一言法話

2022-04-11 00:00:00

52.慈悲

 

お釈迦さまの時代、インドは大小さまざまな国に分かれていました。その一つ、コーサラ国の王、パセーナディーは、高台にある自分のお城の外に出て、町の家々や行き交う人々を眺めながら、妃のマッリカーにこう尋ねました。
「マッリカーよ、そなたにとって自分よりも愛おしいものはあるか」
マッリカーはしばらく考え、返事をためらいながら、こう答えました。
「王さま、そのようなこと考えてみたこともありませんでしたが、よくよく考えてみると私にとって自分より愛おしいものはありません。王さまはどうですか」
「マッリカーよ、正直に言うと、私も自分よりも愛おしいと言えるものはないのだよ」
二人はこの同じ結論に疑問を持ちました。人が皆、自分だけが愛しいなら、この世はいったいどうなるのだろうか?それぞれが、自分勝手に生きたならこの世は乱れるばかりではないか。
そこでお釈迦さまを訪ね、二人がたどり着いた結論とそこで感じた疑問を話し、お釈迦さまの教えを乞いました。
お釈迦さまは深くうなずかれ、こう答えました。
「人にとって自分ほど愛おしいものはないのだ。それと同じように、誰もが自分自身を一番愛おしいと思っているのだ。誰もが持つその思いを認め、他をおもんばかることができるなら、相手の益となるような行いを心掛けるべきであり、相手を傷つけるようなことはするべきではない、との思いは強くなっていくはずである」

「慈悲」という言葉がありますが、これは仏教語です。
情けが深く、進んで誰かのために行動する人をあの人はとても慈悲深い人だ。と言ったり、逆に他のことを全く思い計ることなしに犯してしまう残酷な行動をなんと無慈悲な行いだと言ったりします。
仏典では、生きとし生ける者に幸福を与える《与楽(よらく)》のが慈であり、不幸を抜き去る《抜苦(ばっく)》のが悲であると説き、この二つを合わせ「慈悲」といいます。
「慈悲」は、御仏の御心を表すとされますが、私たち一人一人にもこの慈悲の心は必ず宿っています。
誰もが持つ、自分自身が一番愛おしい、との思いを認め合うことにより「慈悲」の心は大きく育まれていくのだと思います。