一言法話

2022-09-01 00:00:00

66.一水四見

 

前回、前々回と「お盆」と「施餓鬼」の由来についてお話ししました。「お盆」は目連尊者がたくさんの僧侶に供養した功徳によって餓鬼道に堕ちてしまったお母さんを救い出したことが始まりであり、「施餓鬼」は阿難尊者が餓鬼道にいる無数の恵まれない餓鬼達に施しを行ったことが元になっていることがお分かりいただけたかと思います。
仏教では古来より「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六つの世界(道)があると考えます。「餓鬼道」はそのうちの一つの世界、ここにいる住人達は皆、飢えに苦しんでいます。なぜなら前にも話した通り、餓鬼の世界では食べ物や飲み物は口の前にもっていくと燃えてなくなってしまうからです。ですから、住人たちは心身ともに満たされることはなく、常に欲深く、口にするものを求めています。
今はあまり耳にしなくなりましたが、昔は小さい子供に対して「ガキ」と言ったりしました。この言葉はまさしく「餓鬼」からきています。食糧事情がよくなかった時代では常におなかをすかせた子供も多く、そんな子供たちを「餓鬼」になぞらえたのでしょう。

仏教には『一水四見』という言葉がありますが、ここにも「餓鬼」の言葉が出てきます。
ーー同じ水を見ても餓鬼は火炎の苦しみとみる、天人は透き通ったガラスのようなものと見る、人間は水と見て、魚は住みかと見る
これは同じものを見てもそれぞれの立場や状況により、見方や感じ方は違うのだということを表しています。水一つをとってみても、四つの見方に分かれるのですから、この世の中をどう捉えるかは、人それぞれ無数にあるといえるでしょう。つまり、人それぞれ、各々の世界感をもっているわけです。
このことを理解し、相手の立場からくる相手のものの捉え方、見方を認めることが大事だと思います。それができるならば、私達人間社会での真の信頼関係を築いていくことができるでしょう。

2022-08-19 00:00:00

65.お施餓鬼

 

お盆を終え、北海道は一気に秋の気配が近づいてまいりました。
前回、目連尊者が僧侶達を供養することによって、餓鬼道に堕ちていたお母さんを救いだしたお盆の由来ともなっている『仏説盂蘭盆経』のお話をしましたが、なぜ目連尊者のお母さんは餓鬼道に堕ちてしまったのでしょうか。一説によると、目連尊者のお母さんは我が子だけを大事にし、他の子どもに対して一切慈悲をかけたりすることがなかったからだと言います。ですから、他人ごとではありません。自分ばかり、我が子ばかりを大事にし、他を思いやる心を忘れた人生をおくったならば、誰しも地獄や餓鬼の世界に堕ちてしまう可能性があるわけです。

また、餓鬼道に関しては、お釈迦さまのお弟子さん、阿難尊者のこんなお話もあります。
阿難尊者は目連尊者とともに十大弟子の一人でお釈迦さまの侍者をつとめられた方です。しかし、ある夜、阿難のもとに餓鬼がやってきて、あなたの命はあと三日しかないと告げました。この餓鬼は口の中が焔と燃え、喉が針金のごとく細く、ものすごい形相をしており、三日後には阿難もこのような姿になる、というのです。しかし、哀れな無数の餓鬼達に飲食の施しを行うならば、その功徳によって餓鬼道に堕ちずにすむということを教えられました。
どうすれば、苦しむ無数の餓鬼達に施しをすることができるのか、阿難はお釈迦さまに相談しました。お釈迦さまは阿難にある陀羅尼(ご真言)を授けられます。阿難はその陀羅尼を唱えて、一器の食物を無量の飲食に増やされ、それを無数の餓鬼に施すことができ、その功徳によって事なきを得たのです。

この話を元として、お盆やお彼岸には餓鬼に施しをする『お施餓鬼』の法要を行う寺院が多いわけです。

2022-08-11 00:00:00

64.お盆の由来

 

