一言法話

2021-09-10 00:00:00

31.心の定規

 

明治から大正期の農業指導者、秋田の二宮尊徳と呼ばれた石川理紀之助さんは『心のじよう木(定規)』という冊子の中でこのように述べています。

「すべての人間には、心のじよう木が必要である。なんびともみな、それぞれ心のじよう木を持つべきである。これがなければ、万事について迷うことが多い。たとえば、世の流行に対しても、心のじよう木をもっていれば、之をはかつて(測って)、じよう木にあえばとり、あわねば、いかに勢いの強い流行でも、これに従わない。これ即ち、取捨選択のよろしきを得るゆえんである。しからば、いかにして、じよう木をつくるかと云うにそは(それは)、東西古今の聖賢の教訓によるべきである。聖賢の教訓は尊いものであるから、よく心に入れて、更に日常これを実行して見て、はたして実事実際に適すればこれをとり用い、しからざれば、たとい聖賢の教えといえども、これをとらぬようにせねばならぬ。かくして、たえずこれをねつて(練って)いくべきである」

理紀之助さんは『心のじよう木』をかたくななまでに守り続け、常人では及びもつかない強靭な精神力で生涯を貧農救済に捧げ、「老農」あるいは「農聖」と敬称されたといいます。「老農」とは、在来の農法を研究し、これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた、農業熱心家の人のことを言います。

お釈迦さまは、入滅される前に「自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはならない。仏の教え(仏法)を灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない」と、悲しまれる弟子たちに最後の法話をされました。

自らを灯火とするには理紀之助さんのいう「心の定規」を持たなくてならないでしょう。その「心の定規」というものを手に入れるためには、聖賢の教え、仏教徒であれば仏さまの教えを学び、その教えを日々の生活に照らし合わせ、何が自分にとって本当に大事なことなのかということを自分の中で練り上げていかなくてはいけないということです。

人は何事にも迷うのが常でありますが、自らの中に筋の通った芯(信)がなければ、いつまでも答えを導き出すことができず、苦しみを繰り返します。自分という存在が自分にとっての確かな拠り所となるよう、しっかりとした「心の定規」を持つ為の努力をしていきましょう。

2021-09-01 00:00:00

30.実践を伴ってこそ

 

今、日本ではオリンピックに続いて、パラリンピックが開催されています。私は過去のパラリンピックはテレビでの中継が少なかったということもありますが、ほとんど見た記憶がありませんでした。今大会は東京での開催ということで、テレビで様々な競技をリアルタイムに観ることができ、ハンデを抱えながらもそれぞれが持てる力を最大限に生かし、弛まない努力によって、技術を極められた選手達の素晴らしさに、ただただ尊敬の念をもって観戦しております。

お大師さまのお言葉に 「一芸是れ立つ 五車通し難し」 とあります。
努力により、一つの物事に秀でた人に、五台の車に乗せられるほどの理屈をこねてみたところで決して敵うものではない。
つまり、いくらかっこのよい理屈を重ねてみたところで実践が伴っていなければ、説得力もなく、話にならないということです。

この一言法話もそうですが、僧侶という立場で人さまの前でお話をさせていただく機会のある身として、このお大師さまのお言葉を私自身、しっかりと心に留めていかなくてはと思う次第です。

2021-08-21 00:00:00

29.供養と回向

 

北海道としては考えられない暑さから、お盆に入り一転、涼しい夏となりました。
お盆中、たくさんの檀家さんやそのご親戚が参拝されました。小さいお子さんも手を引かれ、本堂では本尊様に、納骨堂ではご先祖様に手を合わせる微笑ましい姿を見せてくれました。日光院では昔からお盆の13、14、15日に本堂にて30分毎に塔婆供養を行い、お申し込みいただいた方それぞれのご先祖様へご回向(えこう)をさせていただいております。
塔婆供養の「塔婆」につきましては、この一言法話の「14.塔婆について」にて説明させていただきましたのでお読みいただければと思います。

今回は「供養」と「回向」ということについてもう少し詳しくお話いたします。「供養」という言葉はご存じの方が多いかと思います。「回向」はどうでしょう?人によってはあまり馴染みのない言葉かもしれません。また「供養」と「回向」を同じ意味だと思われる方もいらっしゃるように思います。そこで今回は「供養」と「回向」の意味についてお話ししたいと思います。

まず「供養」ですが、この言葉は「供給資養」を略したものです。「供給」はまさしくお供えする行為、「資養」とは相手を大事に思い、助け養おうとする心です。ではその供養をする相手とは誰でしょう?皆さまはきっと「それはご先祖さまです」「亡くなってしまった私の(夫・妻・父・母)です」こう答えられるかと思います。この答えは今の「供養」の言葉の使い方としては間違いとは言えませんが、本来、供養する相手とは悟りを開かれた「仏さま」です。お寺にはご本尊や何体かの仏さま(特に真言宗の寺院には様々な)がお祀りされ、ご自宅のご仏壇には高野山真言宗の檀家さんですと、大日如来、不動明王、お大師さまといった仏さま、お祖師さまがお祀りされていると思います。そういった、仏さま、お祖師さまに対して様々な捧げものを心を込めお供えすることが「供養」です。ちなみに読経することは「敬供養」といいます。
こういった「供養」という善き行いをすることにより私たちは功徳を積むことができると仏教では考えます。俗っぽい言い方をすれば、私たちはこの世で善い行いをすることにより自分の中に功徳というポイントを獲得できるわけです。またその功徳というポイントは、自分の為だけに使うのではなく、この世を旅立たれた方々へ譲り渡す、回し向けることができるとも仏教では考えるわけです。このことを「回向」というわけです。

2021-08-10 00:00:00

28.お盆を迎えて

 

日本の代表的な宗教行事であるお盆の時期を迎えました。
いつからがお盆なのですか?と聞かれることがありますが、これにはいろいろな考え方があります。

八月一日を釜蓋朔日(かまぶたついたち)と言い、地獄の釜の蓋が開く日であり、この日を境にご先祖様のお迎えをし始めます。地域によっては山や川から里へ通じる道の草刈りをし、お盆に家に帰ってこられる故人が通りやすいようにします。

八月七日は七日盆と言います。この日は七夕(たなばた)です。七日の夕方は故人を迎える精霊棚とその棚に幡(はた)をこしらえる日であり、その棚幡(たなばた)がいつしか七夕に転じたともいわれています。また、各家でこしらえた棚の前で僧侶がお盆期間中に読経しお勤めすることを棚経(たなぎょう)といいます。

一般的にお盆と言えば、八月十三日から十五日、或いは十六日までをいうことが多いでしょう。十三日に迎え火でもってご先祖様を自宅に迎え親戚などが集まる中、三、四日間ゆっくりしていただき、送り火でまた仏の世界にお見送りします。有名な京都の大文字焼はまさにこの送り火です。

このように精霊棚をこしらえ、丁寧に迎え火でもってご先祖様をお迎えし、送り火でお見送りをされる方は、地域によっても違いがあるでしょうが、それほど多くはないでしょう。それどころか、このご時世、お盆に親戚一同が集まりゆっくり過ごすということ自体、残念ながら難しいこととなってしまいました。しかし、お盆はご先祖様を改めて大切な存在として最も心寄せることのできる古来より受け継がれてきた宗教行事です。いつまでも大事にしていきたいものです。


2021-08-01 00:00:00

27.因+縁=果

 

北海道の今年の夏はとても暑く、雨がほとんど降っていません。農作物への水分も不足し、農家の方々は大変な思いをされているでしょう。当たり前のことですが、植物は種があって初めて発芽し花を咲かせます。しかし太陽の光や雨など様々な条件が整わなくては、花を咲かせる前にその植物は枯れてしまいます。「因縁」という言葉を皆さんご存じかと思いますが、これは仏教語です。「因」とは「事物を生ぜしめる直接原因」、「縁」とは「間接原因」。必ずこの2つが関係しあって「果」結果が導かれるということです。花が咲くという結果は種を植えるという「因」と様々な条件「縁」が整うことによって導かれたといえるわけです。

1年延期となり、今年の開催の是非も問われた東京オリンピック2020ですが、7月23日に開会式が行われ、連日熱戦が繰り広げられています。テレビのチャンネルをあちこち変えながら、様々な競技を熱心に観戦されている方も多いのではないでしょうか。私もその1人なのですが、4年に1度のオリンピックにかける選手達の活躍は本当に胸を打ちます。また、印象深いことは試合を終えたメダリストや選手の多くから、「私ひとりの力では決してメダルはとれなかった」「支えてくれた方たちのおかげ」「両親や職場の人たちのおかげ」という周りの人々への感謝の言葉が聞かれることです。この舞台に立てたのは、周りの人達のお陰であることを、選手たちは心からそう感じているのでしょう。
オリンピック選手たちの言葉は、自らを取り巻く様々な「縁」への感謝の表れと言えます。オリンピック選手に選ばれるという「果」を得たということは並大抵なことではなく、本人の血の滲むような大変な努力「因」というものがなくてはならないわけですが、そこには周りの協力や様々な条件という「縁」が重なりはじめて成し遂げられたのだといえるでしょう。