目をそらすことで、済ませてしまおうということではいけないということです。

仏教では物事は(もちろん自分自身も)必ず変わりゆくもので、今の状況は何らかの形に変化していくという「諸行無常」を説きます。苦しみだと感じていることも、そうではなくなっていく要素は十分にあるのです。自分を取り巻く状況や自分の物事への感覚、感じ方というものは常に変化していくものだと、しっかり捉えることができれば、光は見えてくる筈です。

実際に自殺を選んでしまった人の様々な思いは一般論で括ることなどできないでしょうし、あまりにも頑なになってしまった感覚や感じ方は、簡単には変えられないのかもしれません。しかし、もし、今「命を捨て去りたい」などという思いを持っておられる方がいらっしゃるのであれば、その思いから逃れることの出来る良きご縁に巡り合っていただけることをただただ願うばかりです。

2022-10-11 00:00:00

70.素直な笑い

 

先日、プロレスラーのアントニオ猪木さんが、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスという難病により心不全でお亡くなりになりました。政治家としても様々な活動をされた猪木さんには「元気があれば、何でもできる」などの名言がありますが、その中の一つに「一生懸命やっている人を小馬鹿にするのは、自分がかなわないから笑うことで逃げているのだ」という言葉があります。

笑いには様々な種類があるといわれます。
面白さ、快を感じることによって起こる笑い。これが人間の笑いの最も基本的な形とされます。
人間関係を円滑にするような社交上の笑い。幼少期にはあまり見られず、大人ではこれが最も頻度が高い笑いだといわれます。
緊張が弛むことによる安心感から表出する笑い。緊張を緩めようという意思であえて出す笑いもこれに含まれます。
しかし、猪木さんの言葉にある「一生懸命やっている人を小馬鹿にする笑い」は、これらの笑いとは違って卑劣で、厭らしい笑いだといえるでしょう。
お大師さまは『般若心経秘鍵』の中でこうおっしゃっておられます。

「痛狂は酔わざるを笑い 酷睡は覚者を嘲る」 

自分を失くすほどの酒を飲み、酔い潰れた人は、素面(しらふ)の真面(まとも)な人をつまらない人だと小馬鹿にして笑い、眠りこけたようにいたずらに時を過ごす人は、努力し正しく生きている人を批判し、嘲笑するものだ

笑いには脳の働きを活発にし、血行を促進し、免疫力をアップしたりといった様々な効能があるといわれます。しかし、自らを省みず、人を小馬鹿にするような笑いにはそのような効能があるとは思えません。そんな笑いは逆に自らの心に悪い種を植え付けてしまいます。素直な心で素直に笑える日々を送りたいものです。