今年もお盆を迎えようとしております。
日光院では8月13日から15日まで本堂にて塔婆供養を行っています。その際、お唱えしているのが『仏説盂蘭盆経』です。
お盆の由来が『仏説盂蘭盆経』 にこのように説かれています。
お釈迦さまの十大弟子の1人、目連が神通力を得た時、亡き母が今どうなっているのか気になり、その力で様々な世界を見まわしたところ、母親はなんと餓鬼の世界(餓鬼道)で苦しんでいる姿が映りました。餓鬼道に堕ちると、食べ物は食べる直前に炭となって燃えてしまいます。ですからここの住人達は常に飢えて苦しんでいるのです。
目連の神通力をもってしても母親のこの苦しみをどうすることもできません。目連は嘆き悲しみ、お釈迦さまにそのことを話し、相談したところ、お釈迦さまはこう言われました。
「安居(雨季の室内での修行期間)が終わる7月15日に僧侶達に布施をして、供養しなさい。そうすれば、亡くなった父母だけではなく、ご先祖に当たる方々は地獄、餓鬼、畜生の三悪道の苦しみから逃れることができるだろう。また両親が健在の人であれば、その両親は末永く幸せに暮らせるだろう」
また布施を受ける僧侶達に対しては「布施をされた方の家のために過去七生の父母の幸せを願い、心をしずめて、その後に布施を受けなさい」
布施をした目連と布施を受けた僧侶たちとの願いは叶い、目連の母は、餓鬼道での苦しみを脱し、天上界に生ずることができたのです。

お盆の期間は所により違いがあり、7月盆(7月に行うお盆)、ひと月遅れの8月盆、あるいは旧暦の7月15日頃に行う地域、と様々あります。本来は7月15日に目連が僧侶達に対し布施行を行ったのが始まりだということがお判りいただけたと思いますが、北海道は函館を除き、8月盆ですし、全国的にも地方では8月盆(8月13日から15日或いは16日)が多いかと思います。これはなぜかというと昔は7月の時期は農作業で忙しすぎて、お盆どころではなかったので、ひと月遅れの8月盆になったということです。

2022-08-01 00:00:00

63.ピンチをチャンスに

 

生きていると大小様々な困難に遇います。今のコロナは第7波と言われていますが、一昨年前から始まったこのコロナ禍もまさしくその一つです。きっと困難のない人生などあり得ないのでしょう。しかし、その困難をどう受け取るかは、人それぞれ違います。

つらいことがおこると 感謝するんです
これでまた強くなれると ありがとう
悲しいことがおこると 感謝するんです
これで人の悲しみがよくわかると ありがとう
ピンチになると感謝するんです
これでもっと逞(たくま)しくなれると ありがとう
つらいことも悲しいこともピンチも乗り越えて
生きることが人生だと言いきかせるのです 自分自身に
そうするとふっと楽になって楽しくなって
人生がとても光り輝いてくるんです
ピンチはチャンスだ 人生はドラマだ
人生がとてもすてきにすばらしく
よりいっそう光り輝きだすんです
ますます光り輝く人生を
ありがとう の心と共に

これは、詩人であり講演家、清水英雄さんの詩です。
お大師さまはこうおっしゃっています。

薬は病に随って無数なり 乗は器に逐うて無量なり

薬は病気によって無数に存在する。それと同様に私達が受け取ることのできる教えはこの世に無限に存在するのだ。
私たちの周りには、自分の受け取り方しだいで、教え、となる出来事に満ち溢れています。そして、つらいことや悲しいこと、困難に遇うことさえも、教え、に出会うチャンスをいただいたんだと捉え、その困難を乗り越えていける力が私達にはあるはずです。どんなピンチもチャンスに変えていきましょう。

2022-07-20 00:00:00

62.あたりまえ その2

 

(前回の続き)
井村医師は、大阪の岸和田病院に内科主任として入職し、患者さんの診療に精勤していましたが、長女の飛鳥さんが生まれた直後に右膝に悪性腫瘍が見つかりました。転移を防ぐために右脚を切断したのですが、その後、腫瘍は両肺に転移してしまいました。癌が肺にも転移していると知った時、「覚悟はしていたものの、一瞬背中が凍りついた」と語っています。そして、ある日の夕暮れ、井村医師は不思議な体験をします。
「スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。 アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした」

これはいったいどういうことでしょうか。
普通であれば、井村医師のような状況になったならば、心平穏であることさえも難しく、がっくりと落ち込むような日々を送ってしまうでしょう。しかし、そんな中で井村医師は自らが医師であるからなおのこと、逃れることのできない自分の死を本当の意味で覚悟するようになっていかれたのだと思います。だからこそ、命ここに有ることの有難さと尊さを実感し、命あるものすべて(雑草や電柱や小石までも)の輝きが井村医師の心に映し出されたのでしょう。
お大師さまのお言葉に

心暗きときは遇うところ悉く禍なり 眼明らかなるときは途に触れて皆宝なり

とあります。

私達も仏さまのような心の眼でまわりを見渡すことができたならば、あたりまえにあるものだと思っていたような様々なものが、実は光り輝く尊いものなのだと観ることができるはずです。
逆に欲にまみれた濁った眼でもって日々を過ごしたならば、まわりの輝きに気付くことはできません。それは結果として禍(わざわい)であるといえます。