一言法話

2021-04-11 00:00:00

16.地獄と極楽

 

前回、お釈迦さまは生まれてすぐに七歩進み、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の世界を超えられたとお話ししました。
六道の一つ、地獄とはどんな世界でしょうか。誰もがおどろおどろしい世界を想像することでしょう。

ある神通力(どんな世界にも行くことのできる特殊能力)を持った男がいました。ありとあらゆる世界に行きつくし退屈していたところ、そうだ、地獄とはどれだけ恐ろしいところなのか見てきてやろう、と思い立ちました。覚悟を決め、地獄に向かった男でしたが、目の前の光景に拍子抜けします。おなかをすかせたであろうたくさんの人たちが、うどんの入った大きなタライを囲んでいます。しかしその手に持たされているのは長さ1メートルもある箸です。長過ぎてなかなかうどんをつかむことができません。やっとつかめたと思っても、周りの人たちの箸が邪魔になり、自分の口に持ってくることができません。おなかがすいているのに他の人の箸が邪魔になり、うどんを食べることができませんから、そのうちにあちこちで箸での突っつきあいの喧嘩が始まりました。男は思いました。「ああ、やっぱり地獄はいやなところだ。こんなところに長居はしたくないな」
気を取り直し、次に男は極楽に向かいます。綺麗な花が咲き誇り、珍しい鳥たちの心地良いさえずりが聞こえるような、さぞかしすばらしいところを想像していた男でしたが、またしても拍子抜けしてしまいます。やはりタライを取り囲む人たち、そして長い箸を持っています。ところがそこは極楽、様子が地獄とは違います。長い箸でうどんをつかみ、自分の口ではなくちょうど届く位置にいる人に食べさせてあげているのです。食べさせてもらった人はそのお返しに、というぐあいにあちこちでの食べさせ合い、ですからみんなおなかも気持ちも大満足、にこにこ楽しそうにしています。男は思いました。「ああ、やっぱり極楽はいいところだ。できればこんなところにずっといたいものだ」

この話は何を言いたいのか、もうおわかりでしょう。一人一人の心がけ次第で自分を取り巻く家庭、そして世界というものは地獄にも極楽にもなるということです。

2021-04-01 00:00:00

15.花まつり

 

今日から新年度、心新たにしていきましょう。
さて、4月8日はお釈迦さまの誕生日です。お釈迦さまは今から約2500年前、花が咲き誇る4月8日に今のインドのルンビニーにお生まれになりました。お釈迦さまの誕生日を祝う法要を「花まつり」或いは「仏生会」といい、日光院では6月15日のお大師さまの誕生日「青葉まつり」に合わせてお釈迦さまの誕生をお祝いしています。
日光院の「青葉まつり」にいらっしゃったことのある方はご存じでしょうが、お釈迦さまの誕生仏とお大師さまの稚児像に甘茶かけをいたします。甘茶をおかけするのはお釈迦さまがお生まれになった時に、天から祝福の甘露の雨が降ったとの逸話に因むものです。
また、お釈迦さまは生まれてすぐに七歩進み、右手を挙げて天を指し、左手で地上を指し「天上天下唯我独尊」と叫んだといいます。人間は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という迷いの六道を輪廻していると仏教では考えますが、七歩進んだということは六道を超え七歩進み、悟りの世界に入ることを意味しております。生まれてすぐに七歩進んだということですから、お釈迦さまは生まれた時から、悟りを得ることが約束されていたということを表しています。
そして「天上天下唯我独尊」ですが、「この世でただ私一人だけが尊いのだ」と解釈してしまうと、お釈迦さまはなんて傲慢なんだろう、ということになってしまいますが、しかし、この言葉にはもっと深い意味があります。
天の上にも天の下にも「我」という存在は唯一人しかいない。それは命あるものであれば皆そうだと言える。世界の全ての人にそれぞれの「我」があり、他の誰にも取り替わることはできない。だからこそ「我」という命は尊いといえる。与えられたこの命が果てるまでその「我」を大切に生きていかなくてはいけない。
というお釈迦さまの思いが、この「天上天下唯我独尊」の言葉に込められています。

2021-03-20 00:00:00

14.塔婆について

 

今年は3月20日が春彼岸の中日となります。今年の春彼岸は、中日の前後3日間、3月17日から23日までの一週間ということになります。日光院では、春彼岸法要を毎年3月21日に執り行っています。これには理由があり、お大師さまが高野山の奥の院に御入定(永遠の定に入られること)されたのが835年(承和2年)の3月21日であり、大切なその日に合わせ、春彼岸法要を行っているわけです。ちなみに、当院の秋の彼岸法要は秋分の日に行っていますので、その年により日にちが変わります。春・秋彼岸法要、そして、お盆には経木塔婆というお塔婆を檀信徒の皆様にお申し込みいただき、法要中にご回向いたします。このお塔婆は本来、ストゥーパ(卒塔婆)といい、お釈迦さまの遺骨を土に埋め、盛り土したもののことをいいます。つまりお釈迦さまのお墓です。この卒塔婆が仏教と共にインドから中国、日本と渡るうちに、三重塔、五重塔そして五輪塔へと形を変えていきます。塔はお釈迦さまの教えを象徴する建造物だと考えられ、昔から財力を持った大名などがお寺に寄進され、功徳を積んでこられた歴史があります。塔婆はそのような塔を簡略化したものであります。塔婆をお申込みになり、浄財をお寺に寄進し法要を営むといったような善の行いを追善供養といいます。こういった行いをすることによって、施主の方が功徳を積み、自分だけでなくお亡くなりになった大切な方々へ、その功徳を回し向け、菩提を弔うことを回向(えこう)というわけです。

真言宗の塔婆にはインドの古い言葉で上からキャ・カ・ラ・バ・アと書かれています。これは五大(空・風・火・水・地)といい、宇宙(あらゆる世界)を構成する要素を表しています。これに精神的存在である識を加え六大といい、真言宗の本尊大日如来そのものを表します。また私達も同じく六大より構成されており、私たちと仏とは本来変わることはない(即身成仏)というのが真言宗の教義であります。

 

2021-03-11 00:00:00

13.正当にこわがる

 

今日(令和3年3月11日)は東日本大震災が起きてからちょうど10年となる日です。
大震災の犠牲になられた方々のご冥福を改めてお祈りいたします。また、ご遺族の当時の悲しみや苦しみ、そして、今現在のお気持ちは、ご本人にしか知る由もないことであり、心中をお察しすることしかできませんが、年月の経過とともに少しでもその悲しみや苦しみが和らいでいかれますよう願うばかりです。

災難は、いつ、誰の身に降りかかるかわかりません。そのことを忘れて私たちは日々を送っています。一度は耳にしたことのある「天災は忘れたころにやってくる」。これは化学者で随筆家の寺田寅彦の言葉だとされています。寺田寅彦は昭和10年、浅間山が爆発した時に記した随筆『小爆発二件』の中で「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」と記しています。「 正当に、こわがることはなかなかむつかしい」。確かにそうだと思います。私たちが受け取る情報は、それが必ずしも正しいかどうかわかりません。また、情報は伝える人、受け取る自分の主観によって歪められてしまうこともあり、正当にものを判断し、そして、正しくこわがることは意外と難しいことなのでしょう。

当院の宮本孝雄住職から、阪神淡路大震災のボランティア活動を行った際の話を何度か聞いたことがあります。テレビでは、被災者に配られたおにぎりがたくさん捨てられている様子が映し出され、被災者に対する批判的な報道がされていた。しかし1月の寒さの中、体は冷え切り、当初、被災者に配られたおにぎりは冷たいものばかりであったため、おなかがすいていてもどうしても喉を通らず、なくなく捨てられていた、ということが実際に行って活動してみて初めてわかったということです。やはり直接その場に行って、その方たちの目線に立ってみないとわからないことは、たくさんあるんだということです。

私たちが恐れるものは、いつの世にもたくさん存在し、無くなることはないでしょう。今のその代表と言えるものが新型コロナでしょう。仏教では、中道といって偏らないものの見方を大切にしますが、寺田寅彦の言葉の通り、こわがらなすぎることなく、かと言ってこわがりすぎることもなく、色眼鏡を外し、正当にものを見定めることを目指し、この世の災難に対処していきましょう。

2021-03-01 00:00:00

12.小鳥の消火活動

 

このところ、日本各地で山火事が立て続けに発生し、たくさんの消防隊員の懸命な消火活動を、毎日のようにテレビで目にいたします。

『雑宝蔵経』というお経にこんなお話があります。
ある山の奥に、たくさんの動物たちが仲良く暮らす森がありました。ところがある日のこと、山火事が起こります。火は次第に燃え広がって、動物たちが平和に暮らす森にも火は迫ってきます。動物たちは、みんなで力をあわせて火を消そうとしましたが、炎は燃え盛り、やがて動物たちの森は、その大きな火に飲み込まれてしまいます。動物たちは火を消すことをあきらめ、森を捨て逃げ始めました。しかし、小さな小鳥が一羽、燃え上がる山火事の中を行ったり来たりしています。小鳥は近くの池に降りては、その小さな翼を水に浸らせ、舞い上がっては巨大な炎に向けて、翼についたわずかな水を落としているのです。動物たちは口々に言いました。
「小鳥さん、馬鹿なことをやめなさい。無駄なことはやめなさい。あんな大きな炎なのですよ。あなたのそんな小さな翼から落ちる水滴で消せるわけがないじゃないですか。早くこちらに逃げて来なさい」
小鳥は、翼も体も炎と煙で真っ黒になりながら答えます。
「私の小さな翼から落ちる水滴でこの山火事が消すことは難しいでしょう。私のやっていることは、馬鹿なこと、無駄なことかもしれません。でも、私はこうしないではいられないのです。消すことは出来なくても、消さなければという自分の想いに正直でありたいのです」
その時、これを見ていた仏法の守護神、梵天は小鳥の真摯な想いに打たれ、大雨を降らし山火事を鎮めたという話です。

私たちはややもすると結果ばかりを追い求め、それが難しいと分かればすぐに諦めてしまいがちです。しかし何事においても、自分がするべきこと、出来得ることをこつこつと行いたいものです。そうすればきっと何かの形で道は開けてくれるはずです。たとえ、そこに結果がともなわなかったとしても、自分の想いに正直な行動を起こしたのであれば、充実感に包まれ、後悔することは何もないでしょう。