一言法話

2022-05-21 00:00:00

56.善人夫婦と悪人夫婦

 

こんな話があります。ある家族の夫婦とご主人のお母さんの三人での朝の一コマです。善人夫婦、悪人夫婦では同じことが起きた時、それぞれどうなるのか?という話です。

ある朝、主人が仕事へ行くための準備をしていました。スーツを着て、カバンを持って、さあ出かけようとしたら腕時計をはめてないことに気付きました。電車の時間は迫っています。「おーい、僕の腕時計、どこにあるか知らないかい?」奥さんに尋ねました。奥さんはその日、友人が遊びに来るので、朝から玄関に水の入ったバケツを置いて家の掃除をしていました。居間の棚の上に、腕時計があったのを思い出した奥さんはそれを取ってきて主人に渡しました。時計を受け取った主人は慌てて家を出ようとします。すると玄関に置きっぱなしになっていたバケツを蹴飛ばしてしまい、バケツの水が主人のズボンにかかってしまいました。

この後、善人夫婦と悪人夫婦、それぞれの夫婦がどうなったか見てみましょう。

〇善人夫婦が住む家の場合
怒った主人は「何でこんな玄関の真ん中にバケツを置きっぱなしにしているんだ。今から仕事に行かないといけないのにズボンが濡れてしまったじゃないか」とバケツを置きっぱなしにしていた奥さんが悪いと責めます。自分は悪くない、つまり自分は善人だと思っているからです。
奥様もこう返します。「何でこんな大きなバケツが目に入らないの。せっかくきれいに掃除したのに、また汚れてしまったじゃないの。せっかく時計取ってきてあげたのに、私のせいにして何なの」奥様も善人なので自分は悪くありません。悪いのは、大きなバケツに気づかない主人の方です。
そこへ、おばあちゃんが怪訝な顔でやってきてこう言います。「やれやれ、喧嘩ばっかりしてこの家は争いが絶えないねぇ」

〇悪人夫婦が住む家の場合
主人はバツが悪そうにこう言います。「せっかくきれいにした玄関を水浸しにしてしまってごめん。わざわざ僕の時計を取ってきてくれたのに、バケツをよく見てなくて蹴飛ばしてしまった。僕が悪かったよ」主人は自分が悪いと反省します。
奥さんも申し訳なさそうにこう言います。「お仕事に行かないといけないのにズボンが濡れてしまってごめんなさい。私がバケツを置きっぱなしにしてしまったから、悪いのは私の方よ」奥様も自分が悪かったと反省します。ご主人も奥さんも自分が悪い、つまり悪人だと自覚しているわけです。
そこへ、おばあちゃんがにこにこしながらやってきてこう言います。
「あらあら、うちの2人はいつも仲良しでいいね」

自分がいつも正しいと思っていると争いになります。自分は善人。自分は正しい。自分は間違ってない。こんな風にいつも思っていると、何か問題が起こった時に、何でも相手のせいにしてしまい、争いごとが絶えなくなってしまいます。気を付けなくてはいけませんね。

2022-05-10 00:00:00

55.花の徳

 

雪が降り積もった冬景色から一転、あっという間に雪解けが進み、桜の開花とともに例年よりも早く春が訪れました。そんな桜の季節もそろそろ終わりを迎えようとしております。日本人が大好きな桜をはじめ、道端に何気なく咲いている花、花瓶や花器に綺麗に生けられた花、そんな花々を目にした時、私たちの心は自然に清々しくなるものです。

代表的な六つのお供物(水、塗香、花、焼香、飲食、灯明)を仏さまに供養することを六種供養といいます。仏教徒が悟りの岸に向かうための六つの徳行(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)がありますが、六種供養のお供物はその六つの徳行それぞれを表します。

閼伽(水)-布施
塗香-持戒
華鬘(花)-忍辱
焼香(線香)-精進
飲食(ご飯)-禅定
灯明(ろうそく)-智慧

花は耐え忍ぶ大切さ、忍辱を表します。花には見る人の心を安らかにし、怒りを静める力があります。また、花の種は土の中で自然条件が整うのをじっと待ち、やがて芽を出し、寒さ暑さや厳しい雨風にも耐え、見事な花を咲かせます。
また、花は誰かに褒められようと綺麗な花を咲かすわけではありません。見返りを求めることなく、自らの命の限り、花を咲かせます。そんな花々の姿を目にすることで、私たちは苦痛を耐え忍び、ただひたすらに自らの命を生ききることの素晴らしさを学ぶことができます。
私達の命は花の一生と同じようにいつかは散っていく儚いものであると言えますが、だからこそ、思い通りにいかない辛さや、苦しいと思われることも耐え忍び、この世での命の花を精一杯咲かせたいものです。

2022-05-01 00:00:00

54.菩薩とは

 

前回、日光院のご本尊でもございます観音菩薩についてお話をしました。
仏さまには観音菩薩をはじめとする「・・菩薩」と呼ばれる仏さま、また「・・如来」「・・明王」「・・天」と呼ばれる仏さまがいらっしゃいます。
仏さまには尊格があり、悟りの段階により上から「如来」「菩薩」「明王」「天」となります。
「菩薩」は「観音菩薩」のほかに「地蔵菩薩」「弥勒菩薩」「普賢菩薩」「文殊菩薩」などの仏さまがいらっしゃいます。
「菩薩」は「菩提薩埵」の略です。「菩提薩埵」はもともと、お釈迦さまの修行中の姿であり、未来に悟りを開く者の意味として用いられましたが、後に、悟りを求め修行するとともに、他の者をも悟りに到達させようと努める者に対して使われる言葉となります。
また「菩薩」は「如来」と同じ悟りの状態にあるのだが、あえて菩薩の姿のままでいらっしゃるのだといわれます。悩み多き人々のもとに留まり、共に悟りに向かおうと手を差し伸べてくださる存在なのです。

お大師さまの著書『秘蔵法鑰』にこのようにあります。

菩薩の用心は
みな慈悲をもって本(もとい)とし
利他をもって先とす
よくこの心に住して
浅執を破して
深教に入るるは
利益(りやく)もっとも広し

菩薩の心は、すべて慈悲をもととし、他の者の幸せ(利益)を先としています。そして、私達も自分だけの幸せ(利益)を願う浅はかな執着の心をうち破り、他の幸せを先に願う菩薩の境地に入るならば、最も大きな幸せが得られるのだと、お大師さまは諭されているのです。

2022-04-21 00:00:00

53.観音菩薩

前回、慈悲についてのお話をしました。仏さまは必ず慈悲の心を持つ存在だといえますが、中でも「観音菩薩」は特に慈悲心の深い仏さまです。
日光院のご本尊は「聖観音菩薩」。観音さまには様々な変化した姿がありますが、昔から六つの観音さまを信仰(六観音信仰)することにより、六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の世界を生まれ変わるごとに巡り続けること)の苦しみから逃れることができるとされてきました。六観音とは「聖観音」「十一面観音」「千手千眼観音」「如意輪観音」「馬頭観音」「准胝観音」の六つの観音さまのことをいいます。
日光院は、北海道三十三観音霊場の七番札所ですが、札所としてのご本尊はこの六観音のうちの一つ「如意輪観音」となります。

観音菩薩の正式名称は2つあります。1つは「観世音菩薩」もう1つは「観自在菩薩」です。観音菩薩はサンスクリット語(古代インドの言葉)で「アバローキテーシュバラ」が原語です。もともとは「観世音菩薩」と訳されていたのですが、西遊記に出てくるあの有名な三蔵法師、玄奘三蔵は「観自在菩薩」と訳されました。
中村元博士の『新・仏教辞典」にこのようにあります。
観世音とは世間が救いを求めているのを聞くと、ただちに救済する意。観自在とは一切諸法の観察と同様に衆生の救済も自在の意、救いを求める者の姿に応じて大慈悲を行ずるから千変万化の相となるという

観世音も観自在も同じような意味となりますが、迷い苦しむ衆生の声を聞き、そんな姿を観たならばすぐさま姿かたちを変えてでも、救いの手を差し伸べてくれる慈悲深き仏さまです。

日光院のご本尊「聖観音菩薩』(伝承では聖徳太子作)はもともと高野山にてお護りされてきた仏さまです。日光院が今の富岡の地に移り、大正15825日、落慶法要が厳修された時に合わせ、高野山より請来されました。
優しいお顔、そのお姿、まさしく慈悲心に溢れた観音様さまです。
観音さまの慈悲の光に照らされ、自らの心にもその光を強く灯していただきますよう、是非、当院へ参拝下さいませ。

2022-04-11 00:00:00

52.慈悲

 

お釈迦さまの時代、インドは大小さまざまな国に分かれていました。その一つ、コーサラ国の王、パセーナディーは、高台にある自分のお城の外に出て、町の家々や行き交う人々を眺めながら、妃のマッリカーにこう尋ねました。
「マッリカーよ、そなたにとって自分よりも愛おしいものはあるか」
マッリカーはしばらく考え、返事をためらいながら、こう答えました。
「王さま、そのようなこと考えてみたこともありませんでしたが、よくよく考えてみると私にとって自分より愛おしいものはありません。王さまはどうですか」
「マッリカーよ、正直に言うと、私も自分よりも愛おしいと言えるものはないのだよ」
二人はこの同じ結論に疑問を持ちました。人が皆、自分だけが愛しいなら、この世はいったいどうなるのだろうか?それぞれが、自分勝手に生きたならこの世は乱れるばかりではないか。
そこでお釈迦さまを訪ね、二人がたどり着いた結論とそこで感じた疑問を話し、お釈迦さまの教えを乞いました。
お釈迦さまは深くうなずかれ、こう答えました。
「人にとって自分ほど愛おしいものはないのだ。それと同じように、誰もが自分自身を一番愛おしいと思っているのだ。誰もが持つその思いを認め、他をおもんばかることができるなら、相手の益となるような行いを心掛けるべきであり、相手を傷つけるようなことはするべきではない、との思いは強くなっていくはずである」

「慈悲」という言葉がありますが、これは仏教語です。
情けが深く、進んで誰かのために行動する人をあの人はとても慈悲深い人だ。と言ったり、逆に他のことを全く思い計ることなしに犯してしまう残酷な行動をなんと無慈悲な行いだと言ったりします。
仏典では、生きとし生ける者に幸福を与える《与楽(よらく)》のが慈であり、不幸を抜き去る《抜苦(ばっく)》のが悲であると説き、この二つを合わせ「慈悲」といいます。
「慈悲」は、御仏の御心を表すとされますが、私たち一人一人にもこの慈悲の心は必ず宿っています。
誰もが持つ、自分自身が一番愛おしい、との思いを認め合うことにより「慈悲」の心は大きく育まれていくのだと思います